2020年度NHKの紅白歌合戦の出場者が発表されたが、昨年まで12年連続出場していたAKB48が選考から落ちた。
櫻坂46、乃木坂46、日向坂46などは出場するらしいが、なんといっても、その手のガールズユニットの頂点に立っていたAKBが「紅白」に出ないということは、秋元康系アイドルグループの「終わりの始まり」を見るような気がする。
もっとも、私は指原莉乃がAKBのセンターを張ったとき(2013年)から、なんとなくAKBの終わりを感じていた。
指原というのは、ある意味で、才能のありすぎる娘で、セルフプロモーションがうまい。
だから、卒業してからのタレント活動の方が輝いて見える。
つまり、AKB全体の “オーラ” を、独立していく指原1人が奪い尽してしまった感じがするのだ。
いってしまえば、タレント(あるいは役者)として大成するのは、けっきょくは個人の力でしかなく、AKBというシステム自体は、スターを輩出するユニットとしては無力だった、ということを指原が証明してしまったようにも思える。
しかし、今から8年ほど前、つまり2012年当時を振り返ってみると、AKB48というユニット自体が時代を超えた巨大な存在だった。
彼女たちが繰り広げる「握手会」や「総選挙」などというイベントは、その時代にもっとも成功したショービジネスだといわれ、多くの企業人たちの熱い視線を集めた。
つまり、「AKB48」は、単なるアイドルという存在を超えて、2000年代全般を代表するような “社会現象” だったのだ。
彼女たちが巻き起こした旋風がどれだけ凄まじいものだったか。
それを示す一冊の本がある。
『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書 2012年8月26日)。
今、本棚からたぐり寄せて、パラパラとページをめくってみたら、とんでもない熱量を持った本であることが改めて分かり、軽いめまいを覚えた。
どういう本なのか?
年齢的にはすでに中年の域に入った男性4人が、
「自分がどれだけ熱いAKBファンなのか!」
ということを競い合って語り明かす本なのだ。
この “論争” に参加した人たちは、以下のとおり。
小林よしのり 1953年生 当時59歳 漫画家(下写真左上)
中森明夫 1960年生 当時52歳 ライター(下写真右上)
宇野常寛 1978年生 当時33歳 評論家(下写真左下)
濱野智史 1980年生 当時32歳 社会学者・批評家(下写真右下)
この人たちがすごいのは、みな例外なく、自ら「AKBにハマった!」と豪語したところにある。
それもハンパじゃなく、実際に握手会や総選挙などに足を運び、自分のお気に入りの子を “推す” ために、大量のCDを買い込んだという。
トークに参加した小林よしのり氏は、こう語る。
「わしはCDを10枚買ってしまった時点で、異常な世界に踏み込んでしまったという感覚があったよ(笑)。普通なら、同じCDを2枚買ったら無駄なことをしていると思うわけだから」
濱野智史氏の弁。
「僕も、CDを58枚買ったときは、ついに戻れない世界に足を踏み入れたなと思いました」
本の前半は、こういう中年ファンたちの無邪気な自慢話で埋め尽くされている。
しかし、話はだんだんすごいところに分け入っていく。
途中から、使われる言葉が尋常ではなくなってくるのだ。
「資本主義」
「世界宗教」
「プロテスタンティズムの倫理」
… などという用語が飛び交い始める。
とりあえず、話をリードする論客の一人、宇野常寛氏(写真下)のトークを(少し長くなるけれど)拾ってみる。
「AKBは売れているからけしからん、というようなことをいう左翼的な人間がまだいる。
資本主義の論理をどんどん追求したほうが、多様で民主的で、表現としても豊かなものがたくさん出てくるのに、純文学や美術の世界では『アニメやアイドルやポップミュージックみたいな大衆に媚びる文化はダメだ』という恐ろしく頭の悪い発言をする人が後を絶たない。
彼らは、『資本主義の論理に逆らって書かれたものだけが本物だ』みたいなことをいうけれど、そういうのはもう古い。
つまり、彼らは、消費社会のことがまったくわかっていない。自動車だって食品だって、すでに存在する欲望に迎合するだけではなく、徹底的に利潤を追求することで、今まで誰も見たこともなかった新しいモノを生み出してきたわけ。
媚びるどころか、むしろ大衆に新しい欲望や快感を教えてやらなければ負けていくのが消費社会というゲーム。
そうやって、お金儲けを追求することで新しい価値が自動的に生まれていくのが、資本主義という自己進化システムに他ならない。教条的な左翼の人たちは、消費社会を矮小化してとらえている」
ま、宇野氏の気負いは分からないでもないが、AKB48にこれほど思想的なこだわりを持つ理由がいま一つ不明。
自分の “学識” を読者に伝えたかったのだろうか?
宇野氏と同じぐらいの年齢(当時30代前半)の濱野智史氏(写真下)も、宇野氏と同じぐらいの熱を持って、AKBの存在意義を力説する。
彼は、こういう。
「(AKBをつくった)秋元康さんほど、今の時代に世界平和を実現するのに近い人間はいないと思っている。
なぜかというと、今の世界は冷戦も終わって、イデオロギー闘争もなくなった。そういう世の中で、何がいちばん危険なのかと考えると、セックスできずにモヤモヤしている非モテ男性のルサンチマン(怨念)みたいなものが、もっとも暴力につながりやすい。
でも、AKBのような方式で世界中にアイドルを展開させていけば、そのルサンチマンが解消される。
世界平和を実現するには、この “恋愛弱者” をいかに物理的に減らすかしか道はないと思う。
現実的に、セックスできない奴は世の中にたくさんいて、そいつらに救済を与えているのがAKB」
ふぅ~ん …… 。
すごいことを言っていたんだなぁ … この人。
AKBファンをすべて「非モテ系の恋愛弱者」と規定してしまう一方的な決め付けに対し、当時こう言われた若者たちは、どう感じていたのだろうか。
この本を読んだ2012年には、私はすでに62歳になっていたが、もし自分が “若者” だったら、この発言にそうとうな反発を感じただろうと思う。
だが、この本において、宇野氏や濱野氏の暴走はさらに加速する。
彼らは、ついに、「AKBこそ新しい世界宗教だ」と言い切る。
以下、濱野氏の発言。
「日本は(AKBに代表される)アイドル的な国家を目指すべきだ。そしてJKT(AKBのインドネシア版)のように、こういうシステムを外国に輸出していくべきである。
AKBみたいな劇場を他の国へ作っていけば、資本主義社会における自由恋愛では負け組になってしまうモテない若い男子がどんどん救済されていく。
AKBの仕組みは、劇場でAKBが見られたり握手できたりするだけのシンプルなもので、資本主義と結託して恋愛弱者のオタクから搾取しているだけのビジネスに見えるが、その裏側では、確実に負け組の救済になっている。
(AKBが)負け組の若者たちに生きる意味を与えているということで、キリスト教やイスラム教みたいな新しい『世界宗教』になり得るのではないか」
おい、濱野さん。
AKBファンをすべて “負け組” なんて言い切っていいの?
今、この濱野氏の発言を聞くと、彼がこのときに、(AKBウイルス !? に冒されて)誇大妄想的な興奮状態にいたことが分かる。
もしこの発言が、キリスト教原理主義の人やイスラム原理主義の信者に届いたら、「バカなこというんじゃねぇ!」と怒られただろうと思う。
世界の一神教は2000年以上の歴史を持っているが、AKBはこのとき、デビューしてたかだか3年ぐらいの歴史しか持っていない。
「世界宗教」を語るには、最低でも20年ぐらいの歴史が必要となるのだ。
濱野氏が今どういう世界で、どんな仕事をしているのか知らないが、もしこのときの自分の発言を思い出したら、どんな気持ちになるのだろう。
自分は正しいことを言ったと今でも思うのだろうか。
それとも恥じるのだろうか。
知りたいところである。
濱野氏は、このときのAKBの総選挙で、一位になった大島優子の発言の途中で登場した前田敦子のことをこう表現する。
「(そのとき前田敦子はAKBを)やめているのに、やめていない。まさに記号論でいう『ゼロ記号』じゃないけど、“不在のセンター” になってしまった」
“ゼロ記号” !
記号論における「ゼロ記号」というのは、確かに、一世を風靡した言葉である。
しかし、この言葉は、80年代ぐらいには、消費されすぎてすでに死語になっていた。
それを再び持ち出してくる濱野氏の言語感覚にため息が出た。
そういう濱野氏の脱線振りに輪をかけて、宇野氏も次のような過激発言を繰り出す。
「(マックス・ウェーバーの『プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神』が指摘したような西洋の一神教的な資本主義の展開ではなくて)今は、アジアにおける資本主義受容という事態が起きた結果、次のステージとして多神教的な世界観と資本主義の結託が始まった。
僕はそれがAKBじゃないかと思う。21世紀以降は、多神教原理の資本主義のほうが勝つ可能性がある」
彼が興奮していたことは、この発言から伝わってくる。
ただ、大げさだよ!
… まぁ、インテリがアイドルに入れ込むときは、こういう感情になってしまうのだろう。
上記の2人の “過激な(?)” 発言に対し、中森明夫氏と小林よしのり氏は比較的冷静に対応していて、それがいま読み返してみると、好感が持てる。
しかし、それでも4人のトーク全体が熱を帯びていることには変わりない。
8年前。
いやまぁ、なんという激しい本が出ていたのだろう。
ただ、この本が当時握手会や総選挙に殺到していたファンの心に届いたかどうかは分からない。
おそらく、本当のファンはあまりこの本を読まなかったように思う。
あまりにも “インテリたちの言葉遊び” という面が強すぎるから。
宇野氏も濱野氏も、AKBの熱心なファンのような振りをして、(言葉は悪いけれど)本当は自分たちの理屈をひけらかしたかっただけではないか? …… とすら思えるのだ。
それでもまだ、彼らの “資本主義分析” が正しければ読み応えがあったかもしれない。
しかし、宇野氏のいっているようなことは、80年代のニューアカブーム時代に、浅田彰たちによってさんざん言い尽くされたことでしかない。
それから、30年経った2012年に、それを蒸し返した段階で、宇野氏などの発言は決定的に古くなっている。
資本主義を肯定的に捉える言説は、冷戦構造を背景にした時代のものだ。
だから、宇野氏や濱野氏が「資本主義」を語りたかったのなら、新自由主義とグローバリズムに染まった「冷戦以降の資本主義」を語らなければならなかったはずだ。
まぁ、今頃そういっても遅いけれどね。
この本は、AKB48という存在を記録する貴重なデータとして残るのだろうか。
それとも、トンデモ本のような扱いを受けて、闇の中に消えていくのだろうか。
違和感を抱きながらも、私はそれなりに面白く読んだけれど … 。