高校生の頃、自分の好きな音楽が変った。
1960年代後半のことである。
それまでは、同じ年ぐらいの仲間と同じように、「ロック」と呼ばれる白人系の洋楽を聞いていた。
ビートルズやローリング・ストーンズというビッグネームはもちろん、クリーム、レッド・ツェッペリン、フリーというUKサウンド。ドアーズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスといったアメリカ系のロックが好みだった。
しかし、ある時を境に、黒人音楽のR&Bに惹かれるようになった。
きっかけは、ディスコだった。
高校生のとき、隣りのクラスの女の子をこっそり誘ってディスコに行った。
びっくりした。
セーラー服姿しか見せたことがない彼女が、唇を赤く塗って、揺れるミニスカートから見事な脚をさらし、黒人顔負けのステップを踏んでいたのである。
▼ The Four Tops 「Reach Out I`ll Be There」
youtu.be
あまりもの華麗な足さばきに、おじけづいた。
「町田君、踊らないの?」(私の本名は町田である)
… と、言われたって、とても彼女のステップに足を合わせる勇気が出ない。
リーゼントで決めた横浜・横須賀系の男たちが、フロアで踊る彼女に話しかけるのを、情けなく見守るしかなかった。
「俺も、踊りがうまくならなければ … 」
そう思った。
私にとって、R&Bというのは、そういう生々しい欲望やら恍惚感やら焦燥感と一体となった「欲情の音楽」としてスタートした。
それは、この時期、私が聞いていた白人系のロックとはまったく別種な音楽だった。
1960年代後期の白人系ロックでは、アーチストがアルバム単位で自分の音楽性を打ち出すコンセプトアルバムの思想が芽生えていた。
ベトナム戦争などの影響もあって、ロックの方が、時代に向かい合うための思想や戦略を意識する必要に迫られていたからだろう。
それに対して、同時代のR&Bは、ナンパとパーティの音楽だった。
少なくも、私にとっては、ディスコの重い扉の向こうで鳴り響く “不良の巣窟” で流れる音楽だった。
だから、私はR&Bを「アーチストの芸術性」とかいう理屈抜きで、
「この曲はここでターンを決めて、次に2ステップで前に出る」
… という “肉体の音楽” として聞いていた。
フォートップスの「リーチアウト・アイル・ビー・ゼア」
サム&デイブの「ホールド・オン・アイム・カミング」
アーチ-・ベルズ&ドレルズの「タイトンアップ」
ジェームズ・ブラウンの「セックス・マシーン」
こういう曲は、ディスコのミラーボールの下で聞くものであったから、最初のうちはアルバムジャケットすら見たことがなかった。
しかし、そのうち、R&Bそのものが変容を遂げるようになった。
70年代に入った頃から、R&Bにもロックのような先鋭的な意識と理論で武装した黒人アーティストたちが台頭してきたからである。
スティービー・ワンダー、マーヴィン・ゲイといったモータウン系のアーティストが、まず「白人文化」に対する「黒人文化」というものを鮮明に打ち出すようになったし、ジェームズ・ブラウンやカーティス・メイフィールド、アル・グリーンたちが、ロックにはない黒人独特のグルーブ感のようなものを創出し始めていた。
ようやくこの頃から、黒人のアイデンティティを高らかに歌う音楽という意味で、「SOUL MUSIC」という言葉が使われ始めた。
そういう新しい黒人音楽を紹介する素晴らしい本にもたくさんめぐり会った。
ひとつは、紺野慧(こんの・とし)さんが書かれた『ソウルミュージック・イン・ジャパン』(1973年刊 写真下)。
まだ、「ソウル・ミュージック」という言葉が、日本で市民権を得る前のことだ。
彼は、福生ベースの近くのブラックバーに入り浸り、そこに集まる黒人たちと一緒になって、最先端のブラックミュージックを堪能する喜びを手に入れる。
おそらくこの本が、日本でソウル・ミュージックという音楽を独立したジャンルとして捉えた最初の本ではなかったかと思う。
彼はソウル・ミュージックを、部屋の中のオーディオを通して聞く音楽ではなく、黒人兵と一緒にソウルフードを食べ、彼らが兵士として、戦争のもたらす軋轢の中で悩んだり、国に残した恋人への思慕でセンチになったりするときの音楽として捉えた。
彼は言う。
「僕にはひとつの偏見がある。それは黒人音楽、とりわけソウル・ミュージックは、黒人たちが力強く息づいている世界で聴くことこそが最も楽しく、すばらしいものであるということだ。
それはジェームズ・ブラウンやアル・グリーンを聞いて、そのオフ・ビートにのって腰が動き出さない人にはぜったいに分からないということである」
この本は、すぐさま私のバイブルになった。
ミーハーな私は、その本を読んでから3日後ぐらいに青梅線に乗って、福生ベースまで遊びに行ったように記憶している。
本場物のソウル・ミュージックの素晴らしさを描いた本としては、白石かずこさんの『ブラックの朝』(1974年刊)を挙げてもいい。
彼女は、ジョン・コルトレーンとジェームズ・ブラウンを等価に捉える。
片や前衛ジャズを求道的に追求したジャズの聖人。
片や野卑で挑発的なステージで、大衆の熱狂を誘い出す煽情的なエンターティナー。
しかし、どちらも、
「暴風雨のように、心を打ち叩き、雷のように咆哮し、瞬時、息もできぬほどにエキサイトさせる魂(ソウル)の叫び」
だという。
彼女は、知識も教養もある詩人だが、“後頭部でモノをいう人間” (つまりモノを書いたり、考えたりする人間)のハートの対極にあるものとして、ブラックミュージックを捉えた。
私は、彼女の本から、ソウル・ミュージックのエモーションを表現するときの言葉を数多く教わった。
基本的文献でいえば、チャールズ・カイルが書いた『都市の黒人ブルース』(相倉久人訳(1968年刊)を忘れるわけにはいかない。
この本では、アメリカ黒人音楽がどのように発生し、どのように発展し、どういう思想展開を遂げていったかということがアカデミックに追求されていた。
黒人音楽独特の音階であるブルーノートなどに関しても詳しく解説されている。
さっき、この本を久しぶりに手にとってみたら、やたら赤線が引いてあって、書き込みがあった。
ほとんど忘れていた本だったが、当時は自分なりに必死に勉強していたようだ。
決定的だったのは、松本隆さんの『微熱少年』(1975年刊)だった。
この本は、彼の音楽遍歴を綴った本だが、途中からソウル・ミュージックの賛歌に変る。
それまで、松本さんという人は「はっぴいえんど」のドラマー兼作詞家というぐらいの認識しかなかったのだが、この本を読んで、彼に対する印象が変わった。
彼は、生粋のソウルフリークだったのだ。
「はっぴいえんど」の創り出す世界に対して、私は、知的で醒めた白人的センスを感じていたが、松本さん自身は、黒人音楽に触れることで、常に「微熱状態」の中にいたらしい。
彼は徹底して、ソウル・ミュージックを「都市の音楽」として捉えた。
私のソウル・ミュージック観が形成されたのは、この松本さんの影響によるところが大きい。
松本さんは、『微熱少年』のなかで、
「ウエストコースト系の白人によるロックが自分にとって終わったと感じた頃、マービン・ゲイのホワッツ・ゴーイン・オンが、眼前に新鮮な驚きを与えながら未知の光条を放っていた」
と書いている。
▼ Marvin Gaye「What’s Going On」
日本を代表する作詞家の松本さんと自分を比べるわけにはいかないが、その一点に関する限り、私は同じ時代に、同じ地平に立っていたんだ … と思う。
私もまた、「ホワッツ・ゴーイング・オン」には特別な思い入れがある。
二十歳ぐらいのときだった。
夜の冷気が漂う自分の部屋で、突然 FEN から流れた来た「ホワッツ・ゴーイン・オン」を聞いたときは、脳天がしびれて、鳥肌が立った。
それは自分の “音楽体験” のみならず、“人生体験” においても決定的なターニングポイントになった。
これからは、こういうモノを「美しい!」とする基準を自分のなかに確立していこう、と自分に言い聞かせた。
60年代後半から70年代初期にかけて、ソウルミュージックが日本でも新しい音楽潮流を切り開こうとしたとき、それと同時に、素晴らしい評論集がたくさん生まれた。
それが相互に、黒人音楽文化を支えあった。
自分は幸せな時代を生きたと思う。
▲ 紺野慧 著「ソウルミュージック・イン・ジャパン」の中のイラストより