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フェルメール『デルフトの眺望』

 

絵画批評
世界の裏側まで見通す「明晰な視界」

  
 フェルメールの絵のなかでも、『真珠の耳飾りの少女』の次に人気があるといわれている『デルフトの眺望』。

 

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 しとやかな優しい光。
 建物も運河の水面も、細部までくっきりと描かれることによって伝わってくる明晰さ。

 平和的で、安定した構図。

 

 『デルフトの眺望』が鑑賞者に与えるものは、豊かで心地よい安らぎ感である。
 この安らぎ感は、いったいどこから来るのだろう。

 


「不安」というものがまったくない絵

 

 フェルメールの絵には、(いい意味で)ドラマ性がない。
 同時代のライバル(?)であったレンブラントと比べて、ハッタリの精神もなければ、人を驚かそうとするような茶目っ気もない。

 

 彼の描く絵のテーマは、17世紀のオランダの市中に暮らす庶民たちのささやかな日常生活の一場面を、ごく控えめに、それこそ遠慮がちに切り取ったものばかりだ。

 

 この『デルフトの眺望』という風景画においても、「いつもと変わらない街の朝がまた訪れた」という日常性のさりげなさが追求されている。

 
 しかし、フェルメールの絵が鑑賞者に与える “安らぎ感” というのは、安定した日常性が約束するものとは、少し違っている。

 

 「安定した日常性」が保証するものは、退屈感である。
 だが、『デルフトの眺望』が鑑賞者に与えるのは、退屈感ではなく、目を洗ったときに感じるような爽やかな明晰さだ。

 

 言ってしまえば、この絵から得られる “安らぎ感” の正体は、クリアな視覚を得ることによって、自分の精神の健全さを自覚できるところから来るものなのだ。

  

 濁った視界が人間にもたらすのは「不安」である。
 目の前にある対象をよく見定めることができないとき、人はその対象を不気味に思うだけでなく、「不気味に思う」自分の精神もまた不健全ではないのか? という怖れを抱く。

 

 しかし、明晰な視界は、その不安を取り除く。
 取り除くばかりでなく、「クリアな世界を手に入れた」という絶対的な自信にもつながっていく。

 

 なぜなら、明晰な視界は、人間を「闇の不安」から脱出させ、「認識の優位」すなわち「知の勝利」を約束するものだからだ。

 

 『デルフトの眺望』がもたらす感動というのは、「知の勝利」の感動にほかならない。

 

フェルメールが『デルフトの眺望』を描いた実際の場所

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地球の “裏側” に到達したオランダ人

 

 こういう精神性は、実は、フェルメールと同時代を生きたオランダ人全体の精神生活を反映したものだともいえる。
 
 17世紀のオランダ人は、卓越した造船技術を発揮し、世界の海へ勇ましく漕ぎ出していった。
 大西洋からはるかインド洋を横切り、地球儀ではオランダの裏側ともいっていい日本までやってきて、日蘭貿易を始めた。
 その過程で、彼らは、「世界の裏側まで到達した!」という実感を持ったに違いない。

 

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 当時のオランダ人がそう感じていたという証拠に、フェルメールの絵には、地図および地球儀が数多く登場する。

 

フェルメール『地理学者』(上)/『天文学者』(下)

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 彼の後期を代表する『天文学者』および、『地理学者』では、研究者たちの肖像のほかに、地球儀や地図そのものがテーマになっている。

 

 それだけでなく、一般女性のつつましい日常を描いた『窓辺で水差しを持つ女』(下)のような絵でさえ、その背景には、くっきりと世界地図が描きこまれている。

 

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 地図と地球儀。
 この二つの小道具が語っているものは、オランダ市民がみな「地球の裏側まで見た」という共通認識を持っていたということである。

 

 つまり、フェルメールの『デルフトの眺望』は、デルフトというオランダの小さな町を眺望していることを意味するだけではない。
 フェルメールの目が、「地球そのものを明晰に眺望していた」ということを表現しているのだ。

 


「クリアな視界」は魔法の
ような技法によって生まれた


 では、「クリアな視界」を実現したフェルメールは、具体的にはどういうテクニックを使ったのだろうか。

 

 フェルメールは、この絵に二つの技法を導入していたという。
 一つは、「ウェット・イン・ウェット技法」。
 もう一つは、「グレーズ技法」。

 

 まず「ウェット・イン・ウェット」というのは、厚塗りした最初の絵具が乾ききらないうちに、さらに別の絵の具を重ねていく手法のことをいう。
 こうすると、厚塗りの下絵の上で、新しい絵具が複雑な凹凸を作ることになり、それによって、光の微妙な乱反射が実現される。

 

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 もう一つの「グレーズ技法」の “グレーズ” というのは、透明感が出るまで絵具を薄く延ばす技法のことをいう。
 運河の水面に揺れる光の反射に当たる部分に、この技法が使われている。

 

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 まず、最初に白い絵具で下塗りをしておく。
 その下絵の上に、フェルメールが愛好する「ラピスラズリ(青い天然鉱石)」を顔料としたウルトラマリンブルーを油で溶いて、薄く延ばしていく。
 
 こうすると、絵に光が当たったとき、光が薄い青のグレーズ層を通り抜けて、下地の白い部分を明るく反射させるため、まさに「水に揺れる光」の効果を生むことになる。 

 


「広い空」がもたらす効果

 

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 『デルフトの眺望』が実現した “クリアな視界” というのは、このような技法上のテクニックによって導き出されたものが中心となるが、構図上の工夫も見逃せない。

 

 空が広い。
 
 画面の3分の2は、開放感にあふれた大空で構成されているのだ。
 しかも、上空の雲をわざと暗くし、その奥に広がる空には、明るい青空と白い雲を配している。


 この空が暗示するものは、黒い雲が吹き払われた後にやってくる「明るい未来」だ。

 

 「眺望」とは、単に空間的な広がりを意味するだけではない。
 それは、時間的にも、将来「安全と安心」が保証されるという安堵感を伴うことを意味する。

 

 そもそも、なぜ人類は、遠くまで見渡せる場所を確保したときに喜びを感じるのだろうか。
 たぶん それは人類が “サルの仲間” として、樹上生活を営んでいたときの習性の名残である。

 

 人類は、肉食動物に襲われる危険を知りながらも、より生活を進化させるために樹から降りて、大地に立った。

 

 もちろん樹上にいた方が、肉食動物の動きを相手より先に察知できるため、より確実な安全を確保することができただろう。
 それを承知で、人類は樹に頼る生活から決別したのである。
 しかし、樹上にいたときの “安堵感” を忘れることはなかった。

 

 「見晴らしの良い場所」に立ったときに得られる快感というのは、大地で生きるようになる前の、樹上生活の記憶から来るものである。
 
 そういう人類の選んできた道さえも、この『デルフトの眺望』という絵に描き込まれていると思うと、なんとなく感無量になる。

 


半径500mの世界から
一生出なかった男
  

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 フェルメールは、終始このデルフトという町を離れなかったという。
 
 絵に描かれた新旧二つの教会。
 右の新教会は、フェルメールが洗礼を受けたところであり、左側の旧教会は、彼の墓があるところだ。

 

 そして、二つの教会の間に、フェルメールの生家があり、すぐ近くに結婚して住んだ場所がある。

 

 その半径500m圏内が、彼の人生のすべてだった。
 そのような狭い生活圏にこもった状態で、世界の隅々までクリアに見通せる視点を持ち得たということは驚きに値する。

 
 そういう “視線” こそ、彼の生きた時代のオランダの精神風土そのものが持っていたものかもしれない。
 

 
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