アートと文藝のCafe

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映画のノイズ(ターミネーター3を観て)

 
 『ターミネーター3』(2003年公開)をBSのWOWOWで観る。

 未来の地球で起こるアンドロイド(ロボット)と人間の戦いの話。
 第一作は1984年に公開されたが、その後シリーズ化されて、現在6作まで制作されている。

 

 全作とも、タイムマシンに乗って、「未来」から飛来するアンドロイドと、「現在」を生きるに人間が戦う話。
 基本的には、未来の戦いで敗れることになるアンドロイド側が、敗北の原因をつくった人間側のキーマンを除去するために、未来の世界から侵入してくるという設定となっている。

 

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 シリーズ1作目では、未来から来た不気味なターミネーターをアーノルド・シュワルツネッガーが好演して大ヒット。
 これが彼をスターの座に押し上げるきっかけとなった。 

 
  
 『ターミネーター3』は、そのシュワルツネッガーが、今度は人間側を助けるアンドロイドとなり、未来社会から送られてきた女性型ターミネーターと闘うという話だ。

 女性型ターミネーター「TX」を演じる女優(クリスタナ・ローケン)がチャーミング。美しい容貌と肢体を持ちながら、人間の心を持たない冷酷な殺人マシーンとして機能するというアンバランスさがこの映画の魅力になっている。
  

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 見せ所は、とにかくアメリカ映画らしい自動車や建物をド派手に壊しまくるアクションシーン。
 人間をワイヤで吊るしてCGと絡めるという非現実的なアクションとは違い、あくまでも “生身” の肉体と肉体、さらに自動車と自動車がフィジカルにぶつかりあう古典的なアクションであることが特徴となっている。

 

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 確かに、「撮影中にけが人が出なかっただろうか」と心配させるほどのリアリティは確保できたが、単にそれだけの映画ともいえる。
 見終わった後には何も残らない。

  
 私のような旧世代人間は、こういうド派手さだけが売りのハリウッド系アクション映画を観ると、どんな映画もみな同じに見えてしまう。
 視聴覚に携わる神経をシャワーを浴びせるように刺激するという意味で、遊園地のジェットコースターのようなアトラクションに思えてしまうのだ。

 

 つまり、アクションは派手だが、そこに登場する人間たちは、行動も思考も観客に分かりやすいようにパターン化され、視神経を心地よくマッサージされることだけを望んでいるお客の「ノイズ」にならないように設定されている。

  
 この場合の「ノイズ(雑音)」というのは、いわば監督が表現したかったものと、実際に表現された映像のズレのことをいう。
 監督の意図したものが、100%のうち10%ぐらいしか達成できなかったもの。
 あるいは逆に、150%ぐらいまで過剰になってしまったもの。

 

 そういうように、監督の独りよがりで観客には伝わらないものも含めて、映画には、そういうアンバランス感が混入してくることがある。
 それを、ここでは「ノイズ」と呼んでみたい。
  
 たとえば、
 好意とも侮蔑とも取れるような、俳優のあいまいな笑い。
 何かを言いかけて、言葉を止めてしまった唇のアップ。

 

 そういう解釈不能の映像を差し挟むことは、画面のスムーズな流れに竿をさすという意味では、一般的な意味での「ノイズ(雑音)」でしかない。

 しかし、そういう微かなノイズの中に、逆に、その監督が描こうとしたものが何であるかを観客に想像させる余地が生まれる。
   
 小説では、これを「行間を読む」という言葉で表現をする。
 つまり、文字として刻印された言葉と言葉の空白に、作者の複雑な思いやその苦闘ぶりを読むことをいう。

 

 「行間を読む」とは、文学のノイズに耳を傾ける行為だ。
 近代に生まれた「小説」という文学のジャンルは、読者がこのノイズという「ざらつき感」に注目することによって、市民権を得た文芸形式ともいえる。

 

 このような「ざらつき感・抵抗感」がないと、観客は生理的快感のおもむくままに、スムースな流れに乗って最後まで押し流されてしまう。 
 で、「面白かったね、気分がさっぱりしたね」だけの映画になってしまう。
  
 昔の映画監督は、そのへんを心得ていて、登場人物の心がストレートに画面に出ないような演技を、わざと役者に求めた。

 

 しかし、最近のハリウッド映画は、俳優の「分かりにくい演技」を極力排除しようとする。
 俳優の演技もストーリーも徹底的に定型化し、代わりに、視神経的な刺激が効率よく観客に伝わるような映画づくりを進めている。

 

 余談になるが、私は、「ノイズ」というものこそ、民主主義の根幹を担う感性だと思っている。


 つまり、耳障りな雑音としか思えない「ノイズ」のなかに、隠された意味を見いだそうとする感性。
 それこそが、民主主義的な思想のように思える。

 

 このような「ノイズ」を完全に消去しようとすると、独裁国家の思想になる。
 今の中国共産党のように、国民全体を習近平思想に統一しようとするとき、人間の多様性を主張する声は、党指導部にはみな「ノイズ」に感じられるはずだ。

 
   
 で、『ターミネーター3』に戻る。
 この映画は、アクション系ハリウッド映画のそういった特徴をよく備えた作品であるが、私にとって面白かったのは、「人間の心を持たない」とされるターミネーターたちの方がはるかに人間っぽくて、逆に、悪いターミネーターに追われる人間の主人公たちの方が “つくりもの” っぽい印象に描かれていることだった。

 

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 つくりものっぽく見える理由は、喜怒哀楽の表現がまったくパターン化されているからだ。
 人間の主人公たちは、
 「人間というものは、こういう “刺激” をインプットされると、必ずこういう “反応” をアウトプットする」
 という、まるで正確な機械のような行動を示す。
  
 それに対し、表情を凍らせたまま沈黙するターミネーターたちは、「苦労に耐える人間」の風格を漂わせている。
 彼らは、心の奥に去来する思いを静かに封印し、与えられた任務だけに忠実になろうとする真面目人間の悲哀を表現しているかのようだ。
 どっちがターミネーターなんだよ と、つい思ってしまう。

 

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 私のような旧世代の映画ファンは、俳優たちのパターン化された演技というものに “つくりものっぽさ” を感じてしまうのだけれど、たぶん、新世代の映画ファンにとっては、そこはどうでもよいことなのかもしれない。