アートと文藝のCafe

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『勝手にしやがれ』の新しさとは何だったのか?

    
 『勝手にしやがれ』(1959年 フランス映画)は、ジャン・リュック・ゴダールの代表作ともいえる映画だ。

 なんといっても邦題がいい!
 この映画の本質をずばり表現している。
  

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 話は単純。
 フランスの田舎町で、自動車を盗んで警官を殺してしまった男(ジャン・ポール・ベルモンド)が、盗品の自動車をパリまで売りに来る。
 
 しかし、パリに出てきたものの、盗品を扱う地下組織と、なかなか連絡がつかない。
 その連絡がつくまでの、ベルモンドとその恋人(ジーン・セバーグ)との日常生活が映画のほとんどのシーンを占める。

 

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 ベルモンドとその恋人は、意味もないぶっきらぼうな会話をダラダラと続ける。
 観客は、最初のうちは会話の意味を一生懸命考えようとするが、しばらくすると、会話そのものに意味がないことがわかり、その作業を中止せざるを得ない。

 

 つまり、2人の間では深刻であるべき会話なのに、その意味がどんどん軽くなっていくのだ。
 要するに、観客に何かのメッセージを伝えるための会話ではないのだ。

 

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 この映画では、それ以前に通用していた映画的文法がことごとく無視されている。
 たとえば、ベルモンドは恋人の部屋に勝手に転がり込んで、「もう一度寝ようよ」とお尻を触りまくる。
  
 女の尻を触るという行為は、それまでの映画だったら性的な意味を暗示するはずだった。
 しかし、ここでは尻を触るという行為が、あたかも背中を掻くように、あくびをするかのように、素っ気ない日常性の中に解消されている。

 
  
 一方、尻を触られた恋人は「ダメよ」と、ベルモンドの頬をバシリと叩く。
 女が男の頬を叩くのは、それまでの映像的な文法では男への絶望、プライドの回復、叱咤激励といった感情を暗示するときの表現だった。

 

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 しかし、この映画に出てくる女は、反射神経のおもむくままに、腕に止まった蚊をツブすように男を叩く。
 男の方も、叩かれたことすら気づかない感じで、無造作に新聞を読みふける。

 

 美談美女の顔が大写しになって、甘いキスを交わすハリウッド的恋愛シーンになじんだ観客は、ここに描かれた恋人同士の交流に、なんともいえない不自然な思いを抱くことになる。
  
 しかし、考えてみれば、「映画のような出会い」、「映画のような恋」、「映画のような別れ」があると思う方が、不自然なのだ。

 

 われわれの日常的なコミュニケーションというのは、たいていはゴダールの描いた男女のような形を取っている。
 誰だって、自分の行為に対する意味など深く考えてはいないし、相手の行為を深く詮索したりはしない。

 

 日常とは、そういうものだ。
 もし、相手の行為を鋭く詮索したり、自分の心を掘り下げたりするときがあったら、実は、それこそ非日常的な事態に陥ったときなのだ。

 
  
 そういった意味で、ゴダール以前の映画は、「非日常」ばっかりだったともいえる。
 ゴダールの映像が新しかったのは、はじめて、人間の “日常的な触れ合い” をストレートに描ききったからだ。
  
 それまでの観客は、俳優の動作一つ一つにそれぞれ意味があって、その意味を汲み取らなければ筋がつかめないという、それまでの映画の文法に毒され続けていた。
 しかし、人の行為には、すべて意味があるわけではない。逆に意味のない行為の積み重ねが、その人間の人生をつくっていく。
 ゴダールはこの映画で、そういう事例をクールに積み重ねていったにすぎない。
  


 ラストシーン。
 警察に見つかったベルモンドは、仲間から放り投げられたピストルを、うっかり拾ってしまったばっかりに、警察官に狙撃されてしまう。

 

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 瀕死の主人公のもとに駆けつける恋人。
 ベルモンドは、その恋人の顔をニヤリと笑って見つめ、
 「お前はサイテーだ!」 
 と、一言ほえて死ぬ。

 

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 誤解によって突然奪われてしまった人生。
 虫けらのような死。
 そして、観客が感情移入することのできない、カタルシスのないエンディング。
  
 この感覚こそ、ゴダールの新しさだった。

  
 それまでの映画では、主人公の死は、時に祖国の救済を意味し、恋人の命の身代わりなどを意味した。
 そういう “意味のある死” になじんだ人たちは、この意味のない死に、強い不条理を感じたことだろう。

 

 しかし、この不条理の感覚こそ、ヌーベルバーグの時代、サルトルボーボアールが活躍して、実存哲学が花開いた時代の感受性でもあった。

 
  
 この映画が封切られた1959年。これを最初に見た人は、おそらくそれ以前の映画を語る言葉では、この映画を批評できないことを知ったに違いない。
 この『勝手にしやがれ』を語るには、それまでの映画に対する言説を捨て、新しい哲学と、新しい言葉が必要だったはずだ。
  
 最後に一言。
 この映画の主役を演じたジャン・ポール・ベルモンドという役者には改めて敬服した。
  
 演技がどうこういう前に、最高にカッコいい。
 見かけはただのチンピラ。
 いつも帽子をアミダに(あるいは目深に)被り、無造作にネクタイを締め、分厚い唇には、くわえ煙草を絶やさず、火をつけたマッチも吸殻も、あたりかまわず投げ捨てる。

 

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 マナー最悪
 言葉は乱暴
 人品骨柄最低
 サングラスをかけると、どう見てもヤクザ以外の何者にも見えない。
 

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 しかし、それが実に洒落て見える。
 100パーセント自意識のかたまりのように見えながら、実は100パーセント自己というものに頓着していないという、珍しいタイプの男を演じている。

 

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 この映画の妙なさわやかさは、このベルモンドの演技によってかもし出されている。
 サングラスを取ると、まだ若かったせいか、ちょっとはにかみ屋の育ちの良さそうな表情がこぼれ出る。
 そこが、女の子ふうにいうと「かわいい!」。
  
 ゴダールは、新しい感覚を創造した映像作家かもしれないが、この映画に関しては、ベルモンドの演技に助けられているところが大きいと思えた。
   
 
 ジャン・ポール・ベルモンドの逝去日は2021年9月6日。
 享年88歳だったという。
 冥福を祈りたい。