「平成」という時代もあと数日というときに、NHK制作の『平成万葉集』(BSプレミアム)という番組が放映された。
俳優の生田斗真と吉岡里帆が、素人の短歌を中心に拾い上げて朗読し、かつ実作者を訪ねてインタビューするという企画で、何回かに分けて放映されたようだが、私が観たのは、そのうちの4月24日分。
いやぁ、びっくり !
現代日本で、短歌がこれほどまでに若い人たちに浸透していたとは驚きであった。
今回のテーマは「女と男」。
キャッチタイトルどおり、「恋愛」を採り上げた作品もあったが、思春期を迎えた若者が「性」を意識するきっかけとなった気持ちの変化を観察するような歌が目立った。
短歌を始めたばかりだという2人の女子高生の歌がすごかった。
メモを取ったわけではないので、歌の内容まで再現できないが、1人の少女は、10代の後半を迎え、自分の身体が少しずつ大人の肉体になっていくのを不安な眼差しで眺めつつ、一方で「大人の性」への期待が膨らむ微妙な心理を巧みに歌っていた。
もう一人の少女は、異性に下着を脱がされることを想像し、相手の動作に「優しさ」を期待しつつも、相手の激しい衝動がそこに感じられることも渇望する。
二人とも性体験はゼロ。
もちろん付き合っているような男子生徒も存在しない。
だから、妄想といえば、妄想。
しかし、そこには熱量が感じられる。
そういう歌には、「危うさ」と「たくましさ」が同居するときの美しさがある。
それを「若さ」というのだろう。
彼女たちは、若者が日常的に使うラインやツィッターのような伝達手段では伝えきれない情報があることを、「歌」を通じて把握していると思った。
つまり、「おのれの心」というものを、誰かに … あるいは自分自身に伝える手段を確保したのだ。
二人とも、短歌に出会うべくして出会ったという気がする。
もし、こういう出会いがなければ、鋭い感受性に恵まれた少女たちがゆえに、世の中を殺伐としたものと捉えて傷ついていたかもしれない。
文学作品のなかで、なぜ短歌が親しまれるようになってきたのか。
小説を書くには忍耐力が必用。
詩(ポエム)というのは、ちょっとお洒落すぎる。
短歌と似たようなジャンルでは俳句もあるが、俳句は、なんだか天才的なひらめきが要求されるように思える。
なにしろ、五・七・五の17字で勝負しなければならない俳句は、言葉を “切り捨てる” 鬼にならなけば挑戦できない。
その点、五・七・五・七・七と、31文字まで余裕のある短歌は、俳句よりも幾分 “間口” が広そうに思える。
そもそも、五・七・五・七・七というリズムは、日本語のリズムの原型を成している。
言葉をリズムとして感受することは、脳の活性化をうながす。
つまり、短歌をひねるのは、日本人にとって、生理的快感でもあるのだ。
そんなことを感じつつ最近つくった自作の歌を何首か披露したい。
へへへ … である。
(↑ 照れ笑い)
サンショウウオを 見ていた妻が振り返り
私に対して放った一言 「似てる」
われ老けて タカハタミツキ と ヒロセスズ
アリムラカスミ と ツチヤタオ 名前と顔が一致せず
朝早く、会社にでもいくつもり?
それはイヤミか 定年のオレに
婦人向け下着売り場から目を逸らす
妻の視線を感じたゆえに
ツマミなし 一杯だけのコップ酒
外れ馬券がまだ捨てられず
新緑の林にたたずむブロンズ像
動物園の喧騒もそこには届かず
原っぱの木漏れ日浴びて まどろむブランコ
児らを待ちつつ 退屈そう
この算数 どうして正解出せないの
子供と一緒に怒られる俺
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