中井貴一が主役を務める映画『RAILWAYS(レイルウェイズ)』(2010年公開)を観た。
BSのWOWOWで。
途中からなんだけど。
49歳の男性がエリートサラリーマンの生活を捨て、故郷に戻って、小さい頃からの憧れであった「電車の運転手」としての再スタートを切る話。
悪人の出ない映画で、親子の絆、夫婦のコミュニケーション、電車の乗客や地元の人たちの交流などが、淡々と、しかし温かい筆致で描かれる。
実に退屈な設定。
だけど、随所にふと目頭が熱くなるような、人間の交わりの美しさが丹念に描写されている。
地味だけど、いい映画だと思った。
“主役” は、島根県を走る単線のローカル電車。
この電車の走る情景が、映画のほぼ半分くらいを占める。
そういった意味で、これは鉄ちゃん・鉄子のためにつくられた映画なんだろうな、と思う。
私は鉄道趣味というのがないので、どうして鉄道に人を惹きつける力があるのか、そのことに興味は感じても、それを実感するには至らなかった。
しかし、この映画を観て、なんとなく鉄道を愛する人たちの気分というものに少し近づけたような気がした。
もちろん、筋金入りの鉄道ファンからすれば、見当違いの感じ方なのかもしれないけれど、ひとつ言えるのは、「レールのある風景は美しい」ということだった。
無人駅のような駅舎が連なる地方の単線電車だから、当然、田舎の風景が中心となる。
畑が広がる。
山が見える。
海もときどき現れる。
街中を走るときも、くすんで、少しさびれた、時代の進歩から取り残された地方都市の風景が車窓の外を流れていく。
その情景がみな美しい。
高度成長と自動車の普及によって失われてしまった日本的風景の原型が、レールの両側だけに、かろうじて踏みとどまって残っているという感じがするのだ。
この映画で描かれた人情話が、ひとつのリアリティを獲得しているのは、まさに「鉄道を主役にした映画」だったからだという気がする。
つまり、鉄道が交通機関の主役であり、それが人と物を搬送するだけでなく、「人の心」も搬送していた時代に対するノスタルジーが、この映画には凝縮している。
もし、これが「自動車」を軸として展開する映画だったとしたら、どうなるだろうか。
たぶん、ここで描かれる人情話は、もっと切実な現代的テーマをはらみ、親子の断絶や、会社の人間関係の複雑な相克を描き込まざるを得なかったろう。
しかし、この映画では、舞台を “レールの上” に設定したおかげで、人と人との細やかなつながりをストレートに訴える力を得ている。
その差はどこから来るのか。
「歴史」の差かもしれない。
鉄道の歴史は、蒸気機関車が始めて走った時代から数えて、約200年。自動車の歴史は、ヘンリー・フォードがガソリンエンジン車を産業化してから、約100年。
その100年の間に、世界の産業構造はガラッと代わり、人々のライフスタイルも感受性も劇的に変化した。
鉄道の時代に、人々が有機的な連帯を保っていたコミュニティ社会は、自動車の時代になると、むしろ地域的・血縁的コミュニティからの独立を果たそうとする個人を圧迫するものとして、意識されるようになる。
自動車は、「近代的な個人」を目指す人々が、古いコミュニティ社会の束縛から自由になるための移動手段として意識されることによって、大衆化した。
人間のライフスタイルや感受性は、その時代の先端的な産業構造の影響を受けざるを得ない。
しかし、人間の文化は、千年単位の生活様式が重層的に積み重なって出来ている。
だから、自動車社会の時代の真っ只中を生きるわれわれにも、「文化としての鉄道」は生きている。鉄道の時代からつちかわれた「人と人との交流様式」は、決して滅びてはいない。
映画の中では、運転手の中井貴一が、酔っ払って家に戻れなくなった客を介抱するシーンや、ホームの上に荷物を落とした客を助けるために、業務を忘れて、いっしょになって荷物を拾うシーンがふんだんに出てくる。
のんびりしたローカル電車の乗務員だからこそできることかもしれないけれど、見ていてウソ臭くない。素直に「いいなぁ … 」と感動できるシーンになっている。
たぶん、このような “善意” を、誰もがイライラ走らざるをえない自動車道路の上で見せられると、その偽善性・欺瞞性の方が先に鼻につくはずだ。
交通手段としての主役を、すでに自動車に譲ったがゆえに見えてきた「優しさ」が、レールの世界にはあるのかもしれない。
そういう「優しさ」を運んでいく電車が通る風景は、美しい。