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ボブ・ディランという「荒野」 

ディランの声は何を意味するのか

 

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 ボブ・ディランというアーチストを語ることは、私にはとても難しい。


 ビートルズのデビューとほぼ同じ頃に登場し、60年代、70年代を代表する数々の名曲をリリースし、現在も第一線で活躍するスーパーアーチストなのだが、なぜか私は、ボブ・ディランという歌手を自分の中にどう位置づけたらいいのか、いまだによく分からない。
 
 彼の歌を聞いていると、なぜか「歌」とは異なる “別の何か” を聞いている、と思うことが時々あるからだ。
 
 それは、凍てついた荒野の彼方(かなた)から、闇を突き抜けて響いてくる、正体定かならぬ者の「叫び」のようなものかもしれない。
 母親に、「誰も叫んでいませんよ。安心して眠りなさい」と言われながらも、ふと目を覚まし、耳をすませると、山を越え、谷をくぐり抜けて、枕もとに忍び寄ってくる声。
 そういうものを感じることがあるのだ。

 

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カバーする歌手の歌で
知られるようになったディラン

 
 ボブ・ディランの曲がラジオから流れ出したのは、本人の歌ではなく、それをカバーする人たちの歌からであった。

 

 PPM(ピーター・ポール&マリー)の『風に吹かれて』
 ザ・バーズの『ミスター・タンブリマン』
 ジミ・ヘンドリックスの『見張り塔からずっと(All Along The Watchtower)』
 ザ・バンドの『アイ・シャル・ビー・リリースト』

 

 みんないい曲だなぁ と思って、それらの曲をコレクトした自分のオリジナルテープなどを作っているときに、ふと気がついた。
 気に入った曲は、みなボブ・ディランが作ったものだった。

 

 気になったので、ディランのオリジナルと、カバー曲を聞き比べてみた。
 カバー曲を歌うミュージシャンの多くは、メロディラインを忠実になぞりながら、歌詞もしっかり聞き取れるクリアな声で歌っていた。

 

 
ぶっきらぼうな歌い方、挑発的な歌詞

 

 ところが、ディランのオリジナルはどこか崩れていた。聴衆に罵声を浴びせるように、わざとぶっきらぼうに歌っている気がした。
 それが嫌だな と思った。

 後から思うと、私はボブ・ディランの “歌声” が怖かったのだ。
 その声には、
 自分を脅かすもの、
 自分を安住の地から連れ出そうとするもの、
 自分のアイデンティティを奪おうとするもの、
  の “気配” が充満していた。

 

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 そこから次々と疑問が湧いた。
 
 ボブ・ディランが、なぜアメリカで人気を保っているのだろう ?
 日本にも熱狂的なディランファンがいるのは、なぜだろう ?
 彼のいったい何が、多くの人たちから評価されているのだろう ?
 彼の魅力を読みとれない自分には、何が欠けているのだろう ?

 ようやく、私はボブ・ディランというアーチストの「謎」にたどり着いたのだ。

  

 

ボブ・ディラン人気の秘密に迫る


 ボブ・ディランの曲が、なぜアメリカ人に人気があるのか ?
 (ちなみに、2007年のアメリカの「ローリングストーン・マガジン」誌が選んだ、「ロック史上最も偉大な500曲」のベスト1に選ばれたのは、ボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』だった)

 彼の歌が、なぜアメリカ人に評価されるのかという問に対する答は、ある程度簡単に出せる。
 
 ボブ・ディランが 「英語」で歌っているからである。


 つまり、英語が聞き取れない私などは、彼の歌をただの「音」としてしか捉えられないのに対し、アメリカ人たちは「詩」として聞く。つまり彼らは、詩を通して伝わる 「意味」 をつかんでいる。
  
 「意味」が分からなければ、ディランの歌の “良さ” は理解できない。
 そのことに気がついて、歌詞カードをいくつか拾ってみると、確かに、不思議な光彩に満たされた世界を語る歌詞が多い。
 
  が、何をいいたいのかよく分からない。 
  

詩的で難解な歌詞

 

 初期のプロテストソングですら、政治権力や社会体制に対する抗議の中に、意味不明の哲学的、文学的なフレーズが入り込んでくる。

 

 こんな難しい歌を、ポピュラーソングとしては単純明快なカントリー&ウエスタンの伝統しかないアメリカ人が理解できるのか ?
 そんな気すらした。

 

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 そういうふうにディランを聞いているうちに、私の思考は、やっぱり最初の問に戻っていった。
 すなわち、ボブ・ディランの作った曲を、他のアーチストがカバーすると、なぜ心地よく聞こえ、ボブ・ディランが歌うと、なぜ “落ち着かない気分” にさせるのか ということだった。

 

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荒野のディラン

 

 そのうち、ぼんやりと だが、ひとつのイメージが固まってきた。
 ディランは、砂漠を横切り、サソリを食べ、岩の夜露を飲みながら人々に神の声を届けようとしている “預言者” なのだと気づいた。
 
 そう思ったのは、次の一節に触れてからである。
 『新約聖書マタイによる福音書』 10章34節から39節。

 

 マタイ伝のイエスは、こういう。

 

 …… 私が来たことを、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 私は、父を、娘と母を、嫁としゅうとめを “敵対させる” ために来たのだ。
 私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。
 私よりも、息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
 また、自分の十字架を担って、私に従わない者は、私にふさわしくない。
 自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る……
  
 人に「愛」と「平和」を説いていたはずのキリストが、なぜ、このような不安に彩られた教えを、突然語ったのか。
 家族をいつくしむことを説いていたはずのキリストが、なぜ、家族を引き裂くような教えを語ったのか。

 

 
ディランは「マタイ伝」のマタイである

 

 私は、ある思想書にこの一節が引用されているのを読んだとき、とても奇妙なものを感じたと同時に、目のまえに突然「荒野」が広がったような、身の引きしまるような戦慄を感じたことがあった。

 

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 キリスト教というものにさほど関心を持たず、「困ったときに助けてくれるもの」というぐらいの、素朴な信頼感しか持ち合わせていなかった私は、この一節に、イエス・キリストの厳しさと怖さを感じた。


 しかし、その「怖さ」は、人を強力に引き寄せてしまう、抗(あらが)いがたい「力」から来るもののようにも思えた。
 
 家族の呪縛から解き放たれた、孤独と向き合う「場所」 
 思考を閉ざす微温的な愛に自足せず、真理を見すえる「場所」
 この世の掟(おきて)が通じない、絶対的な「場所」
 
 その場所がどんな所なのかよく分らないけれど、キリストの言葉は、「人間には、とにかく跳ばないことには着地できない “場所” がある」
 ということを教えているように感じた。
 
 ボブ・ディランの、あのぶっきらぼうな、人を突き放したような「声」は、まさに「跳ばないと着地できない場所」から響いてきたような「声」だったのだ。

 

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耳を澄ますと枕元に届く声

 

 彼の歌が、なぜ私を不安な気持ちにさせるのか。
 その声が、なぜ自分を「安住の地」から引き離すようなものに聞こえてしまうのか。
 
 それは、「剣を持ち、家族を引き離すためにやってきた」というマタイ伝のキリストの言葉を連想させたからである。
 そして、それが私にはまた、人間に「自立」を促がす言葉であることも分っていたのだ。

 

 いつかは、親元を離れ、 つまりは充足された「共同体」を離れ、独りで「荒野に立て」という教えでもあることに気づいていたのだ。
 そのことに気づいても、気づいてない振りをしていたから、それが「不安」に感じられたのだ。

 

 ディランのぶつぶつと歌うあのつぶやきの歌は、まさにユダヤ教キリスト教の風土である「荒野」の声だったのだ。

 

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歌詞に宿っている “超越性”

 

 その証拠に、ディランの歌詞には、どこかこの世をどこか別の場所から眺めるような「超越者」の視線がある。

 

 たとえば、
 ノックしながら天国の扉を見つめる “ビリー・ザ・キッド” (天国の扉)。
 西から昇る (!?) 太陽を浴びて解放される “私” (アイ・シャル・ビー・リリースト)。


 道を行く騎士や女たちの姿を監視塔の上から眺める “王子” (見張り塔からずっと)。


 いつになれば空が本当に青く見えるのか ? と問う “男” (風に吹かれて)。

 

 そこには、歌の中で登場する主人公が、普通の視線では視ることのできない不思議な世界を視ている様子が描かれている。

 そのような、「見る主体」と「見られる対象」の絶対的な乖離(かいり)を伝える “まなざし” があってこそ、あの歌い方が選ばれたのだと思う。

 

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 私は、夜ディランのその声を聞くと、どこか遠いところに連れ去られるような気がしてくる。
 それが怖い。
 だけど、行かなければならない。
 そう思う。
 今日でなければ、いつの日にか。

 

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