文芸批評
穂村弘さん(写真下)の書いた『ぼくの短歌ノート』(講談社)という本が読み終わらない。
購入してから、もう半年以上経っている。
デイパックのなかに詰め込んで、外に出るときは必ず持ち歩ているというのに、なかなか読了できないのだ。
それは、読み終わってしまうのが惜しいからだ。
散歩などに出たついでに、ふらっと立ち寄った喫茶店でページを開くのだけれど、2~3ページ読むと本を閉じ、コーヒーの香りなどを嗅ぎながら、そこに紹介されていた短歌の余韻を楽しむ。
そんなことをしていると、“珈琲” (…急に漢字を使いたくなった)一杯飲み終わっても、三つ四つぐらいの短歌しか鑑賞できない。
どういう歌が集められているのか。
与謝野晶子や北原白秋、斎藤茂吉といった近代短歌の大御所の歌もあれば、寺山修司、俵万智のような有名な現代作家の作品もある。
ときには、中高生の投稿歌も収録されている。
もちろん多くの歌には、それが拾い上げられた理由が書かれているわけだが、その解説はみな短い。
だから、その歌を穂村さんがなぜ拾い上げたかは、読者が考えなければならないときもある。
その作業が楽しい。
中高学生くらいの子が書いた短歌のなかに、大人が見逃してしまうような人生の真実が歌い込まれていたりする。
若い女性の歌には「性」について鋭く切り込んだものもあり、そういうものに触れると、今さらながら、男として鈍感だった自分に恥じ入ったりする。
使われた言葉の《外》で鳴り響いている言葉たち
短歌というのは、実に不思議な文芸形式である。
五・七・五・七・七
という限られた語句で表現しなければならないという制約があるために、すごく “窮屈” な文芸だと思われがちだが、どっこい逆で、作者の表現したいものが、五・七・五・七・七という語句の外にどんどん広がっていくのだ。
文章を書くとき、言葉数を多くすれば、意味が伝わりやすいと思うのは錯覚だ。
むしろ、説明を短く切り詰めた方が、書き手の表現したいことがズバッと読み手に伝わることがある。
短歌というのは、そういう文章作法のもっとも先鋭的なところに位置している。
そこでは、文字として残された文よりも、削除された文の方が重要な意味を持つ。
たとえば、次のような歌。
売りにゆく柱時計がふいに鳴る
横抱きにして枯野ゆくとき
(寺山修司)
一読して伝わってくるのは、寂しい光景だ。
「枯野」という言葉が、秋の気配や夕暮れの匂いまで漂わせている。
さらに、切ないのは主人公の心。
柱時計まで売らなければならないというのは、そうとう困窮している証だろう。
しかし、この柱時計を売らないと、今晩のメシさえ手に入らない。
そもそも、壁に固定してあるはずの柱時計が、横抱きにされているというところに、切羽詰った感じが漂う。
道の周囲には、主人公の気持ちをますます寂しくさせるような枯野が広がっている。
その道半ばで、時計がまるで主人に「別れを告げる」かのように鳴る。
なんとも哀切きわまりない歌だが、その「哀切感」はどこから来るのか?
すべて、歌に使われた言葉の《外》からやってくる。
「寂しい」
「切ない」
「哀しい」
などという言葉は、歌のなかには一語も使われていない。
なのに、そういうありふれた言葉を使った以上の寂寥感が歌に滲んでいる。
つまり、歌の《外》に追いやられた言葉が、歌のなかに残された言葉に陰影を与えているのだ。
こんな歌もある。
昼なのになぜ暗いかと電話あり
深夜の街をさまよふ母より
(栗木京子)
ホラーのような、ミステリーのような不気味さが感じられる歌だが、よく読んでみると、ずしりとしたリアリティが潜んでいる。
この歌の《外》に追いやられた言葉は、
「認知症」
である。
しかし、その言葉を使って種明かしをしてしまえば、この歌のインパクトはほぼなくなる。
ここでは「認知症」という言葉を省くことによって、逆にのっぴきならない切なさ、哀しさ、怖さが強調されている。
日常に埋もれたものの再発見
短歌を味わう面白さがのひとつに、日常のなかに埋もれていたものを、あらたに “発見する” という楽しさがある。
たとえば、こんな歌。
次々と走り過ぎる自動車の
運転する人 みな前を向く
(奥村晃作)
こんなこと、あまりにも当たり前すぎて、誰も気にしない。
自動車を運転しているとき、ドライバーが前を向くのは当然のことで、横を向いていたら、それは事故につながるという理由で、「脇見運転」という刑罰が与えられる。
だから、運転するときはみな「前を向く」。
しかし、あらためてそのことに意識を向けてみると、「なぜ前を向くのだろう?」という疑問が湧いてくる。
そのときの「なぜ」は、もう「前方に注意しないと危険」とか、「前を見ないと事故が起きる」という次元を超えたものになっている。
それこそ、なにか「超自然的な力に導かれるまま」、とか「あらがえない宿命に導かれるまま」 … といったようなシュールなものがそそり立ってくる気配がする。
短歌には、このように、当たり前のことを当たり前じゃないと思わせる力がある。
そのときに生まれてくる “不条理感” は短歌独特のもので、小説のような散文では書き尽せない。
子供の視線
子供の視線で捉えた世界は、大人からみると、常にそのような不条理に満ちている。
しかし、「子供の視線が不条理に満ちている」と感じるのは、実は大人の視線が “分別” によって曇らされているからで、子供の視線の方がむしろストレートに現実に直結している。
そんなことを知る格好の歌。
「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して
子の言うやさしい鮫とはイルカ
(松村正直)
大人はすでに「鮫(サメ)と「イルカ」を区別する分別を備えているから、子供の無知を笑うことができる。
しかし、そういう大人の知見は、すでに「やさしさ」と「こわさ」の本質的な区別を見失っている。
短歌には批評性も取り込める
次の作品も、面白いと思った歌の一つ。
草つぱらに 宮殿のごときが出現し
それがなにかといえばトイレ
(小池 光)
「宮殿」と「トイレ」の落差に、まず笑える。
しかし、それと同時に、どこか不条理なものがせり出してくる気配もある。
それは、「草つぱら」に、どうして「宮殿のごときトイレ」が必要なのか? という疑問と同時にやってくる。
この作品に関して、穂村さんは、この歌が短歌の定型的な音数(五・七・五・七・七)を無視して、「六、九、五、七、六」という変形リズムでつくられているのかというところに着目し、作者の意図と、その効果を見事に分析している。
だが、その分析は(非常に面白いけれど)専門的すぎるので、はしょる。
代わり、作者の意図を推測する穂村さんの解説を一部だけ引用する。
「私(穂村)は、これを批評性に基づくアイロニーとして読んだ。その根本にあるのは、我々が生きている時空間に対する強い違和感だと思う。
一見ユーモラスなこの歌の背後には、現在の日本の状況に対する怒りと悲しみが張り付いている。(中略)作者は『草つぱら』に『宮殿』のような『トイレ』を平気で建ててしまうこの国のあり方を、(中略)強く批判している」
非常によく分かる解説である。
自然の象徴である「草つぱら」と、人工の極致をいく「宮殿」。
それが同一空間に存在することによって、そのどちらの属性をも殺してしまう。
そして、そこに生まれるグロテスクな景観。
日本の行政は、それがグロテスクだと気づくこともなく、自然をすり潰し、集客効果や利便性、効率化だけを求めてハコモノを建ててしまう。
穂村さんが言いたいことは、おそらくそのようなことだ。
短歌に対して「抒情的な文芸作品」というイメージを持つ人も多いだろうが、短歌には、このような鋭い批評性を盛り込むこともできるのだ。
短歌のユーモア
短歌には「ユーモア」もある。
しかし、それは川柳のユーモアとも違うし、もちろん駄洒落のようなものとも違う。
笑いが、笑いの形をとる直前の空気を捉えたようなユーモア、といえば少しはニュアンスが伝わるだろうか。
「百万ドルの夜景」というが
米ドルか香港ドルかいつのレートか
(鈴木秀)
「東京の積雪二十センチ」といふけれど
東京のどこが二十センチか
(奥村晃作)
ともに “揚げ足取り” のような意地悪さが若干あるけれど、読んでいると、思わず「そうだ!」と膝を叩きたくなる。
宴会の席などで笑いながらしゃべればただのジョークにすぎないが、こうして短歌として鑑賞すると、何やら深遠な “真理” が降って湧いてきたような気分になる。
短歌のミステリー
最後に、これも気に入った歌。
月を見つけて月いいよねと君がいう
ぼくはこっちだからじゃあまたね
(永井 祐)
なんというあっけらかんとした素っ気なさ!
ここに出てくる「ぼく」は、冷たいのか、合理主義者なのか、情緒性に乏しいのか。
彼女が「月」にロマンチックに感情移入しているのを知りながら、さばさばと「じゃまたね」と別れを告げる。
彼女にとっては、いやな男である。
しかし、この「ぼく」にはどこか愛嬌があって、温かさも感じられて、人懐っこさもある。
それが別れを告げる言葉の最後の「ね」にあらわれている。
これが、「じゃまた “な” 」だったら、「ぼく」は冷たいだけの男にすぎない。
しかし、この語尾の「ね」に、「悪いけど … 」という男の謝罪の気持ちがこもっていそうな気がするのだ。
この「ぼく」のミステリアスな言動をどう読み解くかが、この歌のカギとなる。
ほんとうのところはどうなのだろうか?
それは分からない。
たぶん作者も分からないのではないか。
この歌は、そういう「分からない」ことを、ひとつの “謎” として鑑賞する歌のように思える。
まだまだ紹介したいような歌がたくさんある。
でもきりがない。
興味を持たれた方は、ぜひ原典を当たってほしい。