アートと文藝のCafe

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トウモロコシ畑の中の天国

映画「フィールド・オブ・ドリームス

(1989年)

  
 トウモロコシ畑の奥に分け入っていくと、そこが別の世界への入口であるかのような気分になる。
  ということを感じるようになったのは、『フィールド・オブ・ドリームス』という映画を観てからのことだ。
 

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 その映画が公開されてから、もう30年が過ぎようとしている。
 さっきまでBS(NHK BSプレミアム)の放映を観ていて、そのことに気がついた。

 

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 昔観た映画だが、今も古くなっていない。
 良い作品だ。
 ジーンとくる。
 男の子を持ったお父さんだったら、絶対泣けてくる映画だろう。
 
 舞台は、アメリカのアイオワ州
 画面には、見渡す限りのトウモロコシ畑が広がる。

 

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 主人公は、その畑を切り盛りする36歳の男(ケビン・コスナー)。
 妻と幼い娘がいる。
 

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 男は、若い頃に父親と口論し、そのまま家を飛び出してしまう。
 
 野球だけが趣味で、頑固一徹だった父親。
 そんなオヤジの頑迷固陋(がんめいころう)さを嫌って、思想運動に傾倒していく主人公。
 再会することも叶わぬうちに、息子は父との死別を迎える。
  
 そのことが、いつまでも主人公のメランコリーの種になり、彼の心の空洞には、静かなすきま風が吹いている。
 
 時間も風も静止したようなトウモロコシ畑の上には、午後の日差しだけがギラギラと降り注ぐ。
 

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 そんな日が永遠のように続く。
 だが、何も起こらない。
 
 でも、そういう時って、必ず「何か」が降りてくるものだ。
 主人公は、自分のトウモロコシ畑の中を歩いているときに、突然「それを造れば、彼らが来る」という謎の啓示を受ける。
 
 誰が、どこからそうささやくのかは分からない。
 しかし、彼は啓示に動かされ、何を造ればいいのか分からないのまま、トウモロコシ畑の一部を刈り始める。
 
 男が造ったのは、手づくりの野球グランドだった。

 

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 でも、何も起こらない。
 ナイター設備まで整えた無人のグランドの上に、夕暮れの光が降りてきて、グランドを青く照らす。
 それが、いつまでも、いつまでも続く。

 

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 ある日、そのグランドに、ユニフォーム姿の野球選手たちが現れる。
 今で見たこともなかった大昔の不格好なユニフォームを着た選手たちだ。

 

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 そのなかの一人の選手が、自分がグランドに立っていることに気づき、グランドの脇に放り出されていたバットやボールを眺め、そして主人公の姿を認めて、話し掛けてくる。
 「ここは天国か?」
 
 選手は、かつて伝説のスタープレイヤーとして知られた、今は亡きシューレス・ジョーだった。
 

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 といっても、日本人にはちょっと、その “凄さ” が実感できない。
 しいていえば、昭和49年(1974年)に現役を引退した「長嶋茂雄」選手のことを思い浮かべると、そんなイメージに近いのかもしれない。
 
 映画の話を続ける。
 結局、主人公の造ったグランドは、ベースボールを愛し続けながらも、途中で断念せざるを得なかった往年のスタープレイヤーたちを招待する「天国の球場」だったのだ。

 

 グランドには、やがてシューレス・ジョーの仲間たちが集まってきて、練習に明け暮れるようになる。
 みな、「八百長をした」という疑惑に翻弄されたり、チャンスをものにできないまま、引退して野球界を去らざるを得なかった選手たちの幽霊だった。
 
 オカルトともホラーとも取れる設定なのに、ここで描かれる幽霊たちの姿は、どこか明るく、ほのぼのとして、のんびりしている。
 
 男の造ったグランドに最後に現れたのは、彼の父親(写真下の右側の人)だった。
 やはり、野球が好きで、かつてはマイナーリーグでプレーをしたこともある父。
 

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 独身時代の若々しい表情を持った父親は、主人公に近づいてきて、こう尋ねる。
 「ここは天国か?」
 
 父親の眼差しは、明るい陽光のもとで、金色に輝く芝生に覆われたグランドに注がれている。
 「ここはアイオワだ」
 と答える主人公。
  
 「美しい。天国のようだ
 父親の口からため息がこぼれ出る。
  
 「天国はあるのか?」
 と、今度は主人公が父親に尋ねる。
 
 「あるとも。それは夢が実現する場所のことだ」
 
 トウモロコシ畑の中に消え行こうとする父親の背中に、ようやく主人公は声をかける。
 「パパ」

 しかし、主人公は、突然現れた父親に何を話していいのか、分からない。
 そのとき出た言葉が、
 「パパ、キャッチボールをしよう」

 

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 振り返る父。
 見つめ合う2人。

 やがて、2人の間で、静かにキャッチボールが始まる。
 

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 この光景を見た世の父親で、男の子にグローブを買ってやろうと思わない親がいるだろうか。
 
 私は買った。
 息子が小学生になったばかりの頃だったろうか。
 その最初の誕生日のプレゼントがグローブだった。
 
 買ったばかりのグローブを息子の手にはめさせ、私と息子は、学校の校庭が広がる丘の上に登った。
 
 春休みだったのか、夏休みだったのか。
 女子高校の校庭には人影もなく、夕方の黄色みを帯びた光が、校舎に沿って植えられたポプラ並木の影を、校門の近くまで引っ張っていた。
 
 息子をピッチャーに仕立て、私は腰を落として、キャッチャーミットのように自分のグローブを構えた。 


 弱々しくも、意外と素直な球道を描いて、ヤツのボールが自分のグローブに収まったとき、ジーンときた。
 自分の「フィールド・オブ・ドリームス」が実現した瞬間だった。
 

  
 キャッチボールというのは、「男の会話」なのだ。

 

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 相手が取りやすい位置を狙い、神経を研ぎ澄ませて、渾身の一球を送る。
 それがうまく相手のミットに収まれば、相手もまた精魂込めた一球を投げ返す。
 洗練された沈黙に守られた、美しい会話。
 
 ファストフードと、コカコーラとジーンズという文化しか世界に広めることができなかったアメリカが、唯一実現した「父と息子の文化」。
 それがキャッチボールだ。
 
 この「男と、男の子の文化」を生み出しただけでも、アメリカは偉大だ。