絵画・映画批評
秘められたエロティシズム
17世紀のオランダの画家、ヨハネス・フェルメールの描いた『真珠の耳飾りの少女』は、非常に多くの謎を秘めた絵画であるという。
まず、制作された時期が分からない。
誰の注文によって描かれたのかも分からない。
この時代、絵画というのは、画家がクライアントの要請を受けてから描く場合がほとんどだが、この絵に関しては注文主が分からないのだ。
これらの謎に関して、いくつかの仮説は立てられている。
制作年代などは、画風などから判断して、1665~1666年くらいだろうといわれている。
しかし、そういう推測も、1670年代に入ってからの技法とは異なるからという理由だけで、制作年を正確に特定するのは難しいらしい。
最大の謎は、モデルがいったい誰なのか分からないことだ。
モデルは、フェルメールの娘のマーリアだという説もあるが、そうではなく、妻、恋人、あるいはまったくの想像上の人物など諸説入り乱れ、これも特定できていない。
この娘は、なぜカメラ目線なのか?
そのような謎をたくさん秘めながら、フェルメールの作品の中ではもっとも有名な絵であり、フェルメールの名を知らない人々からも愛され続けてきたのが、この『真珠の耳飾りの少女』である。
別名、『青いターバンの少女』。
あるいは『ターバンを巻いた少女』。
いくつかの呼び名があるということは、この絵がクライアントの発注とは関係なく、画家が特別の思いを込めて、自分のためだけに描いた絵であることを推測させる。
もし、画家が注文主からの依頼を受けて描いたのなら、肖像画の場合はモデル名、風景画だったら、対象となった場所の地名などが残されるはずだからだ。
それにしても、この『真珠の耳飾りの少女』がかもし出す愛くるしい魅力は、いったいどこから来るのか。
ここに描かれる少女は、振り向いて、しっかり作者の方を見つめている。
写真でいえば、これは “カメラ目線” である。
実は、フェルメールの絵において、カメラ目線の人物というのはそう多くはない。
彼の絵に登場する人物たちは、たいてい視線を落として家事にいそしむか、窓の外を眺めるか、楽器を奏でるか、手紙を読みふけるなど、常に何かの作業に没頭している。
なのに、この少女は、しっかりと作者を見つめている。
さらに、唇をわずかに開き、何かを言いたげな様子にも見える。
他のフェルメールの登場人物が、部屋の調度と溶け合って、室内の空気のように沈黙を守っているとしたら、この少女は自分のメッセージを心に秘め、それを伝えようとしているかのようだ。
背景が黒く塗られている理由
たぶん、画家は、この少女の心の中を知っているのだろう。
だから、この絵には、もう背景は要らないのだ。
背景を真っ黒な闇にしてしまっても、成り立つ絵。
すなわち、それは画家にとって、この少女以外の物を “視る” 必要がなかったからだ。
それは、画家が、ひたすら少女のすべてを手に入れたいと願っていたことを意味する。
あたかも、恋しているかのように。
映画化することで絵の謎に迫る
この絵が、まさに “フェルメールの隠された恋” を表現していると解釈した映画がある。
2003年に公開された『真珠の耳飾りの少女』だ。
アメリカ・イギリス・ルクセンブルクが、国を超えて共同制作した映画で、監督はピーター・ウエーバー。
フェルメール家に使用人として雇われた一人の少女に対し、画家がいつしか恋心を抱くというストーリーになっている。
フェルメール(上)を演じたのは、コリン・ファース。
使用人のグリート(下)を演じたのは、スカーレット・ヨハンソン。
かなりの恐妻家ではなかったかと言われるフェルメール。
仮に、彼が妻以外の女性に恋したとしても、フェルメールはそれで家庭を壊すような男ではなかったから、恋人同士は手すら握ることもなく、もちろん愛を告白し合うこともなく、絵の完成をもって自然に別れていくしかなかっただろう。
当然、記録としても残るはずがない。
そこに着目し、これを “恋愛ドラマ” として作り上げた映画制作者の着眼点は鋭い。
もちろん、映画に先行して小説の原作(トレイシー・シュヴァリエ 作)があり、画家と使用人の娘が恋に落ちるという設定は、小説のなかで “実話風” のタッチで描かれているという。
だが、それを映画化したときに、新しいものが加わった。
映画の画面が、そのままフェルメールの「絵」になったのだ。
17世紀のオランダにタイムスリップ
この映画の楽しみ方は、画家と娘のもどかしい恋模様を追うこと以上に、フェルメールの暮らした1665年のオランダ・デルフト市の景観を堪能することにある。
▼ 映画が描いたデルフトの町
▼ フェルメール作『デルフトの眺望』
ヴェネチアと同じように、干拓によって町を広げていったネーデルランド地方は、運河が重要な交通空間となる。
そこを行きかうボート。
ボートから運び出されるさまざまな生活物資。
それらの光景は、17世紀のオランダが、ヨーロッパ最強の海洋国家であったイギリスと覇を争えるぐらいに栄えた商人都市であったことを物語っている。
ボートが横付けされる広場には市が立ち、生々しい豚の生首をさらした肉屋があり、野菜を売る店があり、それらの店舗の間を、鶏やロバが行きかう。
観客は、一瞬のうちに “時間旅行者” となり、17世紀オランダの雑踏の中で、教会の鐘を聴きながら、動物たちの臭いと、洗濯石鹸の匂いが混じり合う猥雑な街角で、頭巾をかぶった女たちと帽子をかぶった紳士たちの群れにまぎれ込むことになる。
とにかく、すべてのシーンが、フェルメールの絵画そのもののタッチで描かれる。フェルメール好きにはたまらない映画かもしれない。(下の映像などはもうフェルメールの絵そのもの)
娘は、絵画の技法を本能で見抜いた !
フェルメール家に入り、生まれてはじめての奉公を経験するヒロイン。
画家の奥方も、その娘たちも、けっして優しくはない。
娘は、一日身を粉にして働いた後、地下室の粗末なベッドに疲れた身体を休めることしか許されていない。
もちろん、一家の主であるフェルメールとは、口をきいたこともない。
しかし、アトリエの掃除を申しつけられて、床掃除をしているうちに、彼女は、フェルメールの描きかけの絵を眺め、絵画の魅力というものに触れる。
そして、あの “フェルメールの光” といわれる、窓から差し込む独特の光彩を描いた絵の玄妙さに心を奪われる。
…… でも、絵には何かが足りない。
窓が汚れているために、外光の回りが悪く、それが絵の精彩を欠く原因になっている、と彼女は感じる。
そして、奥方の許可を取り、勝手にアトリエの窓を拭き始める。
ヒロインがガラス窓を拭く姿を、画家の妻や娘がこっそり見守るのだが、彼女たちは、ヒロインが窓を拭く目的が分からない。
だが、フェルメールには分かってしまうのだ。
この新しく入ってきた小間使いの娘が、「絵ごころ」というものを直感的に身に付けていることを。
画家は、次第に、ヒロインに絵の具を調合するような仕事をさせるようになる。
絵の具の調合を終え、2人は手を休めて空を眺める。
「あの雲は何色に見えるかね?」
画家は尋ねる。
普通の人間なら「白です」と答えるところなのに、ヒロインは、「白、黄色、グレー …… 。いろいろな色が混じり合っています」と答える。
“無教養な貧乏人” のくせに、この娘はどこで絵の本質を見抜く素養を身につけたのか。
フェルメールの驚きは、徐々に恋の形を取り始める。
“濡れ場” など何もないのに、猥褻なくらい官能的
一方の少女のグリートの方も、絵を通して人の心まで描き切る画家の才能に心酔し始める。
才能ある男への「心酔」は、男性体験の乏しい乙女の場合は、容易に「愛」に変わる。
だが、2人とも、そういう気持ちをおくびにも相手に見せない。
したがって、観客は、2人のセリフや挙動だけでは、彼らの心を読み取ることができない。
ただ、2人の間に横たわる沈黙の重みから、「いま2人の間にのっぴきならない感情が交差し合っている」ことを類推することが許されるだけである。
実に繊細な映画。
普通の観客が、恋愛の芽生えをイメージするために必要とする “記号”。すなわち、「接吻」、「抱擁」などという動作は、最初から最後まで、ついに登場することがない。
なのに、すごくエロティックな映画なのだ。
「官能」を通り越して、「猥褻」に近いほどの生々しいエロスが横溢している。
これは、私だけの感想ではなく、ネットでこの映画のレビューを書いているほとんどの人が指摘していることだが、とにかくエロい。
2人の情熱が体の外に発散されることがないため、出口を求めてほとばしる炎が、衣服の下で、巨大なヘビがのたうち回るような運動を展開していることが伝わってくる。(そもそも “官能的” とは表に出ないエロスのことをいうのだ)
パレットに載せるための絵の具を、2人がテーブルの上で調合する。
画家の手が、少しずつヒロインの手に近づく。
「ついに画家が、娘の手を握るときが来たのだろうか?」
観客は、そう想像してドキドキする。
しかし、2人の手はけっして交差することはない。
行為としての「恋愛」は最後まで成就することはない。
しかし、2人の気持ちは「調合された絵の具」を介して、愛として混じり合い、最後は「絵画」の形をとって、成就する。
そういう映画なのだ。
官能的な場面を、あと少々。
ひとつは、ヒロインの被っていた頭巾について。
娘は終始、この地方の婦人たちが頭にかぶる頭巾を脱ぐことがない。
しかし、彼女をモデルに、『真珠の首飾りの少女』を描くことを心に決めた画家は、ヒロインにその頭巾を取るように命令する。
「それは、できません」
と、まるで、「衣服を脱げ」といわれたかのように、おろおろする娘。
もちろん “頭巾” が何であるか、勘のいい観客にはすぐに理解できるだろう。
頭巾を脱ぎ、ターバンを巻いた娘に、画家は、舌で自分の唇をなめるように指示を出す。
唾液が、娘の半開きになった唇をつやつやと光らせ、しっとりと濡れていく。
それもまた、何かを暗示しているかのようだ。
画家が、真珠のピアスをヒロインの耳につけさせるシーンが出てくる。
耳に針が通る苦痛に、彼女の顔が一瞬、歪む。
にじむ血。
穴が通った後に、目に浮かぶ涙。
監督は、こういう形で、2人のエロスを描くのだ。
芸術を理解する能力は、ときに悲哀を招く
フェルメールの絵は、一見、官能的な匂いからは遠いところにある。
彼の作品には、ロココ美術のブーシェや、古典主義のアングルのような扇情的なエロティシズムは見られない。
しかし、『真珠の耳飾りの少女』には、じっと見ていると伝わってくる秘められたエロスがある。
そこには、「去っていく恋を手元に置いておけるのは、もうこの絵しかない」という画家の切実感すら漂っている。
それは、モデルとなった娘においても同様であったろう。
彼女が画家のもとを去る日が刻々と近づいてくる。
あまりにも親密な娘と画家の関係を疑ったフェルメール夫人が、娘に解雇を言い渡したからだ。
恐妻家のフェルメールは、夫人の意志をくつがえすことできない。
娘は、絵の中に留まることで、画家の愛に報いたいと念じ、万感の想いを秘めて真珠の耳飾りを付け、キャンバスの前に立つ。
絵が完成した日は、彼女が無垢な少女から「恋を知った女」になった日であり、同時に2人の仲が終わる日であった。
… というような虚構を、あたかも真実のように信じ込ませる力のある映画だった。