NHK総合の「土曜時代ドラマ」枠で放映されている『雲霧仁左衛門』が楽しみになった。
ハードディスクに録画し、のんびりできる時間を見つけて、ゆっくり見ている。
もとは、BSプレミアムで、2013年から放送されていたものらしい。
いま流れているのは、その再放送だ。
原作は池波正太郎。
これまでも、何度も映画化・ドラマ化が試みられた人気作品だという。
どういう話か。
徳川吉宗の治世であった享保年間。
「雲霧一党」と呼ばれた盗賊の一味がいた。
首領の名は、「雲霧仁左衛門(くもきり・にざえもん)」(中井貴一)。
彼らは、けっして人を殺さず、誰も傷もつけず、しかも不正を働く大金持ちからしかカネを盗まない。
だから、「盗賊」と言われつつも、庶民から慕われている。
雲霧一味には、ライバルがいた。
治安組織の火付盗賊改方(ひつけ・とうぞく・あらためがた)だ。
そのリーダーの名が「安部式部(あべ・しきぶ)」(國村準)。
ドラマは、雲霧仁左衛門と、この安部式部の執念の戦いを軸として進行する。
ともに知恵者。
両者とも、常に相手の出方を予測し、お互いに裏をかこうとして秘術の限りを尽くす。
このやりとりが実に面白い!
二人とも部下思いの良きリーダーだから、それぞれの部下たちも必死になって親分に忠誠を尽くす。
雲霧と式部の間には、いつしか、お互いを信頼する心が芽生える。しかし、「泥棒」と「取り締まり方」だから、どちらも手を抜くわけにはいかない。
主役の中井貴一もカッコいいが、それを追う國村隼(くにむら・じゅん)の演技がいい。
私は、昔からこの役者が大好きで、彼の出る作品は見逃さないようにしていた。
リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』(1989年)では、鬼気迫る悪役を演じた松田優作の一の子分として、これまた身の毛のよだつような悪人になりきって、観客の度肝を抜いた(写真下)。
北野武監督の『アウトレイジ』(2010年)では、私利私欲ばかり追う嫌らしいヤクザの親分を好演した。
『シン・ゴジラ』(2016年)では、実直な統合幕僚長を演じていた。
良い役も悪い役も上手にこなす役者だ。
末永く素敵な役を演じ続けてほしい人だ。
この『雲霧仁左衛門』というドラマの特徴は、映像美にある。
光と闇のコントラストが実に美しいのだ。
電灯などあるわけもない江戸時代。
昼間でも、屋敷の奥座敷には十分に光が届かない。
普通の時代劇では、光の届かない屋敷の奥までライトを回らせ、<闇>を消し去った平板な映像で終わらせるところだが、この『雲霧 … 』では、<闇>の部分を美しく残し、江戸時代の “空気感” を見事に再現している。
目を見張るのは、障子の “描き方” だ。
障子のふっくらとした白さの向こうに、庭の木々が影を落とす。
透明ではないのに、外の光景が “気配” として透過される日本式「窓」。
こういう室内造形は、西洋のガラス窓ではまず実現することがない。
谷崎潤一郎が昭和8年(1933年)に執筆した『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』では、日本座敷の美学をこう説明している。
「もし日本座敷を一つの墨絵にたとえるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。
われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して、おのずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にもまさる幽玄味を持たせたのである」
要は、日本の座敷というのは、モノクロの濃淡の美しさを追求したものだ、というわけだ。
光の当たった場所から、光の絶えた部屋のすみまで、そこには無限のグラデーションが存在する。
その<光と闇>の配分にこそ、「美」が宿る。
『陰翳礼讃』とは、そういうことを追求した書物である。
もし、西洋のガラス窓のように、戸外の光をそのまま透過してしまうと、何もない場所は、「モノの不在」をそのまま伝えてしまう。
谷崎潤一郎は、それを「虚無の空間」と呼んだ。
しかし、日本の座敷は、虚無そのものを遮蔽する。
つまり、<光と闇>が美しく融けあう空間を残すことによって、人間が、そこに不可視の何かがあるような錯覚を抱くよう、誘導していく。
この「錯覚」を、すなわち「幽玄」という。
ドラマ『雲霧仁左衛門』の映像スタッフが、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を意識していることは明白である。
そのため、このドラマは、まさに江戸時代の “空気感” を創造することになった。
江戸の人々の暮らしは、現代人よりも豊かであったかもしれない。
『雲霧仁左衛門』の世界は、それを伝えてくる。
障子を通して伝わってくる座敷の光の美しさ。
川面に乱舞する陽の光の躍動感。
ここで再現されているのは、近代人が忘れてしまった「美しくもリアルな江戸」だ。
谷崎潤一郎は、金や銀といった「光り輝く装飾品」もまた、暗い空間の中で鑑賞するものだという。
たとえば黄金色に包まれた能舞台や、きらびやか能衣装。
今日のわれわれは、能を観るときも、近代的なライティングのもとで鑑賞する。
しかし、昔は松明や燭台の灯りのなかで鑑賞した。
能役者のきらびやかな衣装や黄金の舞台は、適度な暗さがあってこそ、はじめて荘厳な輝きを発揮する。
「能につきまとう暗さと、そこから生じる美しさは、昔は、さほど実生活とかけ離れたものではなかったろう。
能役者たちの着ていたものも、当時の貴族や大名の着ていたものと同じであったろう」
そう書いて、谷崎は、
「昔の日本人が、とくに戦国や桃山時代の豪華な服装をした武士などが、今日のわれわれに比べて、どんなに美しく見えたであろうかと想像すると、思わず恍惚となる」
と告白する。
昔、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)という映画を見たことがあった。
モノクロ映画であった。
▼ 「雨月物語」
しかし、不思議なことに、そこに登場する魔性の姫君が身に付ける衣装は、どんなカラー映画よりも、雄弁に黄金色の輝きを放っていた。
谷崎は、
「建物の奥の暗がりにある、金屏風や金のふすまや仏像は、夕暮れの地平線のような沈痛な美しい黄金色を投げかけている」
と書く。
実に “詩的な” 表現である。
『雨月物語』といい、この『雲霧仁左衛門』といい、優秀な日本人スタッフは、闇の奥を照らす光の美しさを見逃していない。