恐怖の正体は “物の不在感” にあり
日本映画の監督で「クロサワ」といえば、世間的にはまだ黒澤明(くろさわ・あきら)の方が知られているが、この2020年、『スパイの妻』でヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)をとった黒沢清(くろさわ・きよし)に、いま世間の注目が集まっている。
私は、この黒沢清(写真下)の映画が大好きで、2001年の『回路』、2007年の『叫(さけび)』、2013年の『リアル~完全なる首長竜の日』などといった一連のホラー系作品をことのほか愛している。
彼のホラーは、美しいのだ。
「恐怖」より、「美」が際立つ。
特に、『回路』などは、そういった特徴が色濃く漂う作品だ。
パソコンのあるサイトが、“あの世” と接続しており、そこにアクセスすると、「幽霊に会いたいですか?」というキャッチが送られるとともに、モニター画面に異変が現われ、かつ日常生活においても、不気味なことがたくさん起こるようになる。
そういった意味で、これは鈴木光司の原作を映画化した『リング』(中田秀夫監督)や、秋元康のつくった『着信あり』などと同じ系譜に属する現代ホラーといえる。
つまり、『リング』ではビデオが。そして『着信あり』では携帯電話が、それぞれ恐怖を引き寄せる小道具として使われたという意味で、伝統的な幽霊話が現代的なテクノロジーによって復活しているところに特徴がある。
『回路』においては、パソコンが重要なアイテムとなった。
パソコンは、2000年代に入るとどの家庭にも普及し、日常的な環境の中に定着した機器だけに、それが、日常性からもっとも遠い “あの世” からの信号を送ってくるという設定はそうとう怖い。
考えてみれば、パソコンの回路は無限の闇に通じている。
そこで飛び交うデータが、どこの世界から発信されているかは、実は誰にも分からない。
となれば、当時、家や会社のデスクに当たり前のように置かれていたパソコンそのものが、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界の「入り口」であるというのは、きわめてリアリティある設定といえる。
当時、この映画を鑑賞したサラリーマンたちには、深夜の会社のデスク上に整然と並んだパソコンが、もしかしたら一番怖いものに思えたかもしれない。
冒頭でいったように、黒沢清は、ホラーを題材にしながらも、そこに “恐怖美” ともいえる独特の映像世界を創造する監督である。
この『回路』の7年後に作られた『叫(さけび)』という映画を観たことがあるが、これも実に美しい作品であった。
怖いことが美しい。
いや、美しいからこそ怖い。
『叫』では、そんな映像がふんだんに散りばめられていた。
何が怖いのか。
幽霊が出てくるシーンが怖いのではない。
幽霊の出てこないシーンが怖いのだ。
たとえば、運河べりに建つ廃屋。
人気のない病院の廊下。
家の窓から眺める田園風景。
それが、もう怖い。
そして、その怖さは、同時に “あの世の美学” ともいる詩情をたっぷりと含んでいる。
『回路』においても、やはり “幽霊の出ない”シーンが怖くて美しい。
廃墟のような工場の鉄塔。
遊ぶ者のいないゲームセンター。
定員のいない静まり返ったコンビニ。
主人公以外の乗客のいない電車。
それらが、夢の世界から浮上してくるような、玄妙な “恐怖美” を形づくる。
それに比べると、幽霊が登場する映像の方が怖くない。
… ということは、恐怖とは、「あるべきものが不在である」という感覚から生まれてくるのかもしれない。
なぜかというと、「あるべきもの」が不在であることは、“あってはいけないもの” が忍び寄ってくるということだから。
人間には、恐怖の対象が実際に登場するよりも、むしろ自分の中に湧き起ってくる想像力の方が怖いということがあるのだ。
そして、そういう怖さこそが、ホラーの美学となる。
『叫(さけび)』でもそうだったが、『回路』においても、人のいない街が出てくる。
通行人や自動車が溢れているはずのビル街は、白昼それらが姿を消すと、この世でもっともさびしく荒涼とした世界に生まれ変わる。
黒沢清は、人一倍、静かな大都会というものの怖さを感じ取れる感性を持っている人のようだ。
映画を観終ってから、自分のパソコンの前に座り、麻雀ゲームのソフトで少し遊んだ。
思いもかけないことが起こった。
映画の印象が脳裏に残っていたせいか、今まで感じたこともない怖さに襲われたのだ。
自分以外の3人の対戦者が、バシャバシャっという効果音とともに、規則正しく、牌(パイ)を繰り出してくる。
もちろん、彼らの顔も手さばきも見えない。
目の前に現われるのは、彼らが河(ホー)に打ち捨てた牌のみ。
それが事務的に、かつ正確に繰り返される。
「俺は、一体どんなやつらと打っているんだ?」
そう思うと、麻雀ゲームを繰り広げているモニターが、にわかに、映画『回路』に示された “あの世” とつながったような気分になった。