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「平成」は現代の「平安時代」だった?

 平和ながらも、人々の不安が増大した時代。
 「平安」も「平成」も、そんな印象が強い時代であったように思う。

 

 ただ、794年に始まる「平安時代」といわれる歴史区分のなかに、「平安」という元号があったわけではない。

 
 平安時代というのは、「延歴」から「文治」まで約90の元号が続いた時代の総称で、そのなかに「平安」という元号はない。

 

 しかし、人々の精神状態や文化状況を考えると、「平安時代」と「平成時代」はかなり似ているところがある。


▼ 優雅な貴族文化が栄えた「平安時代

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対外戦争がなかった時代

 

 ひとつは、平成天皇がおっしゃったように、ともに「戦争のない時代」として、国民の記憶に残る時代になったということだ。

 

 日本の近代史では、「明治」も「昭和」も大きな対外戦争に直面した。
 比較的平和だったといわれる「大正」時代も、(局地的な参戦であったが)日本は第一次大戦に関わっている。

 

 しかし、「平成」という時代は、対外戦争のない時代のまま終わろうとしている。

 
 そういった意味で、「平成」は、どこの国とも戦争することなく、390年の平和を維持した「平安時代」の短縮版だといえないこともない。

 

 だが、「戦争がない時代」が、必ずしも健全で安定した時代であったかどうかというのは、また別の話である。

 

 平安時代を振り返ってみると、400年近く大きな戦争こそなかったものの、その時代を生きた人たちの精神状況が安定していたとはいえない。

 

 
平安時代には「怨霊」と「鬼」が実在していた

 

 「平安時代」という言葉から、われわれは優雅な貴族文化が繁栄した時代だというイメージを思い浮かべがちである。

 
 しかし、庶民生活においては、飢饉や疫病への不安が増大し、世情の混乱を背景に、怨霊と鬼が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)した時代でもあった。


黒澤明の映画に出て来る荒れ果てた羅生門(1950年)

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 すでによく知られたことだが、平安時代というのは、時の実力者であった菅原道真遣唐使を廃止したことなどもあって、国風文化が栄えた。


遣唐使

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 合理的な思考を重んじる中国風文化が薄められていった結果、平安時代は日本古来の土俗的な精神文化が復活するようになった。

 

 たとえば「鬼」というのは、中国では「死者の霊魂」を指す概念であったが、日本では、古来の土俗信仰などと融合し、「人を食う異形の怪物」というイメージで語られるようになっていく。

 

 人々の心の中に、「鬼」や「怨霊」が実在した時代。
 私は、平安時代という時代をそう理解している。

 

 だから、天皇をはじめとする都の貴族たちは、人間に災いをもたらす「鬼」や「怨霊」を恐怖し、貴族たちの政治行動の大半は、それに対処する加持祈祷(かじきとう)に費やされたといっても過言ではなかった。

 

▼ 映画『陰陽師2』(2003年)に登場した鬼

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「生霊」というのは幽霊か? 人間か?

 

 このように「鬼」や「怨霊」の祟りが日常化していく背景には、疫病、地震、落雷、干ばつといった自然現象があったが、社会生活上の混乱が続くと、人間はどうしても疑心暗鬼になってしまい、次第にオカルト的な考えを引き寄せがちになる。

 

▼ 映画『陰陽師』に登場した生霊

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 日本に「生霊」という思想が誕生したのも平安時代だった。
 紫式部は、『源氏物語』のなかで、人が生きたまま「怨霊」になるというアイデア六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)という人物に仮託して、日本ではじめて創造する。

 

六条御息所は能の世界ではしばしば「般若」の面で表現される 

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 それがきっかけとなり、生きた人間ですら、「あの世の闇」を抱えた存在であるという認識が日本人に広まるようになった。

 

 これをもって、「ホラーの誕生」といっていいかもしれない。

 

 死者が祟るのが「怪談」であったとすれば、「ホラー」は、死者の祟りすら超える恐怖をもたらす “生きた人間”  がこの世に現われる物語だといえる。

 

 
平成もまたオカルト的な空気とともに始まった


 「平成」もまた、「人間が生きたまま化け物になっていく」という社会不安とともにスタートした。

 

 1988年(昭和63年)、宮崎勤という “オタク趣味” を持っていたとされる若者が幼女の連続殺人事件を起こす。

 

 1989年(平成元年)、宮崎は、逮捕後の公判で犯行を認めながらも、その動機を「夢の中でやった」「ネズミ人間が現れて指示した」などと、錯乱した供述を続け、精神鑑定を受ける。

 

 しかし、鑑定の結果もあいまいなままに終わり、けっきょく、その供述が真実なのか虚偽なのか分からないまま、彼は死刑判決を受ける。

 

 犯罪心理の専門家は、これを「昭和」と「平成」を分ける象徴的な事件だったという。

 

 つまり、昭和的な犯行が、「物取り」や「怨恨」といった動機のはっきりしたものであったのに比べ、平成の犯行は、容疑者本人ですら、自分自身の心の<闇>を解き明かせないようなものに変わっていった。

 

 
国際社会から孤立すると人の心は内向きになる

 

 そこには、時代の閉鎖感も関わってくる。
 平安と平成の精神文化を並べてみると、ともに対外的な開放感を失い、人心が内向きになっていく時代であったことが分かる。

 

 平安時代が、当時の世界帝国であった中国(唐)の文化の影響を脱して国風文化になじみ始めた時代だったとするならば、「平成」もまた、国際社会から孤立した社会に向かい始めた時代だった。


 「平成はグローバル化時代の幕開けであった」という説もあるが、逆である。
 平成は、世界のグローバル化から取り残された時代の始まりだったのだ。 

 

 昭和の時代には、あれほど国際競争力を誇った日本企業は、平成になると、のきみな地盤沈下を起こすようになる。

 

 平成3年(1991年)から平成4年にかけて、世界的なブランド力を誇った日本企業の大型倒産が相次ぎ、どこの会社でも「リストラ」「事業所閉鎖」「希望退職」などという言葉が飛び交うようになった。

 

 その理由は、この時代、ソ連共産党が解体されて東西冷戦が終結し、地球全体がすべて資本主義国となったためである。

 

 日本企業は、東西冷戦を前提とした組織作りで勝ち抜いてきたため、このような、“世界同時資本主義” というメガコンペティションが吹き荒れる状況に乗り遅れてしまったのだ。

 


天変地異が次々と日本列島を襲う

 

 さらに、平成になって、天変地異が重なる。
 平成5年(1993年)には記録的冷夏。
 翌6年には、記録的猛暑。
 自然の猛威が、人間生活を脅かすような出来事が次々と日本列島を襲うようになる。

 

 決定的な悲劇が起こったのは平成7年(1995年)。
 その年の1月に、「阪神淡路大震災」が関西を襲った。

 

 これによって、神戸を中心とした関西経済圏は消滅。
 鉄壁の信頼性を寄せられていた都市のインフラも壊滅状態になり、日本の安全神話が崩れた。

 


オウム真理教酒鬼薔薇聖斗事件

 

 世の中が不安定になるときには、人々の精神面も恐怖と不安に満たされる。
 それを象徴するのが、同じ平成7年(1995年)に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件だった。

 
 さらに、警察庁長官の狙撃事件が続いて起こる。
 (この犯人はいまだに特定できていない)

 

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 政情が不安定になってくると、人々は政治にも、お笑い的な “明るさ” を求めるようになり、 平成7年の知事選では、大阪府知事にお笑いタレントの横山ノック氏が当選。
 
 一方の東京都知事には、お笑い作家の青島幸男氏が選出され、いっときの話題性を集めたものの、ともに議会に混乱をもたらせただけで姿を消していく。

 

 都市整備も、犯罪捜査も、政治家も、すべて不透明な霧に包まれはじめ、日本はだんだん、魔界の怨霊たちが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する平安時代に近づいていく。
  
 それを象徴するような事件が、平成9年(1997年)に起こる。
 神戸連続児童殺害事件である。

 

 これは、犯人が「酒鬼薔薇聖斗(さかきばら・せいと)」と名乗る犯行声明文を地元新聞社に送ったため、“酒鬼薔薇事件” とも呼ばれた。 

 

 この事件は、通り魔に襲われて死亡した複数の小学生のうちの一人の頭部が切断されて、地元小学校の校門に置かれるという、きわめて猟奇性の強い事件として、世間を震撼させた。

 


不安を煽る風聞が続出

 

 犯人が逮捕されるまで、様々な目撃情報がマスコミをにぎわせた。
 ・ 重そうなビニール袋を提げた怪しい浮浪者が小学校の前を歩いていた。
 ・ 事件当日、不審な白い乗用車が小学校の前に停まっていた。

 

 このような目撃情報の広まり方は、まさに『今昔物語』(平安末期)などに書き記されている、
 ・ 比叡山の八瀬の村に、鬼が出没した。
 ・ 羅城門で鬼が琵琶を弾いていた。
 ・ 紫宸殿の上空に、恐ろしい声で鳴く怪鳥が現れた。
  という平安時代の説話をそのまま現代によみがえらせたような感じであった。

 

百鬼夜行

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 しかし、「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る容疑者が捕まってみると、それが普通の中学生であったことが、世間をさらに驚かせた。

 

 事件後に押収された少年の日記には、殺した犠牲者を「バモイドオキ」という架空の神に捧げるなどという記述も見られ、この少年の殺人動機を外部から読み取ることは不可能だとされた。

 


ミステリーよりホラーが読まれる時代の到来

 

 高橋敏夫氏が書いた「ホラー小説でめぐる『現代文学論』」という本(宝島社新書 2007年)によると、「ホラー的なものが文学において突出してきたのは1995年(平成7年)以降」だという。

 

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 高橋氏はいう。
 「1989年(平成元年)に起きた宮崎勤事件から、何かが変わった。
 従来は犯人逮捕によって事件は解決され、終わりがやってきたにもかかわらず、宮崎勤事件は、むしろ犯人逮捕によって事件が始まり、さらに終わりも解決も見えないように感じられた。
 それは『解決可能性』というものが消滅した時代の始まりを意味した」

 

 それまで、娯楽小説の王道は「ミステリー(推理小説)」だった。

 
 ミステリーにおいては、どんな複雑な事件も必ず解決され、真犯人が特定されるとともに、物語も終結した。

 

 しかし、ホラーには終わりがない。
 そもそも、ホラーは、合理的な解決を拒むことで、物語たりえるからだ。

 

 このように、「平成」という時代は、娯楽小説の主役がミステリーからホラーに変わった時代でもあった。

 

 平成5年(1993年)からスタートした「日本ホラー小説大賞」(角川書店とフジテレビ)では、ホラー作家として脚光を浴びることになる貴志祐介がカルトホラーの『ISORA』で登場する
 
 『リング』(平成3年 1991年)で人気の出た鈴木光司が続編の『らせん』でベストセラー作家になったのは、平成7年(1995年)。
 平成11年(1999年)には、岩井志麻子が『ぼっけぇ、きょうてぇ』でデビューする。


▼ 『ぼっけぇ、きょうてえ』(角川文庫)の表紙

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ヒューマニズム」という昭和的思想の後退

 

 これらの物語に登場する “魔物” は、幽霊とも、精神疾患者とも、宇宙人とも、超能力者とも断定することができない。
 ただ単に、この世の規範を超えた “異形の者たち” として登場するだけである。

 

 その正体が最後まで分からないというところが、いかにも「平成的」であった。
  
 昭和という時代は、戦争への批判や反省から、戦争への対抗軸として「人間」とか「ヒューマニズム」という概念が大事にされた時代であった。
 
 そういう思想が風化した頃に、ちょうど平成が始まった。

 

 昭和までの怪奇小説では、その “主役” は幽霊だった。
 幽霊は、実体的には捕縛できなくても、存在意義は明確であった。
 彼らの目的は、「怨恨」か「復讐」だったからだ。
 
 しかし、平成のホラーで主役を張るのは、もう幽霊ではない。
 つまり、その出自が「人間」であったのかどうかも不明のものたちが、幽霊に代わって “主役” を張るようになったのだ。

 

 そこに、昭和的な「人間」あるいは「ヒューマニズム」という価値観が後退したことを読み採ることも可能だろう。

 


ノストラダムスの予言』の影響

 

 このような “ホラー的空気” が支配的になった背景のひとつに、『ノストラダムスの予言』(五島勉・著 祥伝社)という書籍の影響があったことも加えておきたい。

 

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 この本が最初に発行されたのは1973年であったが、「1999年の7月に空から恐怖の大魔王が降臨し、人類が滅亡する」という予言のインパクトさゆえに、平成10年(1998年)まで全10冊のシリーズが続いた。

 

 けっきょく、1998年に “人類の滅亡” は起こらなかったが、この予言がもたらした終末論的空気は、平成人の心をどこかで支配し、時代のオカルト気分を助長させた。
  
 実際に、オウム真理教麻原彰晃などは、この『ノストラダムスの予言』を自分たちの教義に取り込んで、独自の終末論を展開していた。
 
 先に紹介した作家の高橋敏夫氏は、
 「このようなホラー的環境が整ってきた背景には、日本経済の沈没ががあり、そのため、毎日どこかで電車の前に身を躍らせるリストラ男の血みどろの惨劇があった。
 そして、崩壊してしまった学級へゾンビのように通う子供たちの姿があった」
 と書く。

 

 平成11年(1999年)に高見広春が書いた『バトルロワイヤル』は、中学生たちが閉じこめられた小さな空間で殺し合いを強いられる物語だったが、そのような学級崩壊は、昭和から平成にかけて顕著になり、今はだいぶ沈静化してきたとはいえ、いまだに「いじめ」という形で各学校に痕跡をとどめている。

 

 
ネットの普及が平安時代の精神文化を再現

 

 「平成」という時代のオカルト的、 というか、ホラー的な空気が生まれてきた背景として見逃せないのはネット文化の普及である。

 

 そもそも「携帯電話」の登場そのものが、日本古来の “霊聴現象” を意味する。

 

 つまり、携帯を持参するというのは、どんな場所においても、肉体の耳(聴覚器官)では聞くことができない “声” や “音” などを認識する現象であり、昔ならば、憑依状態に陥っている人間でしか体験できないようなものだった。

 

 さらにネット文化の普及で、顔も氏素性も分からない人間同士が、SNS、メール、ブログなどを通じて、日常的に交信することが可能になった。
 
 このような、リアルコミュニケーションからはみ出した交信は、昔だったら “霊界” との接触を意味していた。

 

 すなわち、現代人は、科学やテクノロジーという言葉で自分を納得させつつも、もののけが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する平安時代の闇世界を再び生き始めたのだ。
 
 この不可思議さに、現代人は誰も気づいていない。 

 

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平成の中盤から時代の空気が変わる
 
 ただ、いままで述べてきたようなことは、平成のスタートから中盤にかけて生じたもので、平成も終わりを迎えた昨今はこのような “暗さ” からだいぶ解放されてきた。
  
 「失われた20年」という言葉がささやかれるようになった平成20年代(2010年代)以降、次第に世の中の “オカルト的空気” は薄らいでいった。

 

 おそらくそれは、平成の中頃から、すでに新しい時代がスタートしていたからである。
 つまり、平成20年以降、ようやく日本経済が回復期に入ったのだ。

 

 
「令和」への明るい橋渡しに期待

 

 経済の専門家にいわせると、
 「これまで企業は、リストラやコストカットによって収益を確保し、先行きが不透明なため、内部留保金を貯め込んできたが、業績が上向いてきたことを実感する企業が増えてきたため、今後は従業員が働いて稼いだカネを従業員に還元していく企業が増えていく可能性がある」
 とか。

 

 もし、労働者の賃金が上昇すれば、消費が回復し、企業の業績がさらに伸びることも予想される。

 

 なによりも心強いのは、インフラ整備に対する事業計画がそうとう進んでいること。

 

 リニア中央新幹線の開業予定は’27年。
 首都高速の大規模改修も、’20年に羽田線の上りが完了したあと、’28年まで継続して整備が進む。

 

 そうなると、オリンピックが終わった後でも、10年以上にわたる莫大な経済波及効果が見込まれるというのだ。

 

 経済が豊かになれば、人々の心にも合理的な思考が育っていく。

 

 そう考えれば、「平成」という時代は、戦後の経済復興を遂げた「昭和」が、その壮大なジャンプからいったん着地し、次の「令和」へのジャンプに備えて、膝を屈めた “準備の時代” だったといえなくもない。