アートと文藝のCafe

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エドワード・ホッパーの “晩秋”

  

 師走。
 この年最後の月が来てしまった。
 
 とはいえ、12月初頭は、まだ “晩秋” の気配が残っている。
 年の瀬が近づく頃より、逆に、今の方が「一年の終わり」という空気感が漂う。

 

 真冬になってしまえば、逆に、訪れる春に向かって、生命が待機状態に入っているという気分が強まってくる。
 大地は枯れ果てても、土の中で生命が胎動している気配を感じ取ることができる。
 
 しかし、晩秋は「終わっちゃったよ 」の感じ。
 暮れゆく空を眺めていると、パチンコの最後の玉が穴に消え行くのを目で追ってから、おもむろに席を立つときの、あの心境に近づいていく。
 

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 冬に近づくと、光が変る。

 どこか、この世でないところから射してくる光が感じられる。
 落ち葉の上を、ひたすら、細く、長く伸びていく影。
 地平線があれば、それを超えて、さらにその先まで伸びていきそうな初冬の影を見ていると、影が、この世界とは違う場所に行こうとしているような気がする。
 

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 照射角の低い晩秋の陽は、建物の真横を直撃し、そのために、ただの家の壁さえもメタリカルに輝き出す。
 
 エドワード・ホッパーの絵を見ていると、いつもその晩秋を感じる。
 この世でありながら、この世界を超越するような光景を作り出す不思議な光。

 

 ホッパーの絵に表れる光は、時に恐ろしく、時になつかしい。
 

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 幼い頃に見ていた風景は、大人になって接する風景よりも、はるかに美しく、鮮やかに輝いていたはずだ。

 

 しかし、それは同時に、世界を「言語」を通してみる習慣を持たなかった頃の、生々しい不安や恐怖にも彩られている。

 

 ホッパーの絵から漂ってくる怖さというのは、ちょうど迷子になった子供が感じるような怖さに近い。
 

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 彼の絵から立ち登ってくる言い知れぬ不安感は、幼い日の夕暮れに、買い物をしている親からふとはぐれてしまったときの不安感に似ていないだろうか。
 
 そういうときに見ている街の風景は、見慣れた街であっても、「この世の風景」ではない。
 時間が凍結し、物音も途絶え、「世界」が急に “うつろ” になっていく気配に満たされた風景だ。
 

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 大人になったわれわれは、「迷子」の怖さを忘れている。
 
 「迷子になる」というのは、単に親からはぐれてしまったことをいうのではない。
 自分が何者なのかも分からず、どこを目指そうとしているのかも分からないという、人間の根幹を揺るがすような不安と孤独に接する状態を「迷子」という。
 

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 ホッパーは、「迷子」の不安と孤独を描いた画家である。


 だから、彼の絵に接すると、「自分は今どこにいるのだろう?」と問わざるを得ないような、世界のまっただ中で孤立しているような哀しみがこみ上げてくる。
 しかし、そこには、とてつもない「なつかしさ」も潜んでいる。
 

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 「なつかしさ」と「不安感」は、両立する感情なのだろうか。
 ホッパーの絵では、それが見事に両立している。

 

 彼の絵に漂う「超越的な雰囲気」というのは、その二つが奇跡のように結合したところから生まれてくる。
 晩秋の不思議な光が生み出す魔術のように。 
  

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