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ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ『貧しき漁夫』

絵画批評
『貧しき漁師』の豊かな詩情


 昔、シャヴァンヌの『貧しき漁師』という絵を見て、とてつもなく感銘を受けたことがあった。
 見たのはもちろん実物ではなく、美術書に掲載されたカラーグラビアでもなく、市販の日記帳の片隅に印刷された小さなモノクロ写真にすぎなかった。


 なのに、この絵に漂っているいい知れぬ寂寥(せきりょう)感が、じわりと私の心をつかんだ。

 

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 中学生時代 …… たぶん14~15歳ぐらいの頃だったと思う。
 その頃から備忘録として付け始めた市販の日記帳の片隅に、詩人や評論家の書いた短いエッセイや、ポエム、美術解説などが寄せられていた。
 
 ある日、日記を書こうと思って開いたページに、このシャバンヌの絵が載っていたのだ。
 その絵から溢れてくる「暗く沈んださびしさ」と「物憂い静けさ」に、なぜか私は目をそらすことができなかった。
 結局、しばらくの間日記を書くのも忘れ、その小さなモノクロの絵を眺めていたと思う。
 
 この絵の何が思春期の自分を惹きつけたのか分からない。
 「日記を書く」という自分の内面と向き合う作業を強いられるうちに、ちょっとだけ、内向きのテンションが高まったせいかもしれない。
 
 そのときまでの自分は、「さびしさ」とか「静けさ」を、実生活以外に体験することがなかった。
 しかし、『貧しき漁師』の絵から溢れ出てくる「さびしさ」は、実生活で感じる「さびしさ」よりも、さらに遠い世界から来るものような気がした。
 その「遠い世界」を知らない自分は、そこから吹いてくる「さびしさ」には強く感応したけれど、それが何であるかを語る言葉も持たなかった。
 
 簡単にいえば、私の表現力が未熟であったということでしかない。
 しかし、だからこそ、「見えた世界」があったのだ。
 今このシャバンヌの『貧しき漁師』をネット情報から拾って、画面に拡大して眺めてみても、もう当時の私を襲った感動はよみがえらない。
 

 
 いい加減に齢(よわい)を重ね、「ものを書く」ための言葉も少しは習得した私は、この絵を分析的に解説する言葉に困ることはないが、中学生時代に感じた「言葉に表現できない感銘」をもう取り返せない。
 
 なぜだろう。
 
 それは、
 「思春期のみずみずしい感性が、大人になると枯れる」
 というようなことだけでは、説明しきれないもののように思える。
 
 たぶん、「言葉にできない感動」というものは、「言葉にする技術」を持ったときに失われてしまうのだ。
 
 今の私なら、この絵をテーマに何かモノを書こうと思ったときは、小舟に乗る手前の夫よりも、背後の岸辺で花を摘む母子の方に注目することだろう。
 そして、一見、明るく無邪気に振る舞う母子と、憂いと哀しみに満たされた父である漁師の対比において、この絵のドラマツルギー(作劇法)を論じるだろう。
 そこに家族の「心理ドラマ」を読み込むかもしれないし、そのような家族の絆を超えた「人間の絶対的な孤独」という “哲学” を語るかもしれない。
 
 しかし、そのような分析をいかに重ねようが、中学生の私が感じたあの「暗いさびしさ」と「物憂い静けさ」の正体に迫ることはないだろう。
  
 それは言葉になる前にしか生まれない「感情」だからだ。
 「言葉」として成立してしまえば、他者へ伝達することは可能となるが、その人間が固有に感じていた「感情」はもう保存することができない。
 
 言葉をたくさん覚えるに従って、抽象的な思惟は緻密になるが、ものを感じる心は平板になっていく。
 「感受性がみずみずしさを失う」とは、そういうことなのだ。