映画批評
1999年に制作された中国映画だ。
日本で上映されたのは、2000年代に入ってからか。
公開中にカミさんが岩波ホールまで観に行ったという。
「信じられないくらい美しい光景が展開する映画だった」
というのが、観てきた後に、カミさんの口をついて出た感想だった。
それを、ようやくWOWOWで観ることができた。
中国の山岳地帯にある村々を徒歩で回って、郵便を配る親子の話だ。
長いこと郵便を配っていた父が、体の不具合に見舞われたことから老いを自覚し、息子にその仕事を託す。
郵便を配る村々を教えるために、たった1回だけ、父が息子を道案内する。
その二人のあとを、「次男坊」と名付けられた犬が一匹、忠実につき従う。
映画は、そういう彼らの1回だけの旅を淡々と描いている。
蒼茫と暮れ行く山の稜線を見ながら、岩の上に腰かけ、父はパイプをくゆらす。
「ヘリコプターが山の上を飛ぶ時代なのに、なんで俺たちは歩いて郵便を配るんだ?」
歩くのに疲れた息子は、父親に疑問を投げかける。
「郵便というものは足で歩いて配るものだ。乗り物を使って届けるというのは不確実でいかん」
頑固な父親は、口を真一文字に結んで、そう答えるだけだ。
もちろん、息子にはその意味が分からない。
山間の村にたどり着く。
郵便を待っていた村人たちが、笑顔で集まってくる。
時には村の結婚式の日に当たることもあり、親子は村人たちの歓待を受けて、ご馳走にありつき、酒も飲ませてもらうこともある。
村の娘と息子の間に、淡い恋に似た感情の交差する瞬間も描かれる。
近道をするために、川を渡る。
冷たい水に浸かった足をそのまま放置すると、体に悪い。
父は、犬の「次男坊」に薪をくわえて持ってこさせ、たき火を焚いて暖を取る。
実は、これはアウトドア映画でもある。
山を歩く。
川を渡る。
たき火を焚く。
肉体を行使して、車も通れない山頂の村まで郵便を届けるのは、人間と自然の接点を問い直すような行為だ。
その過労で体を痛めたことが、父の引退につながった。
そこまでして、父が郵便を届けていたことに、いったいどういう意味があったのだろうか。
息子は心の中で問い続ける。
手紙を書く。
手紙を読む。
… という行為も、実は自然との接点を確認する行為である。
手紙を書くとき、人は自分の手を通して、自分の心の滴(しずく)を紙の上に垂らしていく。
だから、それを読む人も、紙の上にしたたるインクのシミを通じて、書き手の心を吸い上げる。
それは、人が自然な気持ちで相手に向かい合えるという貴重な体験だ。
次第に、息子にも「手紙を歩いて届ける」という意味が分かってくる。
「物」の手触りを通じて、手渡しでなければ伝わらない心というものあるのだ。
おそらく、この映画が企画されたとき、すでに中国でも都市部では電子メールにおけるやり取りが主流になっていたはずだ。
この映画は、1980年代を想定したものらしいが、携帯電話の普及がやがて山奥と都会を結ぶことになるという前提が、この映画の背景には隠されている。
それが分かるから、観客は、「歩いて手紙を届ける」という行為が、おそらくこの息子の代で終わりを告げることになるだろう、という予感を持つ。
すべて「挽歌」である。
この映画には、滅びゆくものの美しさが横溢している。
メールのような電子的通信手段の普及の陰で、消えゆこうとしている “手紙文化” 。
そして、手紙は読み書きできても、電子メディアを操作できないために、田舎で孤立していく老人たち。
その老人たちしか知らない、山間部を覆う壮大な夕焼け。
やがて、種々の開発で消えていくであろう農村部の美しい棚田。
山の郵便配達は、そのような孤立して消えゆこうとする人々と文化をつなぎとめる最後の仕事だったのだ。
でも、映画のなかでは、「滅び」は訪れない。
旅から戻った息子は、今度は一人で郵便物の束を背負い、また山道を登っていく。
新しい使命を得た息子の背中は、たくましい。
笑顔を浮かべて、その背中を静かに見守る父。
それまで父につき従っていた犬の「次男坊」が、新しい主人となった息子の後を、駆け足で追っていく。