絵画批評
絵画史上まれなる恐ろしい絵
19世紀の画家ポール・ドラローシュの描いた「レディ・ジェーン・グレイの処刑」は、世にも恐ろしい絵である。
私がこの絵を見たのは、ちょうど30年前だ。
朝日新聞の日曜版に掲載されていた『世界 名画の旅』という連載読み物が全5巻の書籍としてまとめられので、全巻そろえた。
その最終巻に、この絵が見開きで紹介されていた。
なんと「怖い絵」か! と驚いた。
正直にいうと、「おぞましい絵」だった。
「リアル」という言葉よりも、「生々しい」という表現の方が合いそうな、生理的な気味の悪さが漂ってくる絵に思えた。
絵の背景となる歴史的事実を知らない人でも、ここに描かれているのは、一人の高貴な少女が首を切られる数分前の情景であることが一目瞭然に分かる。
彼女の名前は、レディー・ジェーン・グレイ。
16世紀中頃に生まれたイングランド王室の娘で、王室内の権力闘争に巻き込まれ、16歳のときに本人も希望しない「イングランド女王」として即位。
しかし、反対派の巻き返しによって、在位9日間で女王の座を追われ、幽閉生活を送った後、7ヶ月後に反逆者として処刑される。
その刑の執行シーンを、フランス人画家のポール・ドラローシュ(1797~1856年)が切り取ったのがこの絵だ。
発表当時から評判となり、夏目漱石もイギリス留学中にこの絵を見て衝撃を受け、小説『倫敦塔』の中で紹介している。
この絵の「おぞましさ」の正体は何だろう。
それは、この絵が、鑑賞者の「怖いもの見たさ」をくすぐるショー的機能を持っているからである。
多くの鑑賞者は、この哀れな少女の薄幸さを嘆き、残酷な運命に涙する。
しかし、その一方で、鑑賞者は、ショーの顛末をこの目で見たいという邪悪な期待感も抱いてしまう。
その後ろめたい気分が、この絵を見た人を襲う「おぞましさ」の正体である。
『怖い絵』の作者、中野京子さんは、この絵をこんなふうに紹介している。
「若々しく清楚な白い肌のこの少女は、一瞬後には血まみれの首なし死体となって、長々と横たわっているのだ。そこまで想像させて、この残酷な絵は美しく戦慄的である」
この一言に、この絵の “怖さ” が集約的に説明されている。
キーとなる言葉は、
「 … そこまで想像させて … 」
である。
つまり、この絵が怖いのは、この数分後には確実に訪れている凄惨な情景を、もっとも生々しい形で鑑賞者に “想像させる” からである。
少女に迫る確実な「死」。
しかし、「死」というものを、人間は見ることができない。
「死体」を見ることはできるが、“死” を見た人間はこの世には誰もいない。
その見えない死を、想像力を刺激することで、あたかも、見えるぐらいの “距離” までたぐり寄せてしまったのが、この絵である。
美術史家の解説によると、この絵には創作上の工夫が随所に凝らされているという。
まず、処刑場を薄暗い壁に囲まれた室内に設定したこと。
実際の処刑は、ロンドン塔の屋外広場で行われたらしい。
しかし、あえて舞台を室内に移行させることによって、少女の置かれた環境の陰鬱な閉鎖感を強調しようとしたとか。
次に、少女の人体比率を、他の人間よりも小さくしたこと。
特に、右側に立つ処刑人と比べると、少女の体は、その70%程度に縮められているという。
画家の狙いは、少女の可憐さを際立たせることで、彼女を襲った運命の悲劇性を訴えたかったとも。
また、少女の衣装の色も、事実とは異なるらしい。
この時代、処刑される人間は一様にダークグレーの囚人服を着させられることになっていた。
しかし、画家はそういう考証を無視し、少女には光沢のある白のドレスを身に付けさせることによって、彼女の高貴と純潔を表現しようとしたという。
つまり、この絵はショーなのである。
観客に衝撃を与え、観客を楽しませるために巧妙に計算されたショーなのだ。
だからこそ … と言えばいいのか、この絵が訴えてくる衝撃にはすさまじいものがある。
目を閉じても、この絵は人々の網膜にしっかりと刻印され、目が覚めても消えない悪夢として残る。
中野京子さんが取り上げる『怖い絵』シリーズに紹介されている絵は、中野さんの解説を読んで、はじめて “怖さ” の本質が見えてくるといった性格のものが多いが、この「レディ・ジェーン・グレイの処刑」だけは、解説抜きで、ストレートに怖さが伝わってくる。
「好きな絵か?」
と問われると、好きではない。
しかし、この絵には、人間の邪悪な好奇心を満たす仕掛けが巧妙に散りばめられていることに対しては、ほんとうに感心してしまう。