映画批評
映画「さらば愛しき女よ」のけだるく甘い切なさ
原題、『Farewell, My Lovely(フェアウェル・マイ・ラブリー)』。
レイモンド・チャンドラーが1940年に書いた同名小説をディック・リチャーズ監督が1975年に映画化した洒落た作品である。
ハードボイルド小説の代表的 “探偵” であるフィリップ・マーロウを、ハリウッドスターのロバート・ミッチャムが演じ、妖艶な悪女役をイギリス女優のシャーロット・ランプリングが演じた。
この映画は、封切り当時に劇場で観たことがあった。
それから50年経って、再びDVDで観る機会を得た。
50年前 … つまり20代の “若造” では感じ取れなかった “洒落た大人の感覚” というものが、今回ようやく理解できた。
「大人の感覚」とは何か?
アンニュイ(物憂さ)である。
映画の底に潜んでいる気怠い雰囲気。
切なく、退廃的で、甘酸っぱい情緒。
そんなものが、20代半ばの自分にはあまりピンと来なかった。
それが “美的価値” であるという評価基準を、若い頃の自分は持ち合わせていなかったのだ。
だが、今ではよく分かる。
たぶん、これは、恋人や女房と一緒に見る映画ではなく、一人で観る映画なんだろうと思う。
仕事に絶望したり、女に振られたり、友だちに裏切られたりした夜なんかに、照明を落としたソファに座り、ウィスキーグラスを手にしながら、ぼんやりとテレビモニターの前にうずくまって観る映画だ。
きっと、そんなときは、心の奥に澱んだ疲労が心地よいものに変わっていくとはずだ。
ため息が出そうな素敵なアンニュイ
タイトルクレジットが浮かぶオープニングから、もうこの作品は、「切なく、退廃的で、甘酸っぱいアンニュイ」に満ちている。
まさにため息が出るような “けだるさ” だ。
▼ 『さらば愛しき女よ』 オープニングロール from YOU TUBE
もの憂いメロディーのタイトル曲の向こうには、1940年代のロサンゼルスの夜景が広がる。
なんとも、美しく、さびしく、とりとめもない空気に満ちた夜景。
自動車のライトとネオンサインに彩られた都市風景というのは、1920~30年代にこの世にはじめて誕生した光景で、この映画の背景となった1940年代ともなると、それがより爛熟した美しさを獲得した時代であった。
なのに、この光景は眠りの浅い夜に見る夢のように、はかなげだ。
たぶんそこには、マーロウが暮らしたロサンゼルスという街の “いびつさ” があらわれている。
世界で一番さびしい街「ロサンゼルス」
ロサンゼルスは、モータリゼーションという文化をはじめて手に入れた人類の、壮大な実験都市である。
つまり、この街は、ニューヨークやロンドン、アムステルダムなどといった「人間の歩く尺度(ヒューマンスケール)」で作られてはいない。
では、なんのスケールで構成されているかというと、「自動車のスケール」で作られている。
だから、車に乗っている限りは、きわめて快適な街ではあるが、ひとたび車を降りると、なんとも空虚な、それこそ人間でいることの無力感にどっと襲われるような、索漠たる気分に包まれる街だ。
人間の身体感覚を超えた、異質な原理に貫かれた街。
この街の美しさというのは、人間の感じるリアリズムから外れているところに由来する。
オープニングロールが終わると、フィリップ・マーロウがそのロサンゼルスの夜景を見下ろしているカットにつながる。
彼の口から、こんなモノローグが流れる。
「今年の春、はじめて疲れを感じ、年をとったと思った。
たぶん、ロスの不快な気候やくだらない依頼のせいだ。
なにしろ、行方不明の夫や妻を探し回る生活だ。
ただ金のために。
でも、それだけではなく、やはり年をとったせいかもしれない」
最初から、もう “かったるさ” 全開である。
この映画の撮影時にマーロウを演じるロバート・ミッチャムは58歳。
原作では、このときのマーロウは38歳ぐらいに設定されている。
年が合わない。
その違和感を解消するために、映画では、
「俺も年をとって疲れた」
というモノローグを入れて、整合性をとろうとしたのだろう。
そんな疲労感たっぷりの主人公を唯一まぎらわせてくれるのが、野球選手ジョー・ディマジオの活躍だ。
1941年。
ニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオは、56試合連続ヒットという途方もない記録を更新中だった。
彼の連続安打がいつまで続くのか。
仕事に疲れたフィリップ・マーロウの関心事は、もうそれだけといってよかった。
もちろん、このジョー・ディマジオのエピソードは、小説の原作にはない。
映画化されたときに、脚本につけ加えられたものだ。
しかし、この挿話は、これから始まる物語が「いつの時代の話なのか」ということを的確に解説している。
さらにいえば、ディマジオの記録更新にしか興味を感じなくなった主人公の荒廃した精神風景をも説明している。
そういった意味で、この映画の脚本はチャンドラーの原作を忠実になぞっているわけではないのに、まさにチャンドラーの文体がそのまま映像になったような憎い作りになっている。
ハードボイルド作品はお洒落な会話が命
映画のなかで流れる会話もおしゃれだ。
冒頭のフィリップ・マーロウの独白が終わると、彼は知り合いの警部に電話をかける。
電話の相手はマーロウとは “腐れ縁” の仲といっていいナルティー警部補(写真下)である。
そのナルティーが電話で呼び出されて、マーロウのいるホテルを尋ねてくる。
ナルティー自身は、マーロウに対して友情に近い感情を抱いているのだが、彼の部下の刑事は、マーロウのことを嫌っている。
その刑事をパトカーの中に閉じ込めておくために、ナルティーは部下に向かって命令する。
「ここで待ってろ」
「いつまで?」
と尋ねる部下。
「警部補になるまでだ」
ナルティーはそう言い捨てて、車を降りる。
続いて、彼はマーロウの泊っている部屋のドアをノックする。
「誰だ?」
と尋ねるマーロウ。
「白雪姫だ」
と答えるナルティー。
「こびとは?」
と聞きながら、マーロウがドアを開ける。
マーロウがいつも依頼される “くだらない仕事” の例として、ダンスホールで男あさりをする家出少女を保護するというエピソードが紹介される。
少女をダンス会場から連れ出し、入口で待っていた両親に引き渡すマーロウ。
そのマーロウに向かって、母親が25ドルの報酬と5ドルの経費をチップを付けて、渡そうとする。
するとマーロウは、チップの方を断る。
「チップを取るのはペットの捜索だけだ。犬猫は5ドル。象なら10ドル」
全編が、こんな調子の会話なのだ。
マーロウをはじめとする登場人物たちは、すべてこういうジョークを仏頂面のまま、かったるそうにつぶやく。
たぶんハードボイルド小説の空気感というのは、主人公たちが、洒落たジョークをつまらなそうに語るときに生まれるものなのだろう。
この映画を観ていると、原作が持っているそういう匂いが伝わってくる。
センチメンタルなミステリー
この映画を、ミステリー映画やサスペンス映画のように期待すると、きっと裏切られる。
原作を読まなかった人でも、映画が進行するにつれて、今後の話がどう展開するのか、どういう連中が犯人なのか、およそ想像がつく。
私はそれでいいと思う。
そもそもハードボイルド小説というのは、謎解きではない。
特にチャンドラーの書くものは、情緒小説である。
真犯人探しだけに終始するミステリでは味わえないセンチメンタルな哀感をたっぷり味わえばいいのだ。
この映画も、原作の持つセンチメンタリズムを大事にしながら、泣ける展開で進んでいく。
なにしろ、今回マーロウが引き受けた仕事の依頼人は、粗暴な性格と強靭な肉体を持ちながら、幼児のような純粋さを失わない男なのだ。
男は “大鹿マロイ” と呼ばれる。
マーロウの表現によると、「突如街中に “自由の女神” が現われたと感じるほどの大男」だ。
マロイ(上)は、「ベルマ」という名前を持つ美しい恋人のために、銀行強盗を働き、8年間刑務所で過ごした。
しかし、最初の1年が経過する頃には刑務所に手紙も来なくなり、出所してみると、ベルマは失踪していた。
「俺の可愛いベルマを探し出せ」
というのが、マーロウが依頼された仕事である。
多くの観客は、依頼を受けた段階で、大鹿マロイを待ち受けている悲しい結果が想像できてしまう。
ケンカだけはやたら強いマロイの致命傷は、赤子レベルのような粗雑な認識力だ。とても魅力的な女を長い間つなぎとめておくことなどできそうもない。
だから、彼の気持ちが純粋であればあるほど、騙される男の悲劇が目に浮かんでくる。
しかし、フィリップ・マーロウという探偵の不思議さは、相手がどんなに愚鈍であろうとも、依頼人に対しては誠実に、命を張ってまでも職務を遂行しようとする侠気を持ち合わせているところにある。
マーロウは、マロイを殺そうとする謎の組織の銃撃の巻き添えを食いながら、かつ殺人犯としてマロイを追跡する警察の捜査から彼をかばいながら、次第に事件の核心に迫っていく。
そのマーロウの前に立ちふさがるのが、シャーロット・ランプリング演じる魔性の女である。
彼女は、ロサンゼルスの政界に大きな影響力を持つ大富豪の若奥様に収まりながら、旦那が部屋を覗いているのを知りつつも、平気でマーロウを誘惑するような大胆な生き方ができる女だ。
この女性の私生活が描かれることによって、次第に当時のロサンゼルスの上流階級の腐敗が暴き出されていく。
そして、マーロウが、マロイの元恋人である「ベルマ」に迫ろうとすればするほど、それを邪魔だてする勢力の抵抗に遭い、「ベルマ」の居場所を知っていそうな関係者たちが、次々と殺されていく。
無邪気で愚鈍な男の悲劇
結局、ハッピーエンドは訪れない。
依頼人の大鹿マロイは、自分が元恋人のベルマに去られた理由を最後まで理解することができず、ようやく再開した最愛の恋人が自分に向けた銃口に、むしろ喜んで飛び込むように死んでいく。
マーロウの手元には、悪の組織がマーロウを手なずけるために渡した2000ドルが残っていた。
事件が解決したわけだから、マーロウが着服しても何も問題が残らない金なのだが、彼はそんな金を欲しいとは思わない。
ラストシーン。
彼は、遊戯センターの野球ゲームの前にうずくまるような格好で、所在なくゲーム盤のバットを振るっている。
ジョー・ディマジオの連続安打記録は、このとき「平凡なピッチャーによって、あっけなく食い止められた」ことが、遊戯センターのベンチに置き去りにされた新聞で報じられている。
「2000ドルの使いみちは、もう決まっていた」
というモノローグとともに、マーロウは野球ゲーム盤を離れ、2000ドルをポケットに入れ直して、今回の事件に巻き込まれて殺されたバンドマンの母子が住んでいるホテルに向かって歩き出す。
彼は手にした金を、貧しい母子に渡すことで、自分の心を清算しようとするのだ。
裏さびれたホテルの玄関に消えゆくマーロウの背中に、エンドロールが流れ始める。
物悲しいレトロ感
全体を通じて印象に残るのは、やはり、物悲しいレトロ感をたたえた映像の数々だ。
特に、街の風情が鮮やかだ。
ここでは、男たちの物憂い表情以上に、くたびれた光をまき散らす街のネオンが主役だ。
1940年代のアメリカは、光り輝くネオン管に彩られた「太陽の沈まない国」を実現した。
しかし、24時間人工の光に照らされることになった街は、人々から睡眠を奪うことになった。
そのため、夜の街には、不眠症患者の不安を煽るような場所が至るところに、顔を覗かせることになる。
それまで光の届かない闇というのは “何もないただの空間” に過ぎなかったが、ネオンライトが点滅する空間にまぎれ込んで来た闇には、“何か” が潜むようになる。
人を誘惑するか、犯罪に引き込むような “何か” が。
アメリカに生まれ、「新しい都市空間」のさびしさを描いた画家のエドワード・ホッパーは、このような “闇” を絵に残した。
▼ エドワード・ホッパー『ナイト・ホークス』
ホッパーが描いた「ナイト・ホークス」(1942年)は、まさにフィリップ・マーロウが “くだらない仕事” をこなすために徘徊する1940年代のアメリカ風景そのものを表現している。
明るく照らされたダイナース(簡易食堂)の外側に立ち込める絶対的な虚無を秘めた暗がり。
都市に潜むこのような “闇” を、1940年代のアメリカ人ははじめて知ったのだ。
そのことを、『さらば愛しき人よ』という小説とそれを映画化した本作は伝えてくる。
シルベスター・スタローンのデビュー作
余談だが、この映画には、悪の組織に雇われたチンピラ運転手として、シルベスター・スタローンが登場している。
後のハリウッド史上最強のアクションスターが、ここでは単なるチンピラ役しかもらえなかったというのが感慨深い。
彼がこの映画に出演していたことは、1975年当時に封切館で観たときには気づかなかった。
当たり前かもしれない。
スタローンがボクシング映画の『ロッキー』で世に知られるようになったのは、この『さらば愛しき人』が封切られた翌年の1976年になってからだ。
しかし、この映画に登場した無名時代のスタローンは、いかにもイタリア・マフィア系のチンピラにいそうな「軽薄だがしたたかな男」という雰囲気を上手に伝えていた。
端役であったが、このときすでに彼は、ハリウッドで頭角を現すためのオーラを身につけていたのかもしれない。