
- Blade Runner1982年|アメリカ、香港、イギリス|カラー|117分、110分(バージョン違いについては下記参照)|画面比:2.35:1|映倫:R-15(ファイナル・カット・カット)|MPAA: Rスタッフ監督:リドリー・スコット製作:マイケル・ディーリー脚本:ハンプ.. 続きを読む
映画 ブレードランナー - allcinema www.allcinema.net
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通勤で使っていた駅前の屋台で、残業夜食のラーメンを食べていたときのことだった。
「酔いざましに、ラーメンを食って解散しよう」
… という感じの初老のサラリーマンが3人。酒臭い息を漂わせながら、肩を寄せ合うようにカウンターに陣取り、ラーメンがどんぶりに注ぎ込まれるのを持っていた。
そのうちの1人が、駅を囲んだビルのネオンの見上げながら、ふと言った。
「まるで『ブレードランナー』の世界だな」
その一言は、胃の中にほとんど収まったラーメンの味を反芻しつつ、どんぶりの底に沈んだ残りの汁を飲み干そうとした私の無防備な心を不意打ちした。
思わず私も、初老のサラリーマンの視線を追って、林立するビルの夜景を見上げた。
何の変哲もない、普通のネオンに彩られた品川駅前のビル群。
しかし、そこには確かに、1982年に封切られたSF映画『ブレードランナー』の明滅する光にまみれた未来都市の姿が(かすかに)浮かんでいた。
そのサラリーマンの一言に対する同僚の反応はまったくなく、話題は自然にゴルフかなんかの話に移っていたが、私は、丼の底のラーメンの汁を吸いながら、映画の中では「近未来」として設定された21世紀のロサンゼルスの姿を反芻していた。
「ブレードランナー2049」も超えられなかった第1作
思い出しただけで、不覚にも、最初に見たときの感動がよみがえってきた。
とんでもない美学を発揮した近未来都市の造形。
安っぽいオリエンタリズムと、無機的なテクノロジーが何の根拠もなく同居する猥雑怪奇な未来都市からせり出してくる “世界の終末感” は衝撃的だった。
▲ 『ブレードランナー』 に描かれた未来都市には、日本髪を結った東洋人の女性が宣伝する胃腸薬「わかもと」のCMがひんぱんに登場する
すでに40年前の映画だから、『ブレードランナー』はSF映画としては「古典」の部類に入る。しかし、その後につくられた数々のSF作品などと比べても、その映像美は今もって新鮮である。2017年につくられた『ブレードランナー 2049』よりも、むしろ新しい。
この『ブレードランナー』第1作の公開時期とほぼ同時期に、『スターウォーズ』シリーズも公開された。
昔、その全6作がBS放送などで再放映されたことがあったが、『ブレードランナー』第1作に比べて、それを上回る印象をもたらした作品は一つもなかった。
『スターウォーズ』には画面に見えるもの以上のものは何ひとつ現れない。
それに比べ、『ブレードランナー』は、絶えず画面では見えない世界が奥に潜んでいることを伝えてくる。
まだ誰もこの映画の謎を解き明かしていない
では、「画面に見えない世界」は、監督がわざと隠しているのか?
そうではなく、画面に見えない世界は、観客の脳内に存在するということを訴えてくる。
こういう言い方もできようか。
『ブレードランナー』には、監督や制作者たちの計算を離れたノイズ(雑音)がたくさん混入しており、それがある意味での豊かさをもたらしているのだが、あくまでもノイズに過ぎないため、制作者たちも(そして観客も)、そのノイズが生む “豊かさ” を指摘する言葉を持つことができない。
しかし、そのノイズは、人々の脳内にバクテリアのように侵入し、不協和音とハーモニーの繰り返しによる発酵を重ね、いつしか独立した妄想世界を醸成する。
こういうことを指摘した、面白い本がある。
加藤幹郎 著『「ブレードランナー」論序説』(筑摩書房)だ。
その本の冒頭には、次のようなことが描かれている。
「映画『ブレードランナー』についてはすでに多くのことが語られている。にもかかわらず、やはりなにごとも語られてはいない」
著者の加藤氏はいう。(引用ではなく、強引な意訳だけど … )
「この映画には、“謎解き” の要素がたくさん散りばめられながらも、明確な答が与えられていないため、そこがファンの心を吸引する “甘い蜜” となる。
たとえば、インターネットにアップされるファンサイトの記事には、登場人物意味のない動作をひとつひとつ取り上げ、“そこに込められた謎” を語りたがる無数の人たちの声がひしめいている。
しかし、その大半は、問う必要もない問に対しての回答だ。『ブレードランナー』は、そのような些末な問に一つ一つ解釈を施して満足できるような映画とは根本的に異なる」
▼ ミステリアスな登場の仕方をする “謎の美女” レイチェル
1940年代ギャング映画の手法が復活
加藤氏は、この『ブレードランナー』が1940年~50年代にかけて制作された「フィルム・ノワール」の系統を引き継ぐ映画だと指摘する。
フィルム・ノワールという言葉は、一般的には「暗くてクールなギャング映画」というニュアンスで受け取られているが、そういった個性は映像的な特徴から生まれたものらしい。
すなわち、夜の都市に垂れ込む霧、噴き上げる蒸気、点滅するネオンサイン、乗り物のヘッドライト、タバコの紫煙がよどむ暗い部屋 ……
心に傷を持つ登場人物たちが、そういった環境を背景に、逆光の中に浮かび上がるところにフィルム・ノワールの映像的特徴があったが、『ブレードランナー』は、そういう1940~50年代の犯罪映画を、1980年代に復活させたものだという。
▲ フィルム・ノワールの代表作といわれる『ビッグコンボ』(1955年)。
つまり、フィルム・ノワールに出てくる人物たちは、追う者(探偵や刑事)も追われる者(犯罪人)も、いずれも逆光の暗がりから抜け出せないような「スネに傷を持つ者」であり、どちらが勝利しても「敗残者の自覚」を抱えた者同士なのだから、観客にカタルシスを与える明快なハッピーエンドは訪れない。
確かに、そういった雰囲気は、この『ブレードランナー』にもある。
“未来のフィリップ・マーロウ”
実は、『ブレードランナー』という映画が、1940年代のアメリカン・エンターティメントの流れを汲んだ作品であることを訴えたもう1冊の本がある。
それが、町山智浩氏の『ブレードランナーの未来世紀』(洋泉社)だ。
この本によると、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』というSF小説を映画化しようという話が生まれたときに、そのシナリオを担当することになったハンプトン・ファンチャーは、「主人公のイメージをレイモンド・チャンドラーの小説に出てくる私立探偵のフィリップ・マーロウ」に重ねるというアイデアを思い浮かべたという。
それを聞かされた映画監督のリドリー・スコットは、「未来のフィリップ・マーロウ」というアイデアにすごく興奮したと伝えられている。
金にもならないような安い仕事を物憂く引き受け、ボロい乗用車に乗って夜のロサンゼルスを気怠く徘徊するフィリップ・マーロウ。
彼は、ハードボイルド小説にセンチメンタルなアンニュイを持ち込んだ(少し疲れた)孤独なヒーローだった。
その面影は、確かに、『ブレードランナー』のデッカードに重なっていく。
『ブレードランナー』に登場する荒廃した未来都市の姿にも、やはり1940年代のアメリカン・アートが絡んでいる。
エドワード・ホッパーの絵を参考にした都市デザイン
リドリー・スコットは、猥雑なにぎわいを見せる未来のロサンゼルスの光景にも、夜の都会の孤独感を導入することにこだわった。
そのときに集められたサンプリングの中には、深夜営業のカフェにたたずむ男女の寂しさを描いたエドワード・ホッパーの『ナイト・ホークス』もあったという。
1930年代から40年代にかけて多くの作品を残したエドワード・ホッパーほど、大都会の喧騒の中にぽっかり浮かんだ虚無的な静寂をうまく見つけた画家はいない。
それは、満艦飾のネオンの裏に潜む未来都市の底に沈んでいる人間の孤独を描いた『ブレードランナー』の基調低音と密接に結びついている。
ともすればゲテモノに堕するようなアールデコ、古典主義、エジプト風、ローマ風など様々な文化のごった煮に満ちたこの都市デザインに、美学的統一感を与えた秘密は、このホッパーの絵に漂うような寂寥感(せきりょうかん)であったといえよう。
このあたり、未来都市の造形を担当したシド・ミードのセンスも大いに評価できる。
偶然生まれてしまった傑作
加藤幹郎氏の『「ブレードランナー」論序説』も、町山智浩氏の『ブレードランナーの未来世紀』も、ともにこの映画を美しく語った名著であると思う。
それぞれ視点も語り口も異なる本でありながら、結論として通底しているところが一ヵ所ある。
それは、
「この映画は、誰が意図したものでもなく、偶然に “傑作” になってしまった」
という結論だ。
加藤氏は、この映画には興行時に配給された劇場公開版と、後にそれを不満に思ったリドリー・スコットが再編集したディレクターズ・カット版の2種類のバージョンがあることを指摘して、こういう。
「一般的に、劇場公開版というのは興行収益を目的とした商業主義的なバージョン。それに対し、ディレクターズ・カット版は、芸術性を維持しようとする監督の良心 …… というような分け方をされがちである。
しかし、この映画に限っては、興行的な成功を意識した劇場カット版の方が優れている。
そのことは、この映画が、リドリー・スコット監督の意図を離れて “独り歩き” していたことを示唆している」
難解さが “魅力” として輝く
同じことを、町山智浩氏もいう。
「この映画が、“傑作” として語り継がれてきた秘密は、実は “情報量の詰め込みすぎ” にあった」
つまり、『ブレードランナー』は、通常の映画の何倍ものアイデアが詰め込まれたために、一回観ただけでは誰も完全に理解できない映画になってしまった。
実際、この難解さがゆえに、封切り当時は、制作費2,800万ドルの半分も回収できなかったらしい。この映画がカルトムービーとしての地位を獲得したのは、初公開から10年経った1992年以降のことである。
町山氏は、
「この映画には、幾通りもの解釈が生まれるような余地があったため、逆にカルトムービーになれたのだ」
という。
▼ レプリカントの首領ロイを演じたルトガー・ハウァー
すでに、制作中に監督と役者たちの間に反目があった。
リドリー・スコットは、主人公のデッカードもまたレプリカントの一人に過ぎなかったという結末にこだわり、そのための伏線も、映画の中にたくさん忍ばせようとした。
しかし、デッカードを演じたハリソン・フォードも、ロイを演じたルトガー・ハウァーも、監督の思惑を拒否しながら演技を続けた。
つまり、監督も俳優も、制作中の段階からこの映画をコントロールすることが不可能になっていたということなのだ。
それだけでも、普通の映画なら破綻していただろう。
だが、そういう監督と演技者の思惑のズレすらも、この映画では良い方向に作用した。スタッフやキャストの異なる思いがそれぞれ乱反射のように飛び交い、そこから複雑な陰影が生まれたのだ。
いってしまえば、この映画は、その制作にたずさわった総ての人々を裏切るような形で、独り歩きを始めたのである。
カルトムービーとは、監督や観客も含め、誰一人支配下におくことができなくなった映画のことをいうのかもしれない。