10代の頃からずっと洋楽を聞き続けて、60年以上経つ。
1960年代初頭のコニー・フランシスやニール・セダカのようなアメリカンポップスに始まり、ビートルズ、ストーンズ、さらにはクリーム、レッドツェッペリンというUKロックに移行し、その後はアメリカのソウルミュージック(R&B)、ブルース、ゴスペルという黒人音楽にハマった。
しかし、この夏、YOU TUBEでアメリカの最近のカントリーミュージックをずっと聞き続けるという1週間を持った。
特に目的があったわけではない。
偶然拾ったカントリーミュージックの何曲が、これまでまったく接したことがない新しい “文化” に感じられて、なんだかとても好奇心をくすぐられたからだ。
ロックとカントリーの違い
カントリーっぽい感じの音楽に接したのははじめてではない。
60~70年代ロックに感性を侵食された人間にとって、C・C・R、ドゥービーブラザース、イーグルスなどは避けて通れない音楽だ。
さらに、私の場合、オールマン・ブラザーズ・バンド、ZZトップ、レーナードスキナード、マーシャル・タッカー・バンドというサザンロックのアルバムを買い続けた時期も持っている。
▼ レーナードスキナード。サザンロックのなかでも最もアメリカ南部の白人的心情を反映したロックバンド。コンサートではよく南軍旗が振られる
そういうカントリーフレイバーを持つロックアーチストで、お気に入りといえばやはり、ザ・バンドとニール・ヤングだった。
特にニール・ヤングの曲は、ギターで音を拾って一生懸命コピーすることに熱中したこともあった。
▼ ザ・バンド
▼ ニール・ヤング
話を戻す。
今回YOU TUBEで、モダンカントリーミュージックを集中して聞いた印象を述べると、それは60年代後半に活躍したザ・バンドやニール・ヤングの “カントリー” とは似て非なるものだということだった。
一言でいうと、ニール・ヤングらの音楽は「ロック」だが、今のカントリーミュージックは「ロック」ではない。
「ロック」と「非ロック」の違いは、楽曲の構造や演奏形式の違いもあるが、より本質的なことをいうと、普遍性の「ある・なし」によって定まる。
ロックには普遍性があったから
世界の人間に愛された
1960年代から70年代にかけて、UKやアメリカのロックが世界的マーケットを獲得できたのは、その音楽性に普遍性があったからだ。
しかし、今のアメリカのカントリーミュージックを楽しむには、ある程度アメリカ南部の白人社会への共感が必要になってくる。
逆にいえば、カントリーミュージックは、ロックの普遍性を切り捨てることによってアメリカ南部社会の白人音楽としてのアイデンティティを獲得している。
ザ・バンドやニール・ヤングのカントリーソングが世界の人々の共感を呼んだのは、そこに、「喪失感」というテーマがあったからだ。
彼らが歌っているのは、西部開拓時代のアメリカ人たちの精神がすでにアメリカから失われてしまったことへの悲哀だった。
だから、彼らの「音」にはノスタルジックな寂しさがあった。
このノスタルジックな響きが、世界中の人々に通じた。
▼ ニール・ヤング 「ハート・オブ・ゴールド」
私見だが、ザ・バンドやニール・ヤングの音楽が持っているノスタルジーの正体というのは、おそらく、彼らが人種的にはカナダ人であったことと関係しているように思う。
すなわち、幼い頃から “自由なアメリカ” を他国(カナダ)から眺めていた人種が、いざアメリカに進出したとき、そこには、もう彼らが求めていた “自由なアメリカ” は死に絶えていたという失望感が、彼らの音楽の底に沈んでいる哀切感のベースになっている。
彼らがアメリカで音楽活動を始めた頃、アメリカはベトナム戦争に勝利するために、若者のあらゆる自由を束縛する国になっていたのだ。
現在のアメリカ人たちよるカントリーミュージックが主張するのは、「自由」ではなく、白人社会における「家族や仲間の絆」である。
さらにいえば、「白人のプライド」である。
だから、彼らの「音」は、哀切感よりも、白人共同体の温かさや陽気さを強調する。
私などは、そこに他国人に対する排他的な匂いを嗅いでしまう。
▼ 新しいカントリーミュージックでは、ミュージシャンはテンガロンハットをかぶり、誇らしげに星条旗を掲げる
カントリーミュージックの中に潜む
男性中心主義
カントリーミュージックの中心的な世界観となるものは、古典的な男性中心主義だ。
白人男性の強さ。
白人男性のたくましさ。
そういうマッチョな美学がカントリーミュージックの流れの一つを形成している。
もちろん、歌われる歌詞の多くは「恋愛」であることにはかわりない。
古今東西、「恋愛」は大衆音楽のメインテーマだからだ。
しかし、カントリーで取り上げられる「恋愛」は、基本的に、エモノを「追う男」と、エモノとして「追われる女」という構図を取っている。
そこには、原始的なハンティング文化がそのまま息づいている。
男は猟犬のように、美しい白人女を追う。
女は男から逃げながら、男を誘う。
映像的に見ると、男たちはみなマッチョな肉体を誇示し、女は金髪のストレートヘア。
基本的にそこで推奨されるのは、完全無欠のヘテロ愛(異性愛)で、間違っても男女の性差が不明な人物は、プロモーションビデオのなかには登場しない。
こういう関係を象徴的にとらえているのが、トレース・アドキンスの『クローム』という歌だ。
この歌のプロモーションビデオには、美しい輝きを放つクロームメッキで彩られたアメ車やモーターサイクルがたくさん登場する。
そして、そのクロームを盛った妖しいビークルにまとわる金髪の美女たちが描かれる。
クロームと美女に囲まれているのは、満面の笑みを浮かべるテンガロンハットの白人男性だ。
つまり、ここで表現されているのは、美しい女と美しい自動車は、ともに男のフェティシズムを満たす意味で等価値であるという思想だ。
▼ Trace Adkins - Chrome
テンガロンハットというのは、彼らにとって、「男のシンボル」である。
それをかぶった「男」は、現代の “カウボーイ” だ。
カウボーイはモテる。
… と、彼らは言いたいのだ。
いちばん大事なのは「家族の絆」
そういう情景をストレートに表現するプロモーションビデオもある。
曲は、
『女たちはカントリーボーイが好きだ』。
この歌にはかなりギャグも含まれているが、この無邪気なカウボーイ賛歌には、やはりカントリーミュージックの理想像が宿っていそうだ。
▼ Trace Adkins - Ladies Love Country Boys
モテ男を無邪気に気取りたがるカントリーボーイ。
もちろん、それは男性中心主義が反映されたものにすぎない。
しかし、カントリーボーイたちは、女に対する優位性を日常的に誇示しながらも、一度結婚した女を捨てない。
釣った “女” は、保護する対象として愛でられることになるのだ。
つまり、彼らは彼らなりに、幸せなファミリーのイメージを大事にしている。
その証拠に、カントリーミュージックのプロモーションビデオには、仲睦まじい老夫婦の画像がくりかえし登場する。
ときに、年老いた旦那は腹も出てみっともない姿をさらすことが多い。
女房も美人とは言い難い老婆だったりする。
それでもその二人がその年になるまで仲たがいすることなく睦まじく生きてきたということが伝わる映像になっている。
アラン・ジャクソンの歌う『リメンバー・ホエン』がそういう歌を代表している。
(これは歌詞もメロディーもきれいな曲である)
▼ Alan Jackson 『Remember When』
もうひとつよく登場するのは、笑顔をうかべた子供たちの画像だ。
家庭の中で、学校で、郊外の運動会で、子供たちはほんとうに幸せそうな顔で走り回る。
カウボーイの父と、カウガールの母は、子供が自分で幸せをつかめるように野山で子供を鍛え上げる。
『カウガールは泣いちゃういけないのよ』 … と。
▼ Brooks and Dunn 『Cowgirls Don't Cry』
いまだに生きている「西部劇」の精神
このような “家族愛” を強調するカントリーミュージックの思想はどこから来るのか。
それは、「守るべきものを守り抜く」という西部劇の精神が土台になっている。
西部開拓時代に、“凶悪なインディアン” や強盗団と戦いながら自分たちの畑や牧場を守り抜いた祖先を持つ誇りが潜んでいるといっていい。
▼ かつての西部劇を代表するスター「ジョン・ウェイン」は、いまだにカントリーミュージックのヒーローである
「守るべきもの」というのは、もちろん自分の家族であり、子供たちであるが、さらにいえば、仕事仲間であり、週末に居酒屋で顔を合わせる友人たちである。
そのように “目に見える” 同胞意識に支えられたカントリーミュージックの世界観では、それを脅かすものに対する敵意の激しさも徹底している。
「彼らの生活を脅かすもの」とは、田舎のルールを知らないヨソ者であり、軽佻浮薄な都市文化であり、“知性” をひけらかす(東部の)エリートたちであり、さらには「不倫」であり、同性愛婚であり、違法ドラッグであり、異教徒である。
つまり、小市民的な生活に逆らうものすべてから、カントリーボーイたちは「自分たちの共同体を守ろう」と声を出す。
▼ カントリーミュージックのジャケットやコンサートには、よく南軍旗が登場するが、そこには、現在のアメリカ政治を牛耳るエリート層に対する反感がこめられている
ヨソ者は出ていけ !
カントリーボーイたちが、田舎のルールを知らない都会人に対して、どういう振舞いをするのか。
それを描いた面白いプロモーション・ビデオがある。
トビ―・キースが歌う『アイ・ラブ・ジス・バー』だ。
南部のカントリーボーイたちが週末に通うホンキートンク(居酒屋)に、ある晩、見るからにカントリーボーイとは異質な若者がまぎれ込んできて、横柄な声でビールを注文する。
店員の女性が、お灸をすえる意味を込めて、その若者が取れないようなスピードでビールのジョッキをカウンターに走らせる。
当然、ビールジョッキは若者の手をすり抜けて、カウンターの奥にいたゴッツいカントリーボーイたちのグラスを打ち砕く。
闖入者の若者の運命は?
▼ Toby Keith「 I Love This Bar」
この動画では、ホンキートンク(南部の居酒屋)の卑猥で荒々しい風情を描きながら、そこに集まる仲間の団結心もまた描き尽している。
こういう共同体意識が移民対策に向かったときは、メキシコとの国境に建設される壁を望む声となり、仕事と絡んだときは、さびれた地方都市の商業的復権を求める主張となり、異教徒のテロに対する恐怖を感じたときは、銃撃戦すら辞さない防衛意識の高まりという姿をとる。
そこに、今のトランプ政権を支持する人たちのメンタリティーを読み込むことが可能だ。
トランプ大統領がことあるごとに口にしている「アメリカを偉大な国にする」というときの「国」は、ネーションではなく、このような白人グループの生活共同体を中心とした “カントリー” である。
つまり、政治的な意味での「国家」ではなく、自分たちが耕す農園であり、馬を飼う牧場であり、自動車を造る工場であり、週末に仲間があつまる「酒場(ホンキートンク)」のことを指す。
田舎町のダンスパーティーの幸せ
このような南部の田舎者たちの愛する「平和な生活」とはどんなものなのか?
彼らが描く「平和」のイメージは、田舎町で繰り広げられる近隣住人とのパーティーに象徴される。
アラン・ジャクソンが歌う『南部人たちが住む小さな町』は、アメリカ南部の田舎町の人々の暮らしをよく伝えている。
▼ Alan Jackson 「Small Town Southern Man」
田舎町の結婚式パーティーの情景を描いたこの動画では、誰もが適度に着飾っている。
しかし、けっして彼らのファッションは大都会の社交パーティーに集まる男女のように洗練されていない。
まるでニューヨークあたりで開かれるセレブのパーティーで見るような洗練されたファッションは、「虚偽」と「欺瞞」に満ちた「詐欺師」の社交場であるかのような思い込みが働いていそうだ。
この動画に描かれたカントリーミュージックの演奏では、アコースティックギターやウッドベースにフィドル(バイオリン)やスチールギターが絡み、サウンド的にも典型的なカントリーミュージックの体裁が整えられている。
つまり、「音」としても、カントリーミュージックをイメージしやすい仕上がりになっているといってよい。
一連のプロモーションビデオを見てくると、カントリーミュージックを支えているメンタリティ―というものが、少しずつ見てくる。
まとめてみよう。
カントリーミュージックは、次のようなアイコン(小道具)によって表現される。
すなわち、
男たちのテンガロンハット。
田舎町の居酒屋(ホンキートンク)。
金髪の白人娘。
広大な農場。
無骨なピックアップトラック。
ハーレーダビッドソンのモーターサイクル。
乗馬を楽しむための馬。
田舎町のホールで催されるダンスパーティー。
銃は “アメリカの文化” である
このような愛すべきものを守るために、時として「銃」に頼らざるを得ないという意識も彼らには強い。
彼らにとって「銃」とは、相手を攻撃する “道具” ではなく、自分たちの価値観を守るための “文化” なのだ。
▼ ライフルをこれみよがしに手にしたジャケット写真に登場するカントリーミュージシャン。テンガロンハットをかぶって銃を持つ男は、日本でいう「サムライ」としてリスペクトされているようにも感じられる。
このへんが、日本人には分からない感覚なのだと思う。
我々日本人は、アメリカで悲惨な銃撃事件が起きるたびに、一向に銃規制が進展しないアメリカ政府の在り方に異常なものを感じるが、それは日本人の勝手な思い込みなのかもしれない。
銃撃事件で人間が死ぬことを、彼らは「交通事故」のようなものだと割り切っているようにも思える。
憲法で保障され、文化として200年以上も国民の間に浸透した武器を捨てさせることは、おそらく、200年間それを放置してきた国家にはもうできない。
日本も明治期になって、侍の文化であった「刀」を武士たちに捨てさせるためには、国家規模の戦闘(西南戦争)を体験しなければならなかった。
たぶん、アメリカで本格的な銃規制を始めるためには、第二の南北戦争が必用になるだろう。
テイラー・スウィフトの登場
カントリーミュージックの世界を、そのプロモーションビデオを眺めながら見続けるということは、いろいろな違和感が蓄積していく過程でもあったが、彼らの家族愛、共同体愛、地域愛の強さと真摯さだけは、こちらにもまともに伝わってきた。
これほど仲間同士の “美しい絆” を強調する音楽もほかにはないかもしれない。
しかし、それを日本で聞いている我々日本人は、彼ら白人共同体の “外” にいる。つまり、彼らが守るべき対象として認知している集団から外れているのだ。
もし、現地(ディープサウス)のバーに行って、そこの客らに「トランプ批判」などを展開しようものなら、そうとう敵意のこもった視線を送られることは間違いないだろう。
場合によっては、身の危険にさらされるかもしれない。
しかし、近年カントリーミュージックを支える層も変わりつつある気もした。
テイラー・スウィフト(写真下)の登場だ。
彼女はカントリーシンガーソングライターとして、南部のナッシュビルで人気を集め、今では “カントリーの歌姫” として全米中に影響力を持つアーチストになっている。
しかし、女性蔑視や人種差別傾向の強いトランプ大統領には反感を感じており、2018年に行われた全米の中間選挙では、トランプを支える共和党議員よりも、民主党議員を支持すると表明。
多くの若者に「投票に行くように」と呼びかけた。
この発言を聞いたトランプ大統領は、
「私は彼女の音楽が25%ほど嫌いになった」
と発言したというが、彼女の呼びかけによって、選挙に無関心だった若者の票が伸びたともいわれている。
カントリーミュージックの愛好家に支えられつつも、彼女はLGBTやフェミニストたちに対しても支持を広げている。
それに合わせて、彼女の音楽もカントリー傾向を脱して、ポップスやロックに近づいている。
カントリーミュージックが変わり始めている兆候かもしれない。
▼ Taylor Swift 『Our Song』