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AI が地球に君臨するポスト・シンギュラリティの世界

エッセイ・AI 論

  

 「シンギュラリティ」という言葉をよく聞くようになった。
 「技術的特異点」と訳す。

 

 原語そのものがむずかしいだけでなく、訳語もむずかしい。
 知的レベルが高いことを自慢したがるインテリ好みの言葉に聞こえるが、たぶんこの言葉は、そのうち一般庶民の会話にも頻繁に顔を出すようになるだろう。
 「AI (人工知能)」が日常会話のレベルまで浸透したようにである。

 

 「シンギュラリティ」というのは、そのAI が発達し、人間の知性を超えることによって、人間の生活に大きな変化が起こる “転換点” のことをいう。

 いま話題になっているのは、それが「いつか?」ということだ。

 

 この言葉を世に広めたレイ・カーツワイル博士(AI 研究者)の予測によると、それはだいたい2045年頃とされる。
 もちろん諸説ある。

 

 ただ、AI の進化は、今後さらなる加速度を増し、21世紀中にはその「シンギュラリティ」が訪れるだろうという見方だけは、いろいろな研究者やジャーナリストの間で一致している。
 
 その後は、どうなるのか?
 人間を超えるほど進化したAI は、それ以降、人間を必要としなくなる。自分自身で問題を見つけ出し、その回答を考え、さらなる進化を続けていく。

 

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 それを説明する言葉として、すでに「ディープラーニング」という概念があるが、シンギュラリティ後のAI は、その「ディープラーニング」という言葉では説明しきれない段階にまで達しているという。

 
 つまり、人間は、もうその “時代” を予測する能力を持たないのだ。
 それくらい、AI は、人間の想像域を超える進化を果たしてしまう。

 

 こういう未来予測を、楽観的に考える人と、悲観的に考える人がいる。
 楽観論に立てば、これまで人間を苦しめていた過酷な労働はすべてAI が担当するようになるので、人間は自由気ままに、好きなことだけを追求して生きていけばいい、ということになる。

 

 古代ギリシャやローマの貴族は、ほとんどの労働を奴隷に任せていた。
 そして、スポーツに打ち込み、趣味としての「政治談議」に花を咲かせ、美食に酔いしれた。

 
 それは、奴隷といわれる人間たちが、生産的な労働をすべてまかなっていたからだ。

 AI 時代というのは、その “奴隷制” が形を変えて復活する時代だという人もいる。
 つまり、頭脳労働はすべてAI に任せ、肉体労働はAI 搭載型ロボットに任せておけばいいことになるのだとか。 

 

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 一方、悲観論も根強い。
 進化したAI にとっては、「非効率的な生き方しかできない人間」は、邪魔者になる。
 そもそもAI というのは、作業上の効率化を極限にまで進めるために開発されたものである。

 

 そういう彼らにとって、人間は一種の「バグ」であり、「ノイズ」でしかない。
 自分たちが進める “理想社会(?)” を実現させるためには、人間をこの世から一掃しなければならない。

 そういう未来社会を想像してしまうと、その先にあるのはSF映画の『ターミネーター』や『マトリックス』の世界になる。

  

 私自身は、その両極端に分かれた世界のちょうど中間ぐらいの世の中になっていくのだろうと思っている。
 人間が行ってきた労働のかなりの部分を、AI 搭載のロボットが代行するようになることは確かなことで、人間の仕事そのものは減っていく。

 

 しかし、同時に、人間にとって新しい仕事が生まれる可能性もある。
 AI が代行する仕事が増えるに従って、逆にAI ではこなせない仕事というものも見つかっていくだろうから、そこに人間が新たに関与すべき世界も広がっていく。
 
 人間を抹殺しようとするAI が生まれてくるとしたら、それは人間がそのようなプログラムを仕組んだときだ。

 

 ただ、最後の問題が残る。
 はたして、「AI は心を持つようになるのだろうか?」ということだ。

 

  結論からいう。
 人間が持っているような「心」を、AI は持たない。

 AI が人間の精神活動といわれるものに大幅に関与する時代が来たとしても、現在われわれがイメージするような「心」を持つことはない。
 もし、AI が、現在人間が関与する精神活動を、人間に代わって指導するような時代が来たとしたら、それは人間の方も、「心」を必要としない時代になっているということなのだ。

 

 では、そもそも「心」とは何か?

 それは「謎」を感じる力のことである。
 つまり、世の中にある “不思議なもの” に気づき、そこに隠されている秘密を解き明かそうとする好奇心のことだ。

 

 AI には、その「謎」を感じる力がない。
 これが人間との最大の差異である。

 

 AI と人間の “能力” を比べた場合、演算能力においては圧倒的な優位に立つAI ではあるが、けっきょく、「謎」に気づくのはAI を使う人間の方であり、AI の頭脳には、人間に与えられた問に対して最適解を計算していくプロセスしか存在しない。

 

 しかし、人間は「謎」に立ち向かいながらも、ときに「謎」の美しさに戸惑い、我を忘れ、沈黙に身を浸すことがある。 

 

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 ―― 宇宙が始まる前には、何があったのか?
 ―― 生命はどうして生まれてきたのか?
 ―― 人類は、何をきっかけに、「愛」を手に入れたのか?

 

 そういう答のない「謎」に美しさを感じるのが、人間である。
 すなわち、「心」とは、「謎の美しさ」を楽しむ感受性のことをいう。
 
 
 「謎」が人間を魅了するのは、そこに「無限」という感覚が潜んでいるからである。
 たとえば、“宇宙の果て” のようなものを想像するとき、人間は眩暈(めまい)に近い虚脱感を感じるが、そういう感慨をAI が持つことはない。

 

 どれほどのビッグデータを包摂しようが、AI に「無限」という “データ” がインプットされることはない。
 なぜなら、「無限」は、AI が得意としている「計算」の《外》にあるからだ。
 数字しか扱えないAI には、数字に置き換えることのできない「無限」を読み込む回路がないのだ。 

 

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 人間が美しさを感じる「答のない謎」とは、すなわち、この「無限」に属するものにほかならない。

 

 「無限」こそ、「有限の人間」には理解も、想像もできない領域で、その「無限」を感知するアンテナ感度を上げようと思い詰めるときにだけ、人間の魂は浄化される。
 そこに哲学や宗教の原点があり、アートや文学の原点がある。
  
 又聞きであるが、昔、ドストエフスキーが非ユークリッド幾何学に凝った時期があったということを、何かで読んだことがある。
 通常の幾何学では、「平行線」というのは、どこまで行っても永遠に交わらないものと定義される。

 

 しかし、非ユークリッド幾何学では、
 「平行線は無限遠点で交差する」
 とされる。

 
 ドストエフスキーは、この「無限遠点で交わる」という言葉に神の存在を重ね合わせ、そこから創作上のインスピレーションを汲み取ったといわれている。


 数学は、あらゆる学問のうち、もっとも理論的な整合性に貫かれた学問で、それ自体が完結した「小宇宙」を形成している。

 

 しかし、ドストエフスキーは、その自己完結型の数学にも、実は《外》に向かう “脱出路” があることを発見した。

 
 そして、それは、イエス・キリストという存在を、定型化して硬直化した “キリスト教” という枠組みの《外》に見い出す作業にもつながった。

 

 結論をいえば、人間の「想像力」は「無限」からやってくる。
 すなわち、「有限」の人間が、「無限」を問うことの空しさに気づいたとき、その空しさを埋めるものとして想像力が舞い降りてくる。