文芸批評
島尾敏雄『贋(にせ)学生』
いちばん危機が迫った社会というのは、一見、平和な相貌をしている。
大地は豊かな恵みを人間に与え、物資は潤沢に整い、時間はのんびりと流れ、人々の声は明るい。
ちょうど、太平洋戦争直前の日本がそうだった。
今のわれわれは、あの戦争の悲惨な結末を知っている。
だから、戦争前夜には、多くの国民が不安な思いに駆られていたと思い込みがちになる。
だが、歴史の素顔を眺めてみると、必ずしもそうではない。
戦争は、明るく平和な相貌に彩られた社会の中で、ひっそりと身を隠し、ネズミに近づく猫のように、静かに迫っていったのだ。
危機こそ「優しい顔」で近づいてくる
島尾敏雄の書いた『贋学生』(講談社文芸文庫)という小説を読んでいて、そういうことがよく理解できた。
この小説が刊行されたのは昭和25年(1950年)。
私の生まれた年である。
だから、もう70年ぐらい前の作品ということになるが、私は年を取るまで本作を読んだことがなかった。
どういう小説かというと、著者が昭和11年頃に通っていた長崎高商時代の思い出を描いたもので、前半は、授業をサボって、友人2人と諌早、長崎、島原、雲仙などを旅行したときの思い出が楽しく綴られている。
主人公の「私」は、友人たちと長崎の海の夕凪を楽しみ、町の食堂でオムレツに舌鼓を打ち、旅館の仲居さんの色っぽい仕草にどぎまぎする。
描かれる情景は、どれも古き良き時代の日本の風情をしっとりとたたえ、出会う人たちはみな人情味に溢れ、主人公たちは、旅の楽しい思い出を次々と蓄積していく。
国外退去となった外国人の飼っていた
犬が「野良犬」になっていく哀れさ
しかし、文学者としての島尾敏雄の感性は、そのような平和な日本に、夕暮れの影のように忍び寄る戦争の気配を見逃してはいない。
市民の生き方や思想傾向をチェックする “移動警察(特高)” の刑事が、電車の中で自分たちを見張っていることに気づいたり、戦争の気配を察して退去した外国人が置き去りにした犬が、野良犬として哀れな姿をさらしていることに、やりきれなさを感じたりする。
が、それは、まだ「明確な不安」の形をとっていない。
遊びの余裕さえ漂わせる軍事訓練
旅行から帰ってきた主人公は、校庭で、三八式歩兵銃を担いで軍事訓練に励むが、それは「気持ちの良い汗をかく戦争ごっこ」でしかない。
軍事訓練が終わると、学生たちは街に出て、映画館や喫茶店に寄り、カフェやおでん屋で雑談にふける。
確実に近づいてくる戦争は、ここでは、夏の終わりに、かすかに漂う秋の気配として感知されるだけなのだ。
色づいていた秋の木々が、いつの間にか葉を落としていたことに気づいた時の、いわれのない不安。
“近づく戦争” は、そのような微妙な「空気の変化」としてのみ描かれるに過ぎない。
そのような「日常生活の中に見え隠れする不安」は、考えようによっては、学生という中途半端な身分を生きている主人公(「私」)の不安定さから来るものであり、思春期特有の過剰な自意識の産物であるとも取れる。
しかし、実は、この話を小説としてまとめた時の島尾敏雄は、特攻魚雷艇の指揮官として出撃命令を待っていた人間であり、死を覚悟した人間の心の揺れ動きを見つめる体験を持っている。
▲ 島尾敏雄が出撃するはずだった特攻魚雷艇の「震洋(しんよう)」。
搭乗員が乗り込んで操縦し、目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。
だから、彼は、戦争が忍び寄る時代の「危機感」を、いくらでもはっきりした言葉で指摘できたはずなのだ。
しかし、この小説は、そういう言葉では語られなかった。
そこに、私は逆に、戦争が忍び寄ってくる時代の「空気」というものを教えてもらったように思う。
いやな友人が登場してつきまとう
平和な日常の中に漂う、漠たる不安。
それを、島尾敏雄は、友人の一人である「木乃(きの)」という学生から受ける 言葉にならない違和感” を通して表現する。
木乃は、知らないうちに主人公に近づいてきた同じ学校の学生である。
彼は、およそ、「知的なもの」を感じさせない男でありながら、主人公たちが持ち合わせていない「世間知」を身につけた人間である。
主人公は、木乃を好きになれない。
本能的に、自分たちとは別人種だと感じる。
この木乃という登場人物のフルネームは、木乃伊之吉(きの・いのきち)である。
そもそも、この名前自体が不吉だ。
ミイラを漢字で書くと、「木乃伊」となる。
つまり、作者は、最初から「木乃」という人物を、普通の人間とは異なる存在として描こうとしていたことが分かる。
主人公は、木乃から受けた第一印象は、次のように記す。
「紺のユカタを、歌舞伎の女形のように、胸元まできっちりと合わせ、人間というより、紫のかたまりが、ぼうっと入ってきたようだった」
この表現のなかに、すでに、木乃が普通の人間から逸脱した何かを感じさせる存在であることが伝わってくる。
「いやなヤツだ。この人とはつき合うべきではない」
主人公の「私」は、そう直感する。
しかし、いつの間にか、私生活のすべてが木乃のペースで進むようになり、彼の巧妙なウソ … ということは後で分かるのだが、… そのウソに巻き込まれて、最後は主人公の友人や、実の父親、そして妹まで、奇妙な体験を重ねるようになる。
だが、ウソをつきまくって、周りの人々を狂奔させる木乃の目的が、果たして何であったのか、それは最後まで「謎」のまま残される。
「贋学生」は何を意味したのか?
彼は天性の詐欺師であったが、その詐欺行為には “営利” の匂いはまったくないのだ。
この木乃という男が、実は贋(にせ)学生であることが最後に明かされるのだが、そのことによるストーリー的な面白さよりも、むしろ、その木乃の身辺から流れ出てくる存在論的な不安感そのものが、何よりも、ここでは「忍び寄る戦争の影」そのものであることが伝わってくる。
戦争が近づいてきているというのに、あくまでも平和に見える社会の “言いようのない” グロテスクさ。
その気持ち悪さを、島尾敏雄は、木乃という贋学生のグロテスクさと重ね合わせている。
▲ダリ(内乱の予感)
もちろん、木乃は、近づく戦争の「寓意」ではない。
「暗示」でもなければ「比喩」でもない。
しかし、戦争前の日本の空気には、どこか「グロテスクな匂い」があり、それは木乃という男が発散する体臭と同質のものだった、と作者はいいたいのだ。
▲ ベルイマンの『沈黙』の1場面。
平和な町の街路に突如登場して去っていく戦車。
この戦車が何を意味しているのか観客には解らない
今の “平和な時代” に、どのような危機が紛れ込んでいるのか、それは誰にも分からない。
しかし、これだけ「平和」なのに、誰もがそれに安住せず、常に漠たる不安を感じて生きているということは、なんらかのカタストロフ(悲劇的な結末)が迫っていることを示唆しているのではないか。
島尾敏雄の『贋学生』をのどかなカフェに座って読みながら、ふと青空を見たりしたときに、そんなことを考える。
参考記事
戦争を体験した作家たちの小説 (↓)