1960年代ブラックミュージックのすべて
50年間眠っていたライブ映像を神わざ的な編集作業で復活させた『サマー・オブ・ソウル』。
ついにこの8月27日(金)に日本公開が実現した。
この俺が、見ないわけにはいかないじゃないか!
1969年、夏。
あの有名なウッドストック・フェスティバルと同時期に、そこから160km離れた場所で、もう一つの音楽フェスティバルが開かれていた。
ウッドストックが、主に白人系のロックミュージシャンの音楽祭であったのに対し、こちらのイベントは、ブラックミュージックのアーチストをメインにした祭典であった。
フェスティバルの名は、「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」。
ニューヨークの黒人居住区として有名な「ハーレム」にほど近い公園に、約30万人の聴衆が集まった大規模な野外コンサートだった。
参加したミュージシャンの豪華さは、ウッドストックにも引けを取らなかった。
スティービー・ワンダー
グラディス・ナイト&ザ・ピップス
ザ・ステイプル・シンガーズ
スライ&ザ・ファミリー・ストーン
B・Bキング
ザ・フィフス・ディメンション
デビッド・ラフィン(テンプテーションズ)
ニーナ・シモン
マヘリア・ジャクソン
マックス・ローチ
ハービー・マン 等々
▼ B・Bキング
▼ グラディス・ナイト&ピップス
ソウル、R&B、ブルース、ゴスペル、ジャズなど、この時代に先鋭的な姿を取り始めていたあらゆるブラック・ミュージックのスタイルがすべて結集したといってよい。
しかし、なぜ、そのフェスティバルのライブ映像が、50年間も放置されていたのか?
「黒人音楽のイベントを公開しても、カネにならない」
主催者のそういう判断により、コンサートの全容は47巻に及ぶフィルムに収録されていたにもかかわらず、編集もされないまま、一人の関係者の家の地下室に眠っていたという。
同じ音楽フェスでも、ウッドストックの方は「白人ヒッピー文化の象徴」と位置づけられ、60年代末期のロックシーンを代表する音楽祭として認知された。
それに対し、ハーレム・カルチュラル・フェスティバルは、黒人聴衆を相手にした音楽祭ということで、メディアから無視された。
この事実に、今の私たちは驚く。
1969年のアメリカにはそのような人種的偏見が、実にはっきりした形で横行していたのだ。
しかし、自分自身の個人史をたどると、1960年代末から1970年代初頭にかけて、私はにわかにソウルミュージック、R&Bといった黒人音楽に傾斜していった。
その時代、テンプテーションズ、ジェームス・ブラウンといったソウル界のスターたちが急に存在感を増し、アイザック・ヘイズ(黒いジャガー)、カーティス・メイフィールド(スーパーフライ)などの黒人映画音楽が次々とヒットし、マービン・ゲイは、ついにあの歴史的な名盤「ホワッツ・ゴーイング・オン」(1971年)をリリースした。
この時代が、私はソウルミュージックの黄金期であったと思う。
実験的で前衛的な黒人音楽が次々と生まれ、その大半が華麗で贅沢な作品として結実し、結果的に広大なマーケットを獲得した。
それが70年代の初期 … つまり、72年から73年ぐらいのことだ。
(75年頃からはディスコミュージックが台頭し、創造性は薄れていく)
今回のドキュメントが収録された1969年というのは、ソウルミュージックが黄金時代にはばたく離陸期だと思っている。
だから熱いのだ。
宇宙がビックバンを迎えるときのような熱量が凝縮し、今にも沸騰しそうな勢いで、弾け飛ぼうとしていた。
こんな燃え盛るフェスティバル映像が保存されていたということは、「奇跡」に近い。
1969年の黒人音楽シーンを19歳で体験した私は、もうこの映画が始まった瞬間から目頭が熱くなってしまった。
画面では、当時私と同じ19歳のスティービー・ワンダーが、首を振り振りキーボードを叩き始める。
もうそれだけで、ウルッ!
デヴイッド・ラフィン(ザ・テンプテーションズのリードヴォーカル 写真下)は、ステージの中央に立ち、細長い足で優雅なターンを決めながら、往年の名曲「マイガール」を絶唱。
ああ、もうそれだけでウルウル!
圧巻なのは、マヘリア・ジャクソン、ステイプルシンガーズといったゴスペルシンガーたちの白熱のステージ。
ウッドストックと何が違うかというと、それは圧倒的なヴォーカル・パートの熱量だ。
白人ロックグループが中心となったウッドストックにおける主役は、ギタリストたちであった。
だが、ハーレム・カルチュラル・フェスティバルにおける主役は、黒人歌手たちの喉からほとばしり出る「歌」だ。
まさにソウル(魂)ミュージック!
これほど魂を震撼させる歌は、もうこの世のものではない。
もともとゴスペルは、黒人霊歌といわれるように、教会で歌われる讃美歌から発展してきたものだが、このフェスティバルのステージにおいても、ゴスペルシンガーたちの歌は「神の降臨」を感じさせた。
ハーレム・カルチュラル・フェスがウッドストックと異なるところは、この黒人霊歌を背景に持つ彼らの歌の精神性だろう。
ウッドストックはヒッピームーブメントと連動していたから、その会場においてもドラッグが横行し、混乱と退廃の影が会場を覆っていた。
しかし、ハーレム・カルチュラル・フェスは、ある意味、健全であった。
それは、ドラッグと暴力が支配していたハーレム(黒人居住区)の住民たちが、この日だけは、音楽の力でドラッグの誘惑を忘れようとしていたからだといわれている。
白人のお坊ちゃまたちは、ドラッグ(大麻、LSD、コカイン、ヘロイン)を買うお金に困らない。
だが、ハーレムの黒人たちはドラッグに溺れると、生活費もなくして路頭に迷ってしまう。
このフェスティバルには、黒人たちを音楽で熱狂させることで、彼らを貧困生活から救おうという意図もあったと聞く。
参加者のなかで、「音楽に対する熱狂」を思い切り解き放ったのは、やはりスライ&ファミリーストーンだった。
「シング・ア・シンプルソング」
「エブリディ・ピープル」
彼らの持ち歌で紹介されたのはその2曲だったが、グルーブ感がすごいのだ。
もちろん私などは、昔からレコードで聞いていたけれど、ライブの迫力はそんなものを軽く突き放してしまう。
同じ「ファンク」というジャンルにくくられることの多いジェームズ・ブラウンの曲と比べると、スライの音楽は多少軽く感じることがある。ポップでもある。
だが、そこにスライの思想がある。
それは、アジテーションという効果を意図したものなのだ。
つまり、演奏スタイル、演奏技量、そして歌詞に及ぶまで、スライは曲全体を一つのメッセージにまとめあげて聴衆を “アジる” 。
「シング・ア・シンプルソング」などは、ひたすら、“シンプルに生きろ” と煽り続けるだけの歌なのである。
その単純なメッセージが目指すものは、
「悩むな」
「前を向け」
「立ち上がれ」
「行動を起こせ」
という思想。
これは、スライの曲だけに限らず、今回のアーティストたちのほぼ共通したメッセージともいえるものだ。
その背景には、人種差別に対する強い抗議の姿勢がある。
1968年には、非暴力を訴えながら、黒人解放運動(公民権運動)を進めていたマーティン・ルーサー・キング牧師(写真下)が暗殺される。
その3年前の1965年には、やはり黒人解放運動を指導していたマルコムX(写真下)が暗殺されている。
このような人種差別撤廃運動の挫折は、黒人たちに深い絶望感を与えたが、一方では、そういう悲しみを乗り越えて、「黒人解放運動をもっとしっかりしたものにしよう」という機運も高めることになった。
それは、政治思想や文化潮流の領域にとどまらず、ファッションの分野にも及んだ。
彼らは、肉体的劣等感でもあった自分たちの “ちぢれ髪” に意味を与え、アフロヘアという新しいヘアスタイルとして確立した。
また、白人のファッションとははっきり異なるアフリカ系の民族衣装に身を包み、生活スタイルにも自分たちの生き方を反映させるようになった。
1960年代後半から70年代初頭の黒人音楽の変化は、彼らのこのような精神的高揚感をバックにしている。
そういう曲で歌われるテーマは、恋愛だけではなかった。
ベトナム戦争への抗議、公害、貧困といた社会問題も重要なテーマとなり、それがまたこの時代のソウルミュージックに凛々しい緊張感を与えた。
そういう音楽を聴きながら19歳から20歳ぐらいの時期を過ごした私にとって、この『サマー・オブ・ソウル』というドキュメンタリー映画は、もう涙腺が緩みっぱなしの映画となった。
年を取るということは、感情が弱くなって、だらしなく泣き出すことでもある。
特に、昔の音楽がノスタルジックな気分を刺激するときなど、この傾向が顕著になる。
まぁ、しょうがないのだ。71歳なんだから。
しかし、若い頃にソウル・ミュージックやR&B、ブルースなどに触れた者のなかに、この映画を見て泣かないシニアがいたとしたら、私などは、そういうヤツを絶対に信じない。