仕事中にパソコンを見ているときも、居間でテレビを観ているときも、突然こっくりと居眠りをする私である。
もちろん、すぐに目が醒める。
しかし、いつのまにか、再びうつらうつらしている。
年をとるということは、生活の中に、「眠り」が忍び寄ってくる回数が増えることをいうのかもしれない。
▼ 眠る人 1
「眠り」は「小さな死」ともいう。
その眠りが、頻繁に日常を浸すようになるということは、刻一刻と、死が、緩慢な足取りながらも、確実に近づいてきているということなのだろう。
で、この居眠り。
なんとも奇妙なものをもたらす。
▼ 眠る人 2
眠りに入る瞬間に、思考回路が突然ビッ! と別の配線につながるのか、日頃考えたこともないような、すごいアイデアが生まれることが多いのだ。
「今までそんなことを考えたこともなかった! 使えるぞぉ!」
と、小踊りするようなアイデアがひらめくわけである。
しかし、それを詳しく思い出そうとすると、実は、跡形もなく消えている。
残っているのは、“すごいことを考えた!” という「感覚」だけなのだ。
これはただの「夢」なのだろうか。
▼ 眠る人 3
夢の中では、合理と非合理の境界が崩れる。
人間が覚醒しているときに知覚する “遠近法” が壊れ、見るモノ触れるモノが、現実世界と異なる距離感や素材感を獲得する。
その夢の体験が、日頃は考えたこともないような斬新なアイデアを思いついたという “感覚” として、脳の片隅に漂うのかもしれない。
早い話が、「錯覚」である。
若い頃は徹夜がきいた身体も、年をとると睡魔をはねのける力が乏しくなる。
どんな場所でも、どんな時間帯でも、意地きたなく眠りこける。
そして目が覚めるたびに、「すごいアイデアを思いついた!」という感覚だけが蓄積していく。
▼ 眠る人 4
だが、その感覚には、「実態」がない。
現実的には、何一つ新しいものを生み出すわけではない。
「いいアイデアだったんだが、またそれを実現する機会を失った …… 」
何もかも枯渇したのに、まだ、どこかに秘められている(はずの)自分のポテンシャルに対する未練だけが残る。
老いるとは、そういう形で、少しずつ社会と乖離(かいり)していくことなのかもしれない。
いい歌ができたと起きてペンもつも
夢のごとくに消えてしまえり