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映画『フィールド・オブ・ドリームス』

フィールド・オブ・ドリームス

フィールド・オブ・ドリームスとは編集

 
 

 
映画批評
キャッチボールという文化
 

ボール遊びができない環境が増えている
  
 子供たちが、広場でキャッチボールをしているという風景をあまり見なくなった。
 首都圏の住宅街には「広場」というものがなくなってきたせいかもしれない。
 きれいに植林されたチマチマした小公園はたくさんできたものの、そういう場所はたいてい「ボール遊び禁止」。

 

 もっとも「ボール遊び」をするような子供もいなくなった。
 昔は、男の子が兄弟同士で遊ぶときは、まずボールの投げ合いからスタートしたものだが、今の男の子の兄弟にはそういう場を共有する時間もなく、どちらかが塾に通っていたり、空いた時間があれば家でTVゲーム。

 

 本当に野球をやりたい子供たちには、地域ごとに組織されている少年野球チームに入る道もあるが、そこまでのめり込む気持ちのない子供にとって、ほんとうにボール遊びができる環境が街から消えた。

 私は、これを「父と子のコミュニケーションの危機!」と考えている。

 

 ジーンズと、コーラと、マクドナルド・ハンバーガーという物質文化しか子供に与えることのできなかったアメリカが、唯一子供に与えられる精神文化として育てあげたのがキャッチボール。

 このキャッチボールが、どれだけアメリカの父や子供たちに、そして日本の親子に対して、「会話の交わし方」を教えたかを思うと、まさに気の遠くなるような恩恵の深さを感じる。

 
父親が教えてくれたキャッチボール

 

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 私の親父は、あまり運動神経に恵まれない鈍くさい男だったが、それでも私が小学校に入ったぐらいの年になると、グローブを二つ買い、家の近くの空き地に私を連れ出して、キャッチボールを教えてくれた。

 大人の繰り出すボールは、素人でもそれなりに速い。
 鈍くさい親父の球でも、受け損ねて膝に当てたりすると、けっこう痛い。
 すると、向こうも子供が取りやすい球の速さやコースを考えて放ってくる。
 こっちにも、親父がいろいろと模索していることが伝わってくる。

 「あ、これはコミュニケーションなんだ」
 と思った。

 もっとも、当時 “コミュニケーション” という言葉があることなど知るよしもない。
 しかし、ボールを媒介にした “心のやりとり” が生まれていることだけは子供心にも理解できた。


永遠のキャッチボール映画

 

 「永遠のキャッチボール映画」といえる名画がある。
 1989年にフィル・アルデン・ロビンソン監督がメガホンをとり、ケヴィン・コスナーの主演で話題になった『フィールド・オブ・ドリームス』だ。

 

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 舞台は、アメリカ・アイオワ州
 画面には、見渡す限りのトウモロコシ畑が広がる。
 主人公は、その畑を切り盛りする36歳の男(ケビン・コスナー)。
 妻と幼い娘がいる。

 

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 男は、かつて若い頃に父親と口論し、そのまま家を飛び出してしまったという苦い過去を持っている。
 
 父親は、野球だけが趣味という退屈で頑固一徹な人間だった。
 そんな親父のことを嫌い、思想運動に傾倒していく主人公。
 再会することも叶わぬうちに、息子は遠く離れた地で、父親が死んだことを知る。
 
 そのことが、いつまでも主人公のメランコリーの種になり、彼の心の空洞には、静かなすきま風が吹いている。

  
トウモロコシ畑に降ってきた謎の啓示
  
 時間も風も静止したようなトウモロコシ畑の上には、午後の日差しだけがギラギラと降り注ぐ。

 

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 そんな日が永遠のように続く。
 だが、何も起こらない。
 
 でも、そういう時って、必ず「何か」が降りてくるものだ。
 主人公は、自分のトウモロコシ畑の中を歩いているとき、突然、
 「それを造れば、彼らが来る」
 という謎の啓示を受ける。

 

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 誰が、どこからそうささやくのかは分からない。
 しかし、彼は啓示に動かされ、何を造ればいいのか分からないのまま、トウモロコシ畑の一部を刈り始める。
 
 男が造ったのは、手づくりの野球グランドだった。
 

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 でも、何も起こらない。
 ナイター設備まで整えた無人のグランドの上に、夕暮れの光が降りてきて、グランドを青く照らす。
 それが、いつまでも、いつまでも続く。

 

野球選手の幽霊たちが遊ぶ場所
 
 ところが、ある日、そのグランドに一人のユニフォーム姿の野球選手が現れる。
 今では見ることもない大昔の不格好なユニフォームを着た選手だ。
 
 その選手は、戸惑いながらも、自分がグランドに立っていることに気づき、グランドの脇に放り出されていたバットやボールを眺め、そして主人公の姿を認めて、話し掛けてくる。
 「ここは天国か?」
 
 選手は、かつて伝説のスタープレイヤーとして知られた、亡きシューレス・ジョーだった。
 

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 といっても、日本人にはちょっと、その “凄さ” が実感できない。
 シニア世代なら、すでに伝説化している「長嶋茂雄」のことを思い浮かべると、そんなイメージに近いのかもしれない。
 
 主人公の造ったグランドは、ベースボールを愛し続けながらも、途中で断念せざるを得なかった往年のスタープレイヤーたちを招待する「天国の球場」だったのだ。 
 グランドには、やがてシューレス・ジョーの仲間たちが集まってきて、練習に明け暮れるようになる。
 みな、昔「八百長をした」という疑惑に翻弄され、野球界を去らざるを得なかった選手たちの幽霊だった。

 

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 オカルトともホラーとも取れる設定なのに、ここで描かれる幽霊たちの姿は、どこか明るく、ほのぼのとして、のんびりしている。


父親との再会
 
 最後に、男の造ったグランドに現れたのは、彼の父親だった。
 やはり、野球が好きで、かつてはマイナーリーグでプレーをしたこともある父。
 
 独身時代の若々しい表情を持った父親は、主人公に近づいてきて、こう尋ねる。
 「ここは天国か?」
 
 父親の眼差しは、明るい陽光のもとで、金色に輝く芝生に覆われたグランドに注がれている。
 「ここはアイオワだ」
 と親父の幽霊に答える主人公。
 
 「美しい。天国のようだ
 父親の口からため息がこぼれ出る。
 
 「天国はあるのか?」
 と、今度は主人公が父親に尋ねる。
 
 「あるとも。それは “夢が実現する場所(フィールド・オブ・ドリームス)” のことだ」
 
 トウモロコシ畑の中に消え行こうとする父親の背中に、主人公が叫ぶ。
 「パパ」 
 
 振り返る父。
 見つめ合う2人。
 やがて、2人の間で、静かにキャッチボールが始まる。
 

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 この光景を見た世の父親で、男の子にグローブを買ってやろうと思わない親がいるだろうか。
 
 私は買った。
 息子が小学生になったばかりの頃だったろうか。
 その最初の誕生日のプレゼントがグローブだった。
 
 買ったばかりのグローブを息子の手にはめさせ、私たちは、学校の校庭が広がる丘の上に登った。

  

キャッチボールは父と男の子の会話だ

 

 春休みだったのか、夏休みだったのか。
 近所の女子高の校庭には人影もなく、夕方の黄色みを帯びた光が、校舎に沿って植えられたポプラ並木の影を、校門の近くまで長く引っ張っていた。
 
 息子をピッチャーに仕立て、私は腰を落として、キャッチャーミットのように自分のグローブを構えた。 
 弱々しくも、意外と素直な球道を描いて、ヤツのボールが自分のグローブに収まったとき、ジーンときた。
 自分の「フィールド・オブ・ドリームス」が実現した瞬間だった。
 
 キャッチボールというのは、「男の会話」なのだ。
 
 相手が取りやすい位置を狙い、神経を研ぎ澄ませて、渾身の一球を送る。
 それがうまく相手のミットに収まれば、相手もまた精魂込めた一球を投げ返す。
 洗練された沈黙に守られた、美しい会話。
 
 ファーストフードとジーンズという文化しか世界に広めることができなかったアメリカが、唯一実現した「父親の文化」。
 それがキャッチボールだ。
 
 この「男と、男の子の文化」を生み出しただけでも、アメリカは偉大だ。

 

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