俳句とか短歌が持っているなんともいえない情感が好きである。
病院などに入院して、退屈な午後をやり過ごしているとき、デイルームなどで拾った週刊誌などを開いていると、必ず短歌や俳句のページに目が行く。
病院という閉鎖空間に閉じ込められていると、週刊誌の時事ネタやスキャンダルネタに目を通すよりも、短歌や俳句のページを開いている方が、心が “旅する” ような気持ちになるからだ。
昔、入院中に、『サンデー毎日』(2016年10/30号)の “サンデー俳句王(はいきんぐ)” というページで、次のような句を拾った。
まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ
作者は高野素十(たかの・すじゅう)。
俳句という文芸にうとい私にとってはじめて聞いた作者だったが、この句を選んだ石寒太(いし・かんた)氏の解説によると、高野素十は、1895年に生まれて1976年に亡くなった茨城生まれの歌人だとか。
たぶん『サンデー毎日』を読まないかぎり、一生知ることのなかった作家であったかもしれない。
この句のインパクトは何か?
それは、100%情景しか詠(うた)っていないことの鮮烈さである。
描写されているのは、「まっすぐな道」と「秋の暮れ」の二つだけ。
それを見て、「面白い」とか「さびしい」とか「悲しい」とか「切ない」などという作者の詠嘆は一言も詠われていない。
なのに、この句が孕んでいるとてつもない “さみしさ” は、いったいどこから来るのだろうか?
これを病院のデイルームで読んだとき、鳥肌が立つような切なさに襲われた。
目に浮かんでくるのである。
晩秋の弱々しい陽射しに照らされた、何の変哲もない直線路の寂寥感が。
とにかく、構成がうまい。
最初の「まっすぐな道」という一言では、まだ何も語られていない。
しかし、それに続く「に出(い)でけり = に出てしまった」という言葉で、にわかに読者の心にさざ波が立つ。
おそらく、この句の読み手(主人公)である人間は、それまで、うねうねと曲がった見通しの悪い田舎道でも歩いてきたのだろう。
ところが、突然視界が開け、そこに見通しの良いまっすぐな道が現われた。
それは読み手に、なにがしかの驚きをもたらした。
その驚きとは、“見通しが良いのに誰もない” という「さびしさの発見」がもたらすものである。
「誰もいない」ということが、どうして分かるのか?
もし、直線路に人がいたり、牛がいたりすれば、「道」ではなく、見たものが語られるはずだからだ。
この “不在感” が、この句の最大のポイントである。
「出でけり」 = 「出しまった」という途方に暮れた感じの言葉づかいが、詠み手の “心細さ” のようなものを表現してあまりある。
そして、ひっそりとした直線路が、“弱々しい秋の陽光に照らされている” という終句で飾られることによって、寂寞たるさしびさが完成する。
「まっすぐな道」はなぜさみしいのか?
それは、見通しが良いのにもかかわらず、目が何も捉えることができないからだ。
「見えるはずだったのに、何もなかった」
人間の感じる “挫折” というものを一言で言い表せば、そういう言葉になろう。
「視界が良い」ということは、「さびしい」ということでもあるのだ。
この “一本道のさびしさ” は、また多くの画家が好んで取り上げる画材の一つでもある。
たとえばエドワード・ホッパー(1882~1967年 アメリカ)の描く道。
上のような絵とからめて、再び前の句を読んでみると、また新しい感慨も湧いてくる。
まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ
絵画などを眺めながらこの句を噛みしめてみると、見通しの良い直線路こそ、むしろ「迷宮の入り口」ではないかという気分になってくる。
この句を取り上げた石寒太氏は、同じテーマを追求した句として、次の二句も挙げている。
この道や行く人なしに秋の暮れ (芭蕉)
まっすぐな道でさみしい (山頭火)
ともに、秋の寂寥感(せきりょうかん)のようなものが色濃く立ち込めて来る句である。
関連記事