すべての人間は、「自分は橋のたもとで拾われた子どもではないか?」という疑問を解消することはできない。
両親の温かい愛に包まれた幸せな幼年時代。
そのような記憶があったとしても、それははたして本当の記憶なのだろうか。
1982年に公開された『ブレードランナー』という映画では、ある人間の記憶をそのまま移植されて、その記憶を自分のものと信じ込んでしまうレプリカント(人造人間)が登場する。
「レイチェル」(↑)と名付けられたその美貌のレプリカントは、レプリカント産業を創設したタイレル博士の姪の記憶をそっくり移植されていたため、自分のことを「人間」だと信じ込んだまま過ごしている。
だが、ある日、レプリカントを “抹殺する” 仕事の総称である「ブレードランナー」のデッカード(ハリソン・フォード)のテストを受けた後、レイチェルは自分が人間ではないのかもしれない … という悩みを抱える。
彼女は、もう一度、自分の脳裏の底に沈んでいる自分の記憶を再検証する。
幸せな幼少期を過ごした実家の美しいグリーンに輝く芝生の庭。
優しい父と母の笑顔。
彼女がそのような記憶をたぐり寄せるときに、画面に流れるのが下の曲である。
ヴァンゲリスが作曲した「グリーンの思い出」という曲は、「愛のテーマ」と並ぶ、このサントラでもっとも美しいメロディといっていい。
彼女は、この曲を思い出しながら、思う。
「こんなに鮮明な記憶を持っている私が、レプリカントなんかであるはずはない」。
しかし、レイチェルの自信は、美しいメロディとはうらはらに、どんどん揺らいでいく。
レプリカントとはいえ、一人の美女が自信を失っていく過程に、こんな甘い旋律の曲が使われるというのは、またなんと残酷な演出なのだろうか。
制作側の美しくも邪悪な意図に、心が寒くなる。
しかし、レイチェルの不安は、実は、人間が誰しも抱える不安でもあるのだ。
人間のアイデンティティが、個人の「記憶」に頼っている以上、幼少期の「記憶」などは、 両親の人為的な操作などによって、いかようにもにつくり変えることができるからだ。
記憶の古層から浮上する “見知らぬ記憶”
人の記憶の古層には、自分が意識しているものとはまったく別の記憶が眠っていることがあるということを、自分で体験したことがある。
昔、会社の同僚が運転するワンボックスカーの助手席に座って、長旅の退屈を持て余し、車内にあった輪ゴムを何気なくよじっていたときのことだった。
輪ゴムのねじれた場所が、数珠玉のように固まっていく。
それを見ながら、遠い昔、ヒマを持て余してこんな行為を飽くことなく繰り返していたな … と思っ瞬間、大脳皮質に亀裂が入り、40年以上思い出しもしなかった一つの情景が浮かび上がった。
私は、広場の一角にいる。
そこでは、露天商がいろいろな物を売っている。
夕方の太陽が地面に弱々しい陽射しを投げかけている。
その市場の背景には何があるのか。
何もない。
異国の砂漠の中で開かれた市場であるかのように、その日最後の夕陽に照らされたぼんやりとした空間が広がっているに過ぎない。
私はおもちゃの露天商の前に立って、熱心におもちゃを見ている。
貧しい時代の貧しいおもちゃが並んでいるが、それは今の時代の感じ方で、そこに立っている私は、様々なおもちゃを揃えた店先の贅沢さに心を奪われている。
特に、体に突き立てると刃の部分が引っ込んで、あたかも刺さったかのように見えるブリキのナイフのおもちゃに、私は特別な興味を覚えている。
そのナイフをねだりたいのだが、親の姿は見えない。
おそらく親が近くで用事を済ませている間、その場所を離れないように … とでも言いつけられたのかもしれない。
そのとき、突然、もう二度と親とは会えないのではないかという心細さが襲った。
自分は、この場所に捨てられたのではないか。
そう思う不安感と、それとは別に、露天商の店先に並ぶ珍奇な品々の輝きに魅入られている自分がいる。
別離の予感と、好奇心と誘惑に彩られた孤独な充実感。
突然脳裏をよぎったその情景は、一瞬の雷光のように、闇に消えた。
イメージに残った露天市場の情景は、印象からいうと昭和20年代末期といった雰囲気だった。
年齢でいうと2歳か3歳頃。
今住んでいる場所に引っ越す前の場所にいた頃だが、その露天商が並ぶ場所がどこなのかは全く分からない。
もちろんなぜそんな情景を思い出したのかも分からない。
ねじった輪ゴムの記憶も、直接その情景とは結びつかない。
ただ、輪ゴムをねじるという単調な遊びが、逆にそれを退屈と感じさせなかった「黄金の幼年期」に対するノスタルジーを引き寄せたのかもしれない。
デジャブとは何だろう?
私たちは、はじめて訪れた場所なのに、ある光景に接して、前にもその場所を訪れたような錯覚に陥ることがある。
世でいう「デジャブ(既視覚)」。
人間にそのような心理状態が訪れることを、心理学は解明しきれていない。
だが、記憶の古層に眠っていた光景が、突然何の前触れもなく現出して、それが今見ている風景に重なることはありうるだろう。
それにしても、私の意識の届かない記憶の底に、封印されたもう一つの私の世界があるというのは不思議な気持ちにさせる。
私の幼年期の記憶というのは、(先ほども言ったように)後になって親から聞いた話を元にして想像で組み立てられた部分もあるに違いない。
そのような人為的に構成された「記憶」に、自分の想像力が絡まって、実際の記憶とは異なる「物語」が創作される。
そういう可能性は、誰にでもあるはずだ。
いずれにせよ、幼年期に自分がどんな世界に住んでいたのかは本人にも分からない。
つまり、誰にも、何らかの理由で自ら封印してしまった世界があるのだ。
その封印を解くことは、もしかしたら「自我」の崩壊を導くことになるのかもしれない。
冒頭で言ったように、すべての人間は、「私は橋のたもとで拾われた子なのか?」という疑問から一生無縁ではいられない。
本当の自分はどこから来たのか。
それこそ、人間が抱える根本的な「謎」なのかもしれない。
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