WOWOWで、10年ほど前に公開された映画『20世紀少年』を観た。
テレビ放映されたものは、これまでも一度か二度、部分的に観たことがある。
でも、さほどの興味を感じなかったので、すぐチャンネルを変えてしまった。
しかし、今回その三部作を改めて鑑賞し、その面白さに驚嘆した。
なんで、こんな優れた作品を10年も見逃していたのだろうと、多少後悔した。
原作は、浦沢直樹のコミックであるということは今さら触れる必要もあるまい。
ただ、私はそのことを映画を見るまで知らなかった。
だから、以下述べるのはあくまでも映画についての感想である。
一言でいう。
とにかく、独特の世界観をもった作品である。
この映画の面白さは、その世界観を読み解くときのスリルにある。
では、その世界観とは何か。
それは、人間にとって “最も普遍的な価値” として信じられているものこそ、実はもっとも不気味なものであるという世界観である。
友情
人類の進歩と調和
世界平和
そういう誰も反論できないような “正義” が隠し持っている本質的な不気味さ。
それを余すところなく描き切ったのが、この作品である。
ここに登場する悪役の名は、「ともだち」(写真上)。
SF冒険映画などによく出てくる世界征服の亡者である。
彼は、細菌兵器やロボットなどを使い、人類を滅亡させることをもくろみながら、目的を達成するまでは、むしろ人類の救世主として振舞い、絶大な支持者を集める。
「ともだち」という言葉の不思議な響き
この悪役のネーミングから、人間同士の絆を意味する「ともだち」という言葉が、この映画ではもっとも不吉な響きを持っていることが強調される。
その「ともだち」が自分の理想郷として建設するのが、東京のウォーターフロントに展開する「新・万国博覧会」のパビリオン群だ。
それは、彼が幼少期に憧れた1970年の「大阪万博」を21世紀に再現させようという試みである。
しかし、「ともだち」が造ろうとしている新しい万博の光景は、死の都市ともいえる不気味な静寂に満たされ、その象徴的存在である「太陽の塔」(ともだちの塔)は、岡本太郎のデザインを模したものでありながら、不吉な暗さを抱えている。
「人類の進歩と調和」
を謳った70年大阪万博のモニュメントを再現したものが、ことごとくグロテスクな様相に包まれるのはなぜか。
そこに、人類の滅亡を楽しむ「ともだち」の歪んだ内面が反映されていると見ることも可能だ。
しかし、もしかしたら、そもそも “人類の明るい未来” を謳った70年大阪万博そのものが異形であったということなのかもしれない。
70年万博に「人類の明るい未来」はあったのか?
1960年代に日本が抱えた高度成長期のひずみ … たとえば公害、格差社会の広がり、政治闘争の行き詰まりが生んだハイジャック事件などの新犯罪、幼児を狙った性犯罪の増加、いじめの増大、カルト的な宗教の広がりなどは、万博のような “お祭り” で癒えるものではなかった。
そのような60年代末期に吹き出した様々な社会問題から目を逸らし、国策として “偽りの繁栄” を謳歌しようとしたのが、70年代大阪万博のように私には思える。
当時、今は亡き国民的歌謡歌手の三波春夫が、「万博音頭」という民謡を歌って世に流行らせた。
この映画では、そのときの三波春夫をパロディ化した春波夫(古田新太)が万博PRソングを歌う(写真上)。
その光景がなんともグロテスクなのだ。
この気持ち悪さはどこから来るのか。
もちろん、それもまた、「ともだち」が企画したニセ万博のグロテスクさが表面化したものではあるのだが、私には、やはりオリジナルの70年万博そのものが内包していた “異様さ” を訴えているように感じ取れた。
あの歌には、「過剰な能天気さは思考停止をうながす」というメッセージが潜んでいるように、私には思えたのだ。
映画のなかで、主人公たちが幼少期を過ごした昭和45年当時の古い街並みがたくさん出てくる。
それは、登場人物たちの回想という形で出てくるものもあれば、「ともだち」が自らの幼少期を懐かしみ、現代にテーマパークとして蘇らせた街並みとしても登場する。
ノスタルジーというのは
本当は不気味なものなのだ
しかし、「ともだち」が蘇らせた “幻の昭和” の街は、やはりどこか不気味である。
映像的にはノスタルジックな意匠を保ちつつ、なぜか本質的な “懐かしさ” が欠けている。
そこには、映画『三丁目の夕日』のセットを見るような空々しさがある。
つまり、こういうことだ。
意図的に再現されたノスタルジーは、すべて本質的にウソの不気味さを引きずってしまうのだ。
この映画における映像的違和感はほかにもある。
「ともだち」が権力を把握し、“世界大統領” になったときの政権運営を行う議事堂の異形なデザイン。
まるでインドのヒンズー寺院か、イスラム教のモスクのように見える。
議事堂の周辺に配される無数のミナレット(尖塔)。
それは、国会議事堂が宗教施設になったことを暗示している。
しかし、それもまた現実の国会議事堂そのものが持っている宗教建築的な超越性をそのままなぞっているといえなくもない。
「国会議事堂」とは何か?
普段われわれがテレビ映像などで眺めている国会記事堂。
そのフォルムそのものが、実は “墓石” のスタイルであることに誰も気づかない。
このようにこの映画は、われわれが日頃気づかずに見逃しているもの多くが、実は不吉な暗号を秘めていたことを再発見させようとしている。
ただ、ストーリーの展開は荒唐無稽である。
というか、支離滅裂といってもいいかもしれない。
地球上の人類を滅ぼそうとする悪役である「ともだち」が、主人公たちの幼なじみの一人であるという設定そのものが強引すぎるのだ。
主人公たちの幼なじみの一人ならば、仲間の誰かが、すぐにその人物を特定できるはずである。
なのに、たった9人しかいない仲間の誰もが「ともだち」の正体を特定できない。
いくら人間の記憶があいまいなものであったとしても、そんなことは現実的にはあり得ない。
そもそも “ともだち” が、幼い頃に主人公たちから “ハブかれた” という個人的な恨みを「世界征服」という形ではらすという設定が飛躍しすぎていて、説得力がない。
しかし、ストーリー展開の破綻と世界観の構築は別問題である。
この作品は、支離滅裂なディテールを濁流のように呑み込みながら、全体像として、ものすごく強烈な世界観を提示したのだ。
それは、先ほどもいったとおり、どんな人間も黙らせるような「正義」こそ、実はもっとも邪悪なものであるというテーゼだ。
「ともだち」教団は成功したオウム真理教である
この映画では、「正義」というのは宗教であるということが明かされている。
つまり、「正義」は人間同士の合理的な判断によって定められるものではなく、神によって人類に一方的に押し付けられる “掟” なのだ。
そこには、1985年に起こったオウム真理教の地下鉄サリン事件に対する人々の記憶が重なっている。
オウム真理教の教祖麻原彰晃は、「ポア」という言葉を使い、殺人を教義のなかで「正義」の行動だと謳った。
オウム信者は誰一人、教祖が下した “神の掟” に逆らうことができなかった。
そう思って眺めてみると、映画のなかで “世界大統領” になった「ともだち」は、オウム真理教の “成功した” 姿を語っているようにも見える。
オウムの麻原彰晃は、信者たちの前で数々の奇跡を行った。
たとえば「空中遊泳」というような、写真合成によるインチキ映像ですら、信者たちには “奇跡” に見えた。
『20世紀少年』の「ともだち」も、信者の前で奇跡を披露する。
それが、世界中の信者たちの前で、暗殺されたはずの自分の死体を蘇らせることだった。
だが、暗殺された「ともだち」と、復活した「ともだち」が同一人物であるという保証はどこにもない。
なぜなら、仮面の下の素顔を誰一人見たことがないからだ。
仮面を付けた者は「人間」を超えた存在になる
ここに「仮面」という文化に対する作者の世界観が表出している。
すなわち、「仮面という文化を発明した人類には真実が把握できない」というテーゼだ。
人間は本質的に、仮面をかぶって身を隠す存在である。
太古の人類にとって、祭儀に使う仮面は「人間を超える」存在になることだった。
現代においても、自分を超えた別人になりたいとき、人々は仮面をかぶる。
サングラス、マスク、化粧などというのは、現代人が使うマイルドな仮面のバリエーションである。
人が限りなく人から遠ざかっていく状態を、この作品では「ともだち」の仮面を借りて訴えていく。
人から “遠ざかった” 人間は、神なのか、獣なのか、悪魔なのか。
それとも、そういう概念すら超越した非存在の何かなのか?
これが、「ともだち」という存在を借りて、作者が訴えたかった究極の問だ。
幼年時代の主人公たちは、後年「ともだち」として登場することになる少年に向かって、こういう。
「お前、その不気味な仮面とっちゃえよ」
そうなのだ。
仮面が不気味なのは、その裏側に「人間」が存在しているという事実を無化してしまうからだ。
仮面を眺めている人たちは、言葉に出さずとも、誰もが本質的な怖さをいだいてしまう。
それは、仮面の向こう側に、見たこともない顔が出現する恐怖ではなく、仮面の向こう側に、何もない空間が広がっていることに対する恐怖である。
『20世紀少年』という作品は、その本源的な恐怖感まで描き切れたからこそ、多くの人々に衝撃を与えることになった。