コロナウイルスは、日本では “花見の季節” を直撃した。
いつもなら、桜の木を取り囲むようにブルーシートを敷いた団体が座り込み、昼夜を問わず宴たけなわの光景を展開するはずなのだが、さすがに今の時期、そういう光景は見られない。
そのためか、人気のない公園や林のなかの桜が視界を遮ることなく、ストレートに目に飛び込んでくる。
「なんか変な花だな … 」
と、あらためて思わざるを得ない。
「過剰」を絵に描いたような花なのだ。
美しさ、華やかさ、艶やかさ。
すべてが過剰だ。
「春」というのは、ほんとうは取りとめもない季節のはずである。
「個性がない」 … といっていいかもしれない。
生命力の旺盛な夏
透明度の高い秋
峻厳な冬
他の季節には、みな個性があるというのに、春には個性がない。
春は、冬に死んだ生命が復活する季節などと文学的な表現を許すところもあるが、要するに、生命でもなく、非生命でもない、不思議な「命」がうごめき始める季節である。
そういう “取りとめもない” 春のなかで、桜だけは、異様なほどに「生命力」をギンギラギンに振りまいている。
そこには、普通の植物の生理を超えた、何か別の “目的” があるのではないかと思えるほどの “豪華な” 無意味さが漂っている。
そのため、桜の花の美しさには、人間の知り得ぬ秘密が隠されているのではないか? と疑う人たちも出てきた。
小説家の梶井基次郎は、「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている」という書き出しで始まる『桜の樹の下には』という掌編を書かざるを得なかった。
小説の主人公はいう。
「俺は(桜の美しさに)不安になり、憂鬱になり、空虚な気持ちになった。しかし、俺はいまやっとわかった」
「桜が美しいのは、その樹の下に馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体が埋まっているからだ」
その腐乱した屍体がたらたらと垂らす「水晶のような液」を桜の根が吸収し、それが爛漫と咲き乱れる花の美しさに変わると、主人公は考えるのだ。
この表現があながち突飛(とっぴ)に感じられないのは、梶井基次郎の言わんとしたことが、桜を観賞する人々の心に潜む「畏(おそ)れ」を代弁しているからだろう。
特に、しんと静まり返った野に咲く夜桜などは、「美しさ」が度を超して、淫靡(いんび)にも、邪悪にも見える。
夜の桜の森は、時に、魔境である。
昼間でも、あのむせかえるような満開の花に接すると、時に、気が遠くなるように思えることがある。
酒も飲んでいないのに酩酊してしまう。
正気が失われ、足元がすくむ。
そのような思いに駆られたとしたら、その人は、過剰なばかりに燃え盛る「生」が、実は「死」に近いことを察するからなのかもしれない。
おそらくそれは、誰もが感じていることに違いない。
事実、その花びらは、一瞬のうちに地上から消える。
満開の艶やかさなど、まるで幻影でしかなかったかのように。
風にさらさらと吹かれて地面を去っていく桜の花びらは、「春の死」を感じさせる。
それは、死の中で、もっとも豪華絢爛(けんらん)たる死だ。
そして、哀しみからもっとも遠い、物憂い死でもある。