
- 1960年生まれ。慶応大学文学部哲学科卒業。専門用語を使わず、哲学するとはどういうことかを日常の言葉で語る。 著書「14歳からの哲学」は27万部のベストセラーとなった。 2007年2月23日、腎臓癌のため死去。46歳。 当時連載していた「週刊新潮」に死後発表さ.. 続きを読む
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文芸批評
才女の最後のエッセイ
「哲学者」という言葉の意味を変えた人
池田晶子(いけだ・あきこ ↓ )という文筆家の書くエッセイが好きだった。
彼女は、誰もが使う平易な言葉で、誰も思いつかないような独特な世界観を提示する人だった。
「哲学者」
という肩書を持つ人だったが、本人はそういう構えた呼称を嫌い、「文筆業」と名乗ることが多かった。
今から10年以上前、私はこの人の連載するエッセイを読むために、『週刊新潮』と『サンデー毎日』を毎週買った。
『週刊新潮』に連載されたエッセイのタイトルは、『人間自身』。
そこで彼女は人の意表を衝くような、時として、人の気持ちを逆なでするような意見をからりと言ってのけた。
文章は平易だが、常識にとらわれ過ぎた “善意の人々” を挑発するような意地の悪さも潜んでいて、その毒気に当てられて気が滅入った読者も多かったに違いない。
でも、私にはその「毒」がとても爽やかに感じられた。
できれば、その「毒」のシャワーを全身に浴びて、自分の浅薄な脳にこびりついた垢をきれいさっぱり洗い流したいと思っていた。
ときに、こんな文章がある。
「多くの大人は、子供より先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは『生活』であって、『人生』ではない。大人は子供に生活を教えることが、人生を教えることだと勘違いしている」
(週刊新潮 2006 10/26号 『人間自身 172回』)
「フェミニズム」を超えて
あるときは、こんなことを言う。
「私は『男女平等問題』というものに関心がない。だから私はフェミニズムの陣営からは『女の敵』と見なされているらしい。
私は、男女の区別は人間にとって本質的な問題ではないと思っている。確かに差別や区別は明らかに存在する。しかし人間にとって大事な生きる死ぬに関しては、男も女も必ず死ぬという意味で、平等である。
私は、女の口から『男の論理』 『女の論理』という言葉が出てくると、あ、馬鹿だな、と感じる。そういう考え方は、この世に『男一般』『女一般』が存在すると錯覚するところから出てくる。現実には、考え方がそれぞれ異なる個々別々な男と女がいるだけである」
(週刊新潮 2006 10/5号 『人間自身 169回』)
さらには、次のような記事も。
「いじめで自殺する子があとを絶たない。追いつめられた子供は、死をもって抗議するしかなくなる。
死をもって抗議するということは、その良し悪しは別に、人間にだけ可能な行為である。
誇りのために死ぬ。正義のために死ぬ。
人間には命よりも大事なものがあると思うから、この行為は成立する。受ける側も、その意味を理解する。『命を賭けた行為だな』と。
しかし戦後教育は、命よりも大事なものはないと教えてきた。つまり、どのようであれ、生き延びればよいのだと。
人間には命よりも大事なものがあるということを理解しない社会が、抗議の自殺をも黙殺する」
(週刊新潮 2006 11/23号 『人間自身 176回』)
人の「命」という価値を
再度根底から問い直す
「人の命は地球より重い」と教えてきた戦後教育の推進者たちは、上記のような意見を読むと、眼を剥いて怒り出すだろう。
しかし、「人間には命よりも大事なものがある」という一言は、人間に思考をうながす。
そこには、「人間」を規定するのは、物理的な肉体なのか、それとも精神なのかという根源的な問が提示されているからだ。
私は、自殺そのものには否定的だが、そのような問の重さは分かる。
「命を尊重する」ということを是とする人たちも、もう一度この根源的な問いに向き合うことによって、自分の言葉を鍛え直さないといけないように思う。
秋のさびしさと向かい合った
静謐なエッセイ
そのような、辛辣な逆説を胸のすくような語り口に乗せて書かれる彼女のエッセイが、ある日、突然トーンを変えたことがあった。
「季節は、春夏秋冬を繰り返しめぐるものだが、それでもそこに始まりと終わりとがある。
人は、春は始まり、秋が終わりと感じる。冬が終わりなのではなく、むしろそれは始まりを胎(はら)んで静止する時間のようで、秋の方にこそ人は、終わりへ向かうという感じを持つ。
日が暮れるのが確実に早くなり、3時を過ぎるともう日差しの気配が変わっている。
傾いてきた日がつくる物の陰が、淡く、長くなり、急がなくちゃとせかされる気持ちになってくる。
秋はそれ自体が暮れる季節だから、その夕暮れの寂しさは一段と迫るものがある。もみじが散ってから冬至の日までの夕暮れ時の寂しさは、文字どおり人生の終わりみたいだ。
独り暮らしの年老いた未亡人が、夕暮れが辛いとこぼしていた。
『見渡せば 花もモミジもなかりけり 裏のとま屋の秋の夕暮れ』
(藤原定家)
『終わりに向かう』とは、死へ向かうということに他ならない。
『寂しい』とは、『生命力が衰えゆく感じ』を指している。
元気に伸びゆく植物を見ると、我々の心は元気になり、枯れ衰えてゆく植物を見ると、我々の心は沈んでいく。
なぜそうなのかというと、人間は同じ生命として、自らを植物のように感じるからだ。人間の感覚として最もプリミティブな層にある生命としての原感覚がそう仕向ける。
季節が人間の心そのものなのは、我々が自分でそう思っている以上に、自然的生命として存在しているからだ」
(サンデー毎日 2006 12/10号 『暮らしの哲学 33回』)
絶筆
この文章を読んだとき、いったい彼女はどうしたのだろうか? と私は思った。
このような文芸調の詠嘆は、彼女がもっとも気恥ずかしいものだと回避していたものではなかったのか?
ただ、美しい文章だと思った。
「秋」という季節を表現するのに、これほど切ない文章はほかにないような気もした。文章の底に、どうしようもない深い哀しみが横たわっていて、読んでいるのが辛かった。
『サンデー毎日』の連載エッセイは、確かにそれを最後に休止となったように記憶する。
何度か「休止」の知らせが目次に載ったあと、「エッセイは終了しました」という知らせが掲載された。
池田晶子が腎臓ガンにより、46歳という短い生命を閉じたのは、最後の連載が掲載されてから2ヶ月半ほど経ってからである。
彼女の描いた “秋にまつわる随想” は、病床から眺めた心の風景であったのかもしれない。
池田晶子 2007年 2月23日永眠。
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