このコロナ禍の夏、東京オリンピックやアフガニスタンのタリバン復活、自民党の総裁選といった話題と同じぐらい、世間を騒がせたニュースがあった。
秋篠宮家の眞子さまと小室圭氏の結婚が決まったという話である。
二人の交際については、すでに4年前から取り沙汰されていた。
それがようやく結婚という形で収束しそうだというのだ。
なぜ、この二人の話がテレビや週刊誌のネタになり続けるのか?
たぶん、多くの日本人が、「この結婚で眞子さまが幸せになることはない」ということを確信しているからだ。
もちろん、
「二人とも愛し合っているのだから、素直に祝福してあげればいい」
という意見も根強い。
しかし、大方のマスコミの論調は、眞子さまの結婚相手となる小室圭氏という男性に対して手厳しい。
現在流布している情報では、小室圭氏とその母親は、これまでの金銭トラブルをまったく解消する姿を見せず、女性皇族に支払われる約1億4000万円の結婚一時金をしっかり着手しようとしているとか。
つまり、お金に対しての欲をあからさまにむき出しにする小室親子の身勝手なふるまいが、多くの国民の不興を買っているという。
もちろん、私などにはその真相は分からないし、そのことについては、さほど興味もない。
ただ、ひとつ言えることは、眞子さまは、小室圭氏を「唯一の男性」として熱愛する前に、もっと多くの恋愛をするべきだった、ということだ。
というか、もしさまざまな恋愛経験を持ったならば、小室圭氏を「絶対的な男性」と思い込むこともなかったかもしれないと思うのだ。
「恋愛」に対する免疫性が不十分のまま「結婚」すること。
そのこと自体が、ある意味、「不幸」の始まりでもある。
結婚後の夫婦関係がうまくいくのは、お互いにいくつかの恋愛経験をした後か、そうでなければ、逆にお見合い結婚だ。
どちらも、結婚相手を冷静に見る余裕を持てるからだ。
しかし、熱に浮かされたような恋愛をしている最中には、相手の本当の姿が見えない。
これは、古今東西、多くの小説や演劇などのテーマとなってきた事実だ。
結婚後に、相手の本当の姿に気づいてがっかりすること。それを一般的な言葉で「幻滅」という。
眞子さまの場合、もし結婚後に小室圭氏に対して「幻滅」したとしたら、(他の男性を知らないのだから)、小室氏一人に対する「幻滅」が、そのまま “男性一般” に対する「幻滅」に変わってしまう。
多くの日本人は、それが予見できるがゆえに、この結婚に危ういものを感じるのだ。