映画批評
「エクス・マキナ」
「ロボット」が出てくるSF映画とかアニメに興味があって、その手の話題作があると、よく観る。
映画によっては、「アンドロイド」とか「レプリカント」、あるいは「サイボーグ」などと言葉を与えられることもあるが、要は “人間そっくりさん” が出てくる作品だ。
なぜ、そういった映画に関心が向くのか。
それは、現代社会の大きなテーマになりつつある「人間とAI の違いは何なのか?」という問題を考えるときに、ヴィジュアル的なリアリティを与えてくれるからだ。
つい最近観た映画に、アレックス・ガーランド監督の『エクス・マキナ』(2016年)、ルパート・サンダース監督の『ゴースト・イン・ザ・シェル(実写版)』(2017年)、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ブレードランナー 2049』(2017年)がある。
この3者のなかで、比較的印象に残ったのは、『エクス・マキナ』(写真上)だった。
このタイトルは、ラテン語の「機械によって」という言葉を意味するらしい。
文字通り、他の二つの映画に比べて、ここに登場する女性型AI 搭載ロボットは “生々しく” 機械的だ。
ボディの大半は半透明で、機械っぽい内部構造が透けている。
その反動で、彼女が頭にウィッグをかぶり、人間女性の着るドレスを身に着けて登場すると、妙に艶っぽくて、ときにエロティックに見える。
だから、主人公であるIT 企業のプログラマーの青年と恋のかけひきが始まるという設定にそれなりのリアリティが生まれてくる。
はたして、「機械」と「人間」の間に恋愛は生じるのだろうか。
これがけっきょくこの映画の根本的なテーマとなるのだが、その結末を言ってしまうと、「なぁ~んだぁ」ということになるので、あえてネタバレの展開は避けようと思う。
ただし、「機械」と「人間」の恋が、ミステリアスなサスペンス劇になっていき、最後には劇的なエンディングが用意されているというところまでは明かしていいだろう。
そのサスペンス的な要素を盛り上げているのが、舞台となる山岳の別荘(写真上)だ。
ここではIT 企業の社長がたった一人でAI 搭載ロボットを開発しているのだが、その社屋は、徹底的に人間の生活臭を払しょくしたドライな幾何学的空間になっている。
▼ 「AI 人間」を開発する社長(右)と「AI 人間」の完成度をテストするために山荘に呼ばれた主人公
いってしまえば、この山荘は、人間が人間としての精神を保っていられるぎりぎりの生活空間であり、そこから先は、「人間型機械」でしか生存できないような乾ききった人工世界なのだ。
「機械」と「人間」の恋が成立するのかどうか、というきわどいテーマは、こういう環境設定がないと成立しない。
「人間」の方に、このような非人間的な抽象空間に耐えられる感性が用意されていないと、おそらく「人間」は、「機械」が告白する恋を信じることはできないだろう。
つまり、この映画は、人間同等の脳活動を与えられたロボットが、人間固有のものと思われがちな「恋愛」感情を持ちうるか? というテーマを探るだけでなく、人間の方が、どれだけ人工物に心を寄せられるか? ということも描こうとしている。
そういった意味で、本作は、「AI」の進歩に対する一つの示唆的な未来図を描くことに成功したが、観ていて、ちょっと息苦しくなってきたことも告白しよう。
それは、この映画にリアリティを与えている幾何学的抽象空間に、私自身が耐えられなくなってきたからだ。
登場人物は、AI 美女を入れてたった3人。(あと1人メイド型の人工女性がいるけれど、ほとんどストーリーに絡まない)
少数の人間たちが繰り広げる密室劇は、だんだん観客を酸素不足の状態に追い込んでいく。
山荘のロケ地として選ばれたノルウェーのフィヨルドの風景も寒々としている。
主人公と社長がときどき散歩に出かける別荘の外には、太古の人類が耐え抜いてきた氷河期の風景がそびえている。
遠い将来、地球にもう一度氷河期が来るのだろうか? (そういう説もある)
もし、そういう時代が来たら、そのときの人間にはもう氷河期を生きのびる耐性がなくなっており、生き抜いていけるのは、AI を搭載したロボット人類だけなのだろうか。
ふと、そういうことまで想像させるようなロケ地が選ばれている。
↓ 参考記事