2023年10月11日、将棋の藤井聡太名人が「王座戦」で、永瀬拓哉九段を下し、ついに8冠を達成した。
そのニュースが脚光を浴びたせいで、それ以降、テレビなどではその対局の棋譜(きふ)を紹介しながらプロの棋士(きし)が解説するシーンが増えた。
それらを見るようになって、将棋というゲームの奥行きの深さのようなものを少しは感じられるようになった。
あれは一種の “アート” のようなものだ。
一人の棋士が、盤上の駒を進めながら相手の棋士と対局する。
そこには、数学と文学が同居している。
将棋の展開には、ピタゴラスやアルキメデスのような著名な数学者たちが追求した合理性の極致のような回路が張り巡らされている。
そこには、完璧なまでに磨き上げられた「整合性の美しさ」がある。
しかし、同時にボードレールやランボーといった天才詩人の作品のような「飛躍の美しさ」もある。
今回の「王座戦」では、永瀬拓哉九段は、最後の詰めで、「99%の勝利」を一瞬のうちに失った。
そのことを、本人は「エアポケットに落ちたような … 」と述懐しているとか。
それは、「将棋というゲームの詩のような美しさ」に永瀬氏がハマったことを意味している。
これまで藤井聡太氏と戦ったことのあるプロの棋士たちの回想によれば、
「藤井氏は不利な状況になってくると、必ず妙な手を打ってくる」
という。
“妙な手” というのは、決して最善手(さいぜんしゅ)とはいえない手のことをいう。
「好手」と「悪手」に分ければ、むしろ「悪手」の部類に入る。
今回の「王座戦」でも、永瀬九段が痛恨の一手と後悔した指し手の前に、劣勢を意識した藤井聡太氏が “奇妙な手” を指していたという。
最近はAI(コンピューター)将棋が普及してきたので、プロ棋士同志の対局中にも、AIが絶えず棋士たちの指し手を分析している。
よくは分からないが、AIでは通常100万手ぐらいは即座に模範解答を出すのだそうだ。
今回、永瀬氏のミスを誘った藤井氏の指した手は、AIの解析によると、最善手の候補のなかでは上位3番にも入らなかったものらしい。
しかし、このときのAIの解析をさらに進めていくと、6億手(6億通り)という膨大な解析までたどり着いた時点で、ようやく藤井氏の指し方が最善手のトップに躍り出てくるとか。
藤井氏は、その6億手ぐらいの読みを、だいた20分とか30分でこなしてしまうらしい。
なんとも恐ろしい話だと思った。
このように、人間がAIの判断を陵駕することがあるのは、AIと人間の想像力の差かもしれない。
AIは、人間の「悪意」を読めない。
つまり、人間は対局相手を騙すために、わざと「無意味に見える」手を考えつくことがある。
それに対し、AIは、常に最善手を探し出すようにプログラムされている。
その前提となるのは、「相手もまた最善手を探してくるに違いない」という信念(思考回路)だ。
藤井名人は、そのようなAI的思考の裏をかいた。
この藤井氏の魔術にハメられた永瀬九段は、盤上に駒を置いた瞬間、すぐに自分のミスに気づき、天を仰ぎ自分の拳で頭を叩き続けた。
その動作が可愛いとネットで評判になり、永瀬氏は藤井氏をしのぐ人気を獲得した。
いずれにせよ、今回の対決は、将棋というゲームの人間臭さを取り出したような試合だった。