アートと文藝のCafe

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短歌とは狂気を飼いならす作業である

  

 短歌作家 穂村弘の『ぼくの短歌ノート』を、この前ようやく読了した。

 この本については、一度このブログで触れた(↓)。 

 

 https://campingcarboy.hatenablog.com/entry/2019/01/29/072856

 

    そもそも、読み始めたのは、ちょうど1年前だ。
 つまり、1冊の本を読むのに、丸1年費やしたことになる。

 

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 なんで、それほど時間を要したのか。
 紹介されている一つの短歌を味わうのに時間がかかったからだ。

 

 この本を開くのは、散歩に出かけたついでに立ち寄った喫茶店などが多い。
 そこで、印象に残った短歌に出会うと、本を閉じ、窓の外に広がる木立などを眺めながら、心のなかで反芻する。

 

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 そういう “贅沢” を味わうための本だから、急いで読み終えてしまうのが惜しかったのだ。
   

 
 なぜ、短歌に惹かれるのか。
 それは、短歌という文芸形式が、「答のない謎」だからだ。

 

 言葉の数でいえば、短歌を構成する文字は31文字。
 作者は必ず 五七五七七 という文字数のなかに収めなければならない。
 
 31文字しか使えないのだから、余計な言葉は捨てるしかない。 

 

 そのとき、“捨てられた言葉” が、山の斜面にこだますエコー(残響)のように震えながら、読者の意識の底に降りていく。

 

 つまり、短歌に触れるというのは、言葉としては拾うことのできないエコー(残響)に耳を傾ける作業なのである。

 意識の底に降りてしまった言葉には、美しさは残っていても、意味が残っていない。
 それは、「答のない謎」に向き合うようなものだ。
  

  
 たとえば、この本には、こんな歌が紹介されている。
 
  三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ
   (荻原裕幸 作)

 

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 三越デパートの入り口には、確かにライオンのブロンズ像が左右に置かれている。
 そこで人と待ち合わせなどしていると、つい手を伸ばして無意識にそのライオンを撫でてしまう。

 

 たったそれだけのことを述べた歌なのに、「何の力だ」と結んだとたん、ライオン像が魔法の生き物に変わる。

 

 この歌に批評を添えた穂村弘氏は、こう語る。

 

 「何の力だと指摘されなければ、そんな風には意識しなかったのに、この言葉が出てきたとたん、ちょっと怖くなる。触りたくなるのはライオンだからなのか。ラクダだったらどうか」

 

 穂村氏が言おうとしているのは、この「何の力だ」という言葉の前後には、文字として記録されることなくエコー(残響)となって散っていった無数の言葉があるということなのだ。

 

 その “言葉の形をとらなかった無数のエコー” が、ただのブロンズ像でしかないライオンに不思議な生命力を注入している。
 だから、読者は無意識のうちの、このライオン像に “魔物の気配” を嗅ぎ取ってしまう。

 
 こんな歌も収録されている。

 

 ・間違って押してしまった階数にきちんと停まる誰も降りない
  (礒部真実子 作)

 

 この歌も、当たり前の現象をそのまま歌っているにすぎない。
 なのに、読んでいると、妙な胸騒ぎがする。
 背中をそぉっと冷気が通り過ぎるような怖さもある。

 

 この “怖さ” の正体を、穂村弘氏はこう説明する。

 

 「間違って押してしまった階数でエレベーターが停まったとき、目の前にぽっかり開いたのは、実はもう一つの人生の入口だったのではないか。
 ぼんやりと立っている<私>の横を通り抜けて、もう一人の見えない<私>が降りていったのかもしれない」

 

 穂村氏の解説を待つまでもなく、この歌が、日常の光景に隠れた非日常を歌っていることは明白である。

 

 「誰も降りない」
 という言葉のなかに、すでに「誰か」がたたずんでいる気配がある。
 穂村氏は、それを<もう一人の私>と説明したが、<私>などという存在とはもっと別の、それこそ言葉では説明できない “何者” かが、じっと<私>の背後に息を潜めているようにも思えてくる。

  
 こんな歌はどうだろう。

 

 ・いま死んでもいいと思える夜ありて異常に白き終電に乗る
  (錦見映理子 作)

 

 一読しただけでは、この歌の真意を測ることは難しいかもしれない。
 ただ、作者の精神に “ただならぬこと” が起こっていることだけは分かる。

 

 これに関しては、穂村弘氏の解説をほぼ全文載せよう。

 

 「“いま死んでもいい思える夜ありて” とは、<私>の身に一体何があったのだろう。この歌の底には異様なテンションがある。
 文体が静かでどこか虚ろな分、こいつは本気だという感じが伝わってくる。
 最大の読み所は “異常に白き終電” だろう。
 確かに、“終電” の車内は深夜にしては明るいものだが、ここではそれ以上の非現実的な白さが感受されている」

 

 穂村氏も、謎の多い歌であることを認めている。
 
 そして、一つの解釈として、この “異常に白き終電” とは、“いま死んでもいい” という思いを秘めた<私>の脳から、何か特殊な麻薬的物質が分泌されているために感じられたものではないか? 
  と付け加えている。

 

 もちろん、作者以外に、この「異常に白き終電」の謎を解くことはできない。
 もしかしたら、作者にも “白き終電” の謎は解けていないのかもしれない。

 

 だからこそ、短歌というものは面白いのだ。
 「謎」の奥に、さらに「謎」がある。
 作者にすら解けない「謎」というものもある。
 謎と謎がエコー(残響)となって響き合い、美しい韻律に姿を変え、読者の無意識の淵に沈んでいく。 
  

 選者の穂村氏も衝撃を受け、私もまたびっくりした歌がある。
 
 ・畳のへりがみな起ち上り讃美歌を高らかにうたふ 窓きよき日よ
  (水原紫苑 作)

 

 穂村氏の感想を紹介しよう。

 

 「一読して、異様な高揚感に圧倒される。ここまで引用したどの歌よりも現実世界の理を覆す度合いが激しい。
 “畳のへり” が “みな起ち上り” とは、いかなる状況だろう。
 壁のようにずずっと伸び上がったのか。しかも “讃美歌を高らかに歌ふ” とは、“畳のへり” は和風に見えてクリスチャンなのか。
 この歌の特徴は、ハイテンションでありながら、その理由が読み取れないところにある。
 失恋とか、キスとか、青春とか、死とか、そういう背景がまったくわからない。
 強いていえば狂気だろうか。
 結句の “窓きよき日よ” には、この世の因果関係を寄せ付けない危うい至福感が充ちている」

 

 短歌の方も衝撃的だが、それを読み解こうとする穂村氏の解説も秀逸である。
 原文がはらんでいる「謎」には手を付けず、「謎」の味わい方だけに目を凝らしている。
 さすが歌人である。

 

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 短歌がはらんでいる「謎」とは、「狂気」の別名かもしれない。
 誰も、人間の「狂気」がどこから来るのか知らない。

 

 そもそも、「狂気」とは “出自の分からない感情” のことを指す。
 「喜怒哀楽」のすべての要素を持ちながら、そのどれにも所属しないのが「狂気」だ。

 

 「狂気」は、「喜怒哀楽」の彼方にある。
 だからこそ、恐ろしくもあり、崇高でもあり、哀しく、美しい。
 
 短歌の制作とは、その「狂気」を飼いならす作業である。