絵画批評
フリードリッヒの描く異形の「自然」
カスパール・フリードリッヒの絵にはじめて接したのは、二十歳ぐらいの頃だった。
ひまに任せて、家にあった『芸術新潮』をめくっているときに、突然、衝撃的な絵が目に飛び込んできたのである。
荒れた岩山の向こうに糸杉の林が広がり、その中央に教会がそびえ立っている絵だった。
思わず息を呑んだといっていい。
教会といい、その前に掲げられた十字架といい、一目でキリスト教的な世界を表現した絵であることは分かったのだが、私が受けた衝撃は、そのような宗教的な印象とは異なる、もっと人間の根源を揺るがすような何かだった。
それは、 雑誌のグラビアという2次元的な平面を突き破って、何か異形のものがヌッと顔を現わしたというようなショックだったといっていい。
自然界にはあり得ないシンメトリーの構図
▼ フリードリッヒ 「山の十字架と聖堂」
特に異様に見えたのは、十字架を中心にして、左右がシンメトリー(左右対称)になっていることだった。
画面中央を占める教会。
そして、その教会を挟む形で、両わきに立っている6本の糸杉。
それがみな、ものの見事に左右対称を成している。
十字架の立つ岩盤だけは、左右の岩の形が微妙に異なるが、その両脇の傾斜は、ぴたりと同じ角度を保っている。
シンメトリーというのは、極度に人工性を感じさせる構図である。
なぜなら、自然の風景の中で、右と左がまったく同じという景色というのはよほどの偶然でないかぎり、ありえないからだ。
人間のみが、左右対称の建造物を建てることができる。
だからシンメトリーの構図というのは、「自然」に対する、人間の「文化」の勝利 を意味するものとなる。
フリードリッヒの『山の十字架と聖堂』の不思議さは、その自然に対する人間の勝利を意味するはずのシンメトリーを、逆に、自然の方が備えてしまっているところにある。
それは、人間以外の何者かの意志による、ひとつの「秩序」が存在していることを教えている。
異世界の秩序に満たされた自然
つまり、この絵から伝わる異様さとは、人間界の秩序など及びもつかない圧倒的な “異世界の秩序” と向かい合ったときの異様さなのだといっていい。
画面上方に漂っている光源の定かではない不思議な光も、太陽のような自然の光源とは別の、人間に見えない光の発生源があることを暗示しているかのようである。
この異世界の秩序を、西洋絵画の伝統にのっとって、「神の秩序」として視ることは、ある意味で簡単だ。
そこには、確かに教会や十字架といった、キリスト教的なシンボルが、画面の中心に描かれているからだ。
しかし、この絵が示す「神」は、どうもわれわれの理解している「愛の宗教」としてのキリスト教の「神」というイメージからは遠いような気がしてならない。
この絵に、峻厳さはあっても、慈悲は感じられない。
そこに「神」が降臨していたとしても、それは人間の悩みや苦しみには無関心な「神」であるように思えるのだ。
いわば、人間とのコミュニケーションを拒絶する、“ディスコミュニケーション” を体現する「神」だ。
それがもはや神といえるのかどうか、一神教的な風土のない日本で暮らしている私にはよく分からない。
▼ フリードリッヒ 自画像
フリードリッヒが、当時のキリスト教の教義をどれだけ咀嚼(そしゃく)していたのか、詳しい文献を調べたわけではないからよく分からない。
しかし、おそらく彼の持っていた宗教観というのは、今日われわれがイメージするようなキリスト教の教義とはまったく異なったものではないか、という気がする。
彼の絵から汲み取れる「神」は、別の言葉に置き換えれば「虚無」に近い。
救済を求めて、慈悲を乞うても、それにはまったく応えることなく、森閑と静まり返っている神。
人間が感知しようにも、思索しようにも、その想いが届かない神。
この絵から、現在のわれわれがイメージする「神と人間のコミュニケーション」を、読みとることはできない。
▼ フリードリッヒ 「海辺の修道士」
『海辺の修道士』という絵がある。
どんより曇った海辺に、一人の修道士が立ち尽くしている。
印象的なのは、空のボリュームだ。
修道士は、その空の巨大さ圧倒されるように、なすすべもなくたたずんでいる。
ここに描かれている自然は、“自然科学の対象” となるような自然ではなく、人間による対象化をはねつける「意志ある自然」といってよい。
しかし、「意志ある自然」のその “意志” は、人間に読み取られることを拒否している。
圧倒的な自然の力の前で、一人ポツンと立ち尽くす修道士の姿を見ていると、そんなふうにも思えてくる。
ここに描かれているのは、自然と人間のディスコミュケーションである。
フリードリッヒの、この超越的な《自然》を理解するカギはあるのだろうか。
現代人には理解しがたい “畏れ” の感覚
▼ フリードリッヒ 「ヴァッツマン」
フリードリッヒは、実にさまざまな自然を描いた画家だった。
浜辺、森、山、平原。
描写は的確だし、デッサンは正確だ。
もちろん、19世紀後半の写実主義とは違った意味だが、リアルである。
にもかかわらず、彼の風景画には、写実主義の絵画には見られない自然に対する “畏れ(おそれ)” の感覚がある。
あたかも、自然に「命」が宿る瞬間をこっそり覗き見するような、禁断の風景を眺めるときの緊張感がある。
そして、そのことが、彼が感じていた「神」がどんなものかであったかを、物語っているような気がする。
▼ フリードリッヒ 「孤独な木」
宗教画を描かない宗教画家
フリードリッヒは、「宗教画」を描かない宗教画家だった。
言い方を変えれば、「神の姿」を描かない宗教画家だった。
多くの宗教画家は、磔刑にされたキリスト像や聖母マリア像のような、「神のアイコン」を描くことで、神の存在を暗示する手法を選んだ。
▼ ラフェロ 「聖母子」
しかし、フリードリッヒは、「神」はアイコンなどでは表現しきれないものであることを知っていたように思える。
アイコンで捉えられるような神は、人間と交流できる神である。
そのような神は、戒律に反した人間を罰することもあるが、人間の祈りも聞き届けてくれる。
そういう神の元では、確かに、神と人とのインタラクティブ(双方向的)なコミュニケーションが可能となる。
しかし、そのような関係が成立したときに、その神は、一般的な宗教共同体の “統合のアイコン” に収まるしかない。
フリードリッヒが捉えた神は、けっして宗教共同体のアイコンなどにはならない神だった。
その神は、人を救済することも、罰することもしない代わりに、人間が想像することも、思惟することも許さない。
にもかかわらず、その神は、人間を含むこの世のありとあらゆるものをコントロールしている。
▼ フリードリッヒ 「氷の海」
自然の奥に姿を隠す神
彼は、そのような神を、《自然》の中に見出した。
人間が手を加えなくても、定期的に四季を向かえ、秩序的な生態系を維持している《自然》に、彼は「神の存在」を視た。
ただし、「神の “影” 」として。
影でしかないために、人間は、「神」が目の前を横切っている時ですら、それに気づかない。
しかし、何かの拍子に、人はふと、《自然》の中に、異形のものが立ち現れている瞬間を視ることがある。
視覚的には何も変化が起こっていないのに、なぜかいつもと違う風景であるかのように感じられることがある。
フリードリッヒは、そこに神の「影」が通り過ぎていくのを視たはずだ。
影は、地上に黒ぐろとした痕跡を残すが、それを見ているだけでは、どのようなものの影なのか判然としない。
他の影と重なれば、地上からも姿を消す。
その影を発見するのは、とてつもなく鋭敏な感受性を備えた画家にしかできない。
おそらく彼は、画家としての自分の能力を、その「神の影の発見」に見出したのだろう。
フリードリッヒの風景画が、どこか神秘的な気配を漂わせるのは、まさにそれが「神の影の通り行く瞬間」を捉えたものだからである( … と思うのだ)。
▼ フリードリッヒ 「エルベ川の夕暮れ」