ネットニュースの「文春オンライン」(2020年5月16日)で、霜田明寛さんというライターが、15年ぶりに再放送されている『野ブタ。をプロデュース』が、なぜ今の時代に大反響を呼び起こしているのか? … ということを分析されていた。
私は、当時そのドラマをまったく観ていない。
そして、それが現在再放送されているということも知らなかった。
しかし、そのライターさんの分析から、いまの時代を考える大事なヒントをもらったような気になった。
記事を読んだだけの印象だが、そのドラマがいまもインパクトを持ち続けているとしたら、それは、ドラマの開始時 … すなわち2005年の日本と今の日本が状況的に酷似しているか、もしくは、2005年に撒かれた問題が、今ようやく可視化される時代になってきた、ということを物語っている。
では、どういうドラマなのか?
ライターの霜田さんは、『野ブタ … 』の再放送を見たとき、
「こんな暗いドラマだったのか !?」
と、びっくりしたという。
物語は、いじめられキャラである “野ブタ” という女子転校生(堀北真希 写真上)のことを、クラスのスターである桐谷修二(亀梨和也 写真下)という男子学生がプロデュースし、ついには “野ブタ” をクラスの人気者に仕立てるという話 … らしい。
ストーリーだけ追うと、爽やかな青春ドラマのように感じられるが、ライターの霜田氏は、桐谷修二という男子学生の内面にメスを入れていく。
実は、修二が野ブタをプロデュースしようと思ったのは、彼女を「いじめ」から助けるためではなかった。
むしろ、自分の退屈を紛らわすために、ゲームとして、野ブタをプロデュースするという遊びを始めただけだった。
そこで浮かび上がってくるのは、「人生はすべてゲームだ」と割り切る修二のニヒルな心である。
修二は、「マジになった方が負け」と常に自分をいましめ、「うまく立ち回っていれば傷つくことなくゴールまでいける」と諦観する寂しい青年である。
そういう青年を主人公に据えた『野ブタ … 』というドラマの暗さが、15年ぶりに見た霜田氏の心に鋭く突き刺さったらしい。
霜田氏の年齢は35歳(1985年生まれ)。
『野ブタ … 』の放送が始まったときは、登場人物の一人である山下智久と同じ19歳だったそうだ。
しかし、主題歌が明るかったり、登場人物たちが若いこともあって、ドラマそのものの底に沈んでいた暗さに気づかなかったとか。
それから15年後。
久しぶりにこのドラマを見た彼は、
「主人公たちが生き抜く学校という“小さな社会”が、大人の社会と何ら変わらない息苦しさをまとっていた」
ことに気づいたという。
基本的に、このドラマは「スクールカースト」を描いたドラマである。
主人公の修二は、スクールカーストの上位に君臨している男子で、頭もいいし、運動能力にも恵まれた人気者。
コミュニケーション能力も高いため、周囲の空気を読むのもうまく、人の気持ちを和ませる才能に恵まれている。
しかし、その内面は乾ききっていて、寂しい。
あまりにも “先が見通せる” ために、普通の生徒よりも自分の将来が読めてしまい、「夢」を持てない状態にいる。
スクールカーストの上位にいる(はずの)人間を襲う孤独と虚無感。
私は、これと同じ構図を、朝井リョウ氏が書いた『桐島、部活やめるってよ』という小説に見出す。
『野ブタ … 』が放送されたのは、2005年。
『桐島、部活やめるってよ』が出版されたのは、2010年。
ライターの霜田氏によると、「2005年にはまだ “スクールカースト” という言葉は生まれていなかった」という。
しかし、すでにその当時の教室には、「容姿に恵まれ、身のこなしのうまい特定グループがクラスを牛耳り、その支配下に組み込まれて、発言すら許されない下位グループが存在した」という事実があったらしい。
霜田氏は、このように構造化された教室は、すでに「大人の社会」とまったく変らず、大人が感じる息苦しさを子供たちも経験していたと書き加える。
そして、氏は、
「あれから15年が経って自分も大人になったが、そのままの構造をただ拡大しただけの社会を今も生きている」
と吐露する。
2005年から2010年にかけて、つまり学校にスクールカーストが生まれた時代というのは、いったい日本で何が起こっていたのだろうか?
2005年に高校生活を送るようになった子供たちというのは、だいたい1997年~1999年ぐらいに小学校生活か中学生活を経験している。
年齢でいうと10歳~12歳、もしくは13歳といういちばん多感な時期だ。
この時代、彼らの父親・母親は、戦後はじめてといえるくらいの大激動期に翻弄されていた。
1990年にバブルが崩壊する。
以降、国内企業の大型倒産が相次ぎ、世の中を「リストラ」、「事業所閉鎖」、「希望退職」などという言葉が行き交うようになる。
その原因は、国際社会の変化にあった。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造が終焉を迎えたことを機に、「資本主義社会の全面勝利」を謳った西側企業が、新自由主義的な経済政策をとり始めたからだ。
それによって、「人、カネ、物」の移動が一気に地球規模に広がり、グローバル資本主義の時代が始まった。
日本はこの流れに追いついていけなかった。
大手銀行まで倒産しかねないという経済不安が日本中を覆い、国際競争を勝ち抜くために、どの企業も内部留保を確保する方向に舵を切らざるを得なかった。
そのために、多くの企業がとった方法は、「人件費の削除」であった。
つまり、正規雇用を抑え、非正規雇用を増やすことで難局を乗り切ろうとした。
このときに、それまで日本企業の美徳とされていた「終身雇用」や「年功序列」という制度も、「時代に合わない悪弊」として切り捨てられ、社員の評価軸はドライな欧米風の「成果主義」に移行し、それになじめなかった社員の大量リストラが断行された。
日本に、そういう大規模な社会変革が訪れたのが、1997年から1998年ぐらいにかけてであった。
この間に、雇用を奪われた日本人の自殺者は33,000人に達したという。
2004年以降の日本の高校に登場した「スクールカースト」という現象は、この時代に小学校や中学校に通っていた子供たちの間から生まれたといっても過言ではない。
つまり、「スクールカースト」の上位を目指した子供たちは、親が企業や組織のなかで繰り広げてきた熾烈な生き残り作戦を観察し、それを自分の生活圏のなかに持ち込んだものといえよう。
卒なく、スマートに身を処し、上司(教師)への忖度を忘れず、仲間同士の世界に戻れば、立場の弱いグループを徹底的に叩いて競争相手を減らし、常に自分たち上位グループだけにスポットライトが当たるような工夫を凝らす。
もちろん、それがうまくいけば、学園生活を送っている間は心地よい気分を満喫できる。
しかし、そういう暮らしがずっと自分の将来まで続くとは限らない。
彼らは、自分の親たちが必死に身に付けた処世術を見てきたから、社会に出ても息が抜けないことを知っている。
つまり、常に周りの空気を読み、上司の意向を忖度し、一生「仮面」を被って生きなければならないことを自覚しているのだ。
社会は、そういう姿勢を「コミュニケーション能力」として評価したから、「仮面」を脱いで自分の “地” をさらすことは、コミュニケーション能力の欠如を見せることになる。
だから、辛くても必死に耐えるしかない。
それが、今の若い社会人たちにのしかかっている “重荷” の正体だ。
私個人の感覚だが、アニメ『アナと雪の女王』で、「♪ ありのままの~」と歌う主題歌が、昔から私には奇異に感じられて仕方がなかった。
なぜ、「ありのままの自分」がそれほど尊いのか。
それは、「ありのままでは生きられない」と覚悟した若者たちの密かな願いだったからだ。
霜田明寛氏の記事は、そんなことまで教えてくれたように思う。