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『エイリアン』という映画は「神」を描いた作品だ

 

 8月の中旬ぐらいに、SF映画『エイリアン』(8月9日)と、『エイリアン2』(8月16日)を2週続けてBSプレミアムで観た。
 両者とも、一度は公開されたとき封切館で観ている。
 
 そのときは、SFホラー的な1作目に対し、それをアクション映画に作り替えた2作目 というような印象しか持たなかったが、改めて観ると、これはまったく別種類の映画だと感じた。

 一言でいってしまえば、『エイリアン』(一作目)に登場するエイリアンは、ある意味、“神” のような存在であった。

 

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 1に登場する宇宙船乗組員の一人アッシュ(写真下 正体はアンドロイド)は、船内に潜入したエイリアンを次のように説明する。
 「あれは人間を超えた完全無欠な生物だ」
 つまり、それは「神だ」と言っていることと同じなのだ。

 

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 アッシュは、「宇宙人を捕獲したら乗組員たちの命を犠牲にしてもそれを地球に持ち帰れ」という秘密の命令を受けている。
 だから、彼は、他のメンバーがどんな武器を使ってエイリアンと戦っても絶対勝てないことを知っている。

 

▼ 乗組員のなかで唯一戦って生き残るヒロインのリプリ

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 エイリアンが「神」であるという証明は、すでに映画のなかでなされている。
 つまり、人間には、その姿の全貌がほとんど確認できないからだ。

 

 卵の状態と幼虫の姿は部分的に見ることはできるが、巨大化したあとは、一瞬そのシルエットを見せることはあっても、全体像を観客に見せない。
 これは、「神の姿は人間には見えない」という思想が具現化されたことを意味する。 

 

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 そういう設定から醸成される『エイリアン』(1)のテーマとは何か?

 

 「不条理感」と「哲学性」である。
 つまり、人間が、「人間を超えたモノ」と遭遇したという不条理感と、それが人間に何をもたらすのか、という哲学的な問いである。
 だから、『エイリアン』(1)は、めちゃめちゃ奥が深いといえる。

 

 それに比べて、『エイリアン2』はどうか?

 

 「人間を超えた完全無欠な生物」であったはずのエイリアンは、集団で人間を襲ってくるけれど、火炎放射器に次々と焼き殺されるし、銃弾を受けてのたうちまわる。

 

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 そういうバトルを見て、「爽快だ!」と歓迎するファンも多いが、はっきり言えば、それは、人間による異星人の “殺戮” である。


 要は、17世紀にアメリカ大陸にわたったヨーロッパ人たちが、そこに住んでいた先住民族を殺戮していくようなもので、知的な観客にとっては、本当の意味でのカタルシスはない。
 
 つまり、二作目に登場するエイリアンたちは、グロテスクなだけのただの “怪物” にすぎないのだ。

 

 監督の思想性の差かもしれない。

 

 『エイリアン』(1979年) 監督 リドリー・スコット
 『エイリアン2』(1986年) 監督 ジェームズ・キャメロン

 

 最初のエイリアンを撮ったリドリー・スコット(写真下)は、その4年後、「人間とアンドロイドの差は何か?」という非常に哲学的なテーマを秘めた『ブレードランナー』を手掛けている。

 

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 そこから、『ブラック・レイン』(1989年)、『グラディエーター』(2000年)ぐらいにかけてが彼の最盛期で、それ以降はパワーを落としているけれど

 

 それはともかく、『エイリアン』と『エイリアン2』を比較したとき、私個人は圧倒的に前者の方を支持する。


 なにしろ、『エイリアン』一作目は、その背景に、無数のSFドラマ、SF小説SF映画の蓄積が潜んでいるからだ。

 

 たとえば、1917年頃から、新しいSFホラー小説を書き始めたハワード・フィリップス・ラヴクラフト(写真下)の影響もそこには漂っている。

 

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 ラヴクラフトは、「吸血鬼」や「狼男」が人間を襲うという定型化された怪奇小説を一変し、広大な宇宙の彼方から飛来するまったく新しい生物の恐怖をテーマに据えた。
 つまり、映画『エイリアン』の原型を1930年代に創造していた。

 

 このラヴクラフトの宇宙怪物に共感していたのが、『エイリアン』(1)においてエイリアンの造形デザインを手掛けたH.R.ギーガーである。
 ギーガーが創造したエイリアンには、ラヴクラフト経由の悪魔的おぞましさが表現されているといっていい。

 

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 監督のリドリー・スコットは、ギーガーがとらえたエイリアンの “悪魔性” に「神」を感じた。

 

 だから、リドリー・スコットのエイリアンは、グロテスクだが、「美しい」。
 ちゃんとしたデザインが存在していることを教えてくれる。
 (ギーガーが造形を手掛けなかった『エイリアン2』には、それがない)

 

 完璧に造形された「恐怖」とは、「美」である。

 

 『エイリアン』(1)では、完璧な合理主義的精神が破綻したところに「恐怖」が始まるということを巧みにとらえている。

 

 たとえば、乗組員たちが信号を傍受して立ち寄る未知の惑星(LV-426)に着くまでの宇宙船内の映像は、完璧なまでに合理的整合性に満ちて、数学的な美しさを見せる。

 

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 しかし、エイリアンが船内に身を潜めていると分かってからの室内の映像は、一転して、恐怖と不安に満たされた廃墟のような映像に変る。
 この落差!

 

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 さらに、エイリアンが乗っていたとされる未知の宇宙船ともなると、もう地球で生まれるデザインを超えた不条理な姿を全面に押し出してくる。
 このへんが(『エイリアン』(1)の)デザイン力の凄さだ。

 

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 まぁ、私はリドリー・スコットのファンなので、どうしても最初の『エイリアン』に肩入れしてしまう。

 

 ジェームズ・キャメロンの好きな方には申し訳ないが、私は彼が手掛けた『タイタニック』にも『アバター』にも、それほど感心しなかった。
 通俗性が鼻についたのだ。(むしろ低予算の『ターミネーター』の方がよかった)
 あくまでも個人的な好みの問題なので、それ以上のことには触れない。