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『第三の男』は今でこそ見るべき映画


『第三の男』に描かれた魔都ウィーン

 

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 50年以上の前の話だ。
 冷戦時代の西ドイツのボンやケルンを回ってから、オーストリアのウィーンに入ったことがある。

 

 同じゲルマン系の人々が住む街だから似たようなものだろう、と思っていたが、ウィーンに着くと、まったく別の世界にさまよい込んだような気分になった。

 

▼ 映画『第三の男』のなかのウィーン

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 にぎやかながらも、健全で、清潔な西ドイツの諸都市に比べ、ウィーンはアジア的なエキゾチシズムに満ちているように思えた。
  
 「アジア的」という表現が誤解を生みそうだから、言葉を変えていうと、写真や映画でしか見たことのなかった “東欧” をそこに感じた。
 


▼ 映画『第三の男』のなかのウィーン

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 それまで、「ウィーン」という語感から、単純に「ウィンナーコーヒー」とかヨハン・シュトラウスの音楽とか、「ウィーン少年合唱団」などといった、愛らしく、洗練された文化に満たされた街を想像していたが、実際に目の当たりにしたウィーンは、(確かにメルヘンに出てくる街のようではあったが、)それ以上に、カフカの小説に出てくるプラハのような妖気が漂っていた。

  

 
これは「歴史的な名画」である

 

 そんなウィーンの不思議な妖気を忠実に表現した映画の一つに、キャロル・リード監督の『第三の男(The Third Man)』(1949年)がある。

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 実は、私がWOWOWで、この映画を観たのはたかだか5~6年ぐらい前のことにすぎない。
 『第三の男』が有名な映画であることは知っていたが、どんな内容なのか、それまでまったく気にとめたこともなかった。

 
 しかし、映画を観ているうちに、
 「これは、人々がこのまま忘れてしまうにはもったいない作品だ」
 という思いを強くした。

 

 こういう映画は、現代ではもう撮れない。
 1949年という、あの時代でなければ撮れない作品なのだ。
 その理由はあとで述べるが、一言でいうと、現代のハリウッド映画などを空しく感じさせるような中味の濃い映画でもあった。 

 

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 サスペンスドラマだが、ストーリーはそれほど複雑ではない。
 第二次大戦が連合国軍の勝利に終わったので、アメリカ人作家のホリー・マーチンスは、敗戦国のオーストリアで暮らしている幼なじみハリー・ライムを訪ねようと、ウィーンにやってくる。
   


▼ ジョセフ・コットン演じる「ホリー・マーチンス」

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▼ オーソン・ウェルズ演じる「ハリー・ライム」

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 しかし、ホリーがウィーンに来たとたん、ハリー・ライムは謎の交通事故で死亡したと関係者から聞かされる。

 

 その後、ハリー・ライムは死んでいなかったことが判明。
 彼が死んだというニュースは、幼なじみのホリーとは会いたくないハリー・ライム側の事情による嘘であることが分かってくる。 

 

 (一気にネタバレになるが)、ハリー・ライムは、実は犯罪組織の大ボスで、自分の身元を知る人間と会うことを極力避けたかったのだ。

 

▼ しかし、ついにホリーは、街角の闇に消えゆこうとしているハリー・ライムの顔を発見する。

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▼ そして、遊園地の観覧車のそばで旧友のハリー・ライムと再会をはたす。

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第二次大戦 直後でなければ
描けなかった映画

 

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 ストーリーは、このホリー・マーチンスとハリー・ライムという二人の男によって進められていくのだが、実は、ウィーンという「街」そのものが、もうひとつの “主役” であると言い切れるほどすごいのだ。

 

 つまり、ウィーンという美しい街並みが、そのまま “魔宮” にもなっていることが分かってくる。
  
ジョルジョ・デ・キリコの絵画を彷彿とさせる夜の街

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 ウィーンの画家クリムトの描くような装飾化された建物群。
 古色蒼然としたアール・ヌーヴォー様式で貫かれた家屋の室内。
 めまいを起こさせるような複雑な螺旋(らせん)階段。

 

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 そして、冥界の象徴ともいえる入り組んだ地下水路。
 カフカ的な混沌に満ちた世界が、次々と広がっていく。

 

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 そこに第二次大戦の傷跡が重なるため、街には戦禍の後を生々しく伝える瓦礫が残り、さらに「廃墟の美」が加わる。

 

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魔王の棲む「地下宮殿」

 

 映画が墓地のシーンで始まり、墓地のシーンで終わるのも象徴的だ。
 その墓地と、墓地との光景をつなぐものこそ、ハリー・ライムが逃げこむ「地下水路」なのである。

 

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 それは、死者しかいないはずの地下世界こそ、地上からは発見できない “真実” が隠された場所であることを語っている。
 あたかも、生者が住む「地上」というのは、実は “廃墟” に過ぎず、地下こそ、真の宴の世界であるかのように。

  
 オーソン・ウェルズが演じるハリー・ライムは、その地下の宴の世界を仕切る魔王のような存在だ。


 戦争による秩序の混乱。
 価値の転換。
 モラルの低下。

  
 それらを巧みに利用し、大量の人間を死に追いやっても、平然と自分の利益だけをむさぼろうとするハリー・ライムは、地下では魔王でありながら、秩序が回復した地上の世界では生きてはいけない、哀しい生き物である。
  
 その哀しさは、女の心をとろけさせる。

 

 

愛に生きる女には男の
ずるさが理解できない

  
アリダ・ヴァリが演じるハリー・ライムの愛人アンナ。
 彼女はハリー・ライムが極悪非道の大悪人であることを決して信じようとはしない。

 

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 小説家のホリー・マーチンスは、ハリー・ライムの恋人アンナに横恋慕するが、“魔王” の哀しみに共感している女の気持ちを変えることはできない。

 

 ホリーが、ハリー・ライムのことを、
 「女を平気であざむく、不実な男だ」
 と力説すればするほど(それが事実なのだが)、女の気持ちは、逆の方向に固まっていく。
 
  
 映画のテーマは、たった三つ。
 「愛」
 「友情」
 「正義」

 しかし、その三つが、けっして並び立つことがないことを、この作品は教える。

 

 

生きている男が
死んだ男に負けた瞬間
  
 最後は、あの有名なラストシーン。
 一直線に伸びる並木道のなかほどに立ち止まり、ホリーが女(アンナ)を待ち受けている。

 

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 しかし、ハリー・ライムを愛し続けたアンナは、ハリーが死んだ後も、その気持ちをひるがえそうとはしない。
 彼女は、並木道の途中で待ち続けるホリー・マーチンスの存在を認めながら、振り向くことすらしない。

 

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 女に完璧に無視された彼は、やがてけだるい手つきで、煙草を地面に投げ捨てる。
 誠実だけど退屈な「生きている男」が、残忍で狡猾な「死んだ男」に負けた瞬間だった。
  
 ハリー・ライムという魔王のような男も大戦直後のウィーンでなければ生きていけない男だったが、それを慕うアンナもまた、まぎれもなく魔都ウィーンでなければ生きていけない女であったのだろう。

 

 

 
  
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