文芸批評
理屈では語れない文章
「短歌ブーム」という話も聞く。
特に、これまで短歌と縁がなさそうな若い人が、最近関心を持ち始めているとも。
新元号の「令和」という言葉が万葉集から採られたというニュースがこれほど脚光を浴びたのも、その底辺には現在の “短歌ブーム” が多少は反映しているという気もする。
で、そういう若者の短歌ブームを支えている人の一人に、穂村弘さんがいる。
私は昔からこの人の書いている文章が大好きで、ずっとフォローしていた。
今の私の生理にいちばん合っている文章を書く人だと思っている。
彼の文章の何に惹かれるのか。
有名な短歌がある。
「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?
ブーフーウーのウーじゃないかな」
(※ ブー、フー、ウーはオオカミと戦う3匹の子ブタの名前)
こういう短歌をつくる人である。
現在彼は、『ダ・ヴィンチ』誌の「短歌ください」という読者からの短歌募集コーナーで人気を集めているが、私はそのもっと前、『週刊文春』に連載している「私の読書日記」で、最初にこの人の文章に触れ、ファンになった。
「私の読書日記」というのは、書評のページである。
穂村さんのほかに、鹿島茂さん、立花隆さん、酒井順子さんなどそうそうたる執筆陣が持ち回りで担当するコーナーで、穂村弘さんの担当は月に1回ぐらいしか回ってこない。
でも、この穂村さんの採り上げる書籍がたまらなくいいのだ。
まず、目を付ける本が少し変わっている。
他の書評陣が、まじめに文学や社会学、哲学などの本を取り上げるのに対し、穂村弘が取り上げる本は、漫画、童話、写真集など多岐にわたっている。
だけど、みな独特の視点に貫かれていて、いつも読んでいてハッとする。
▼ 『きっとあの人は眠っているんだよ』 (河出書房新社 2017年発行)
「週刊文春」で現在も連載中の「私の読書日記」の一部を収録した穂村弘さんのエッセイ集。
彼のとらえている世界を紹介するためには、ある程度長い引用にならざるを得ない。
要約するのが難しいのだ。
理屈っぽい話ならすぐに要約できる。
理屈をこねるということは、物事を抽象化することだから、その内容はごく短い言葉に翻訳することができる。
しかし、穂村弘さんの読書日記は、書物の中の要約できない部分を見つめている。
つまり、人間が生きていくときに遭遇する出来事の中から、抽象化できないものを拾っているのだ。
この世の秩序をはみ出した人たちを見つめる視線
たとえば、平田俊子さんの『スバらしいバス』という本を紹介する文章はこんな感じだ。
―― 『スバらしいバス』(平田俊子 幻戯書房)を読む。
バス好きの著者がさまざまな路線のバスに乗りまくるエッセイ集である。
この本の「あとがき」には、小学校低学年の女の子たちのエピソードが記されている。
(以下は平田さんのオリジナル文)
「(小学生の)二人は並んで(バスに)腰掛けて仲良くおしゃべりをしていたが、いくらも乗らないうちに降車ボタンを押して降りていった。
窓から見ていると、二人はかたわらの歩道をバスの進行方向に走り出した。笑いながら、バスと競争するように。
この子たち、もしかして …… 。
ある予感がして二人を目で追いかけた。
環七は混んでいて、バスはのろのろ運転だ。女の子たちは歩道を走り続ける。
次のバス停でバスがとまると、思った通り、その子たちは息を切らして、また乗り込んできた」
著者の平田俊子さんの「あとがき」から、この小学生の女の子たちのエピソードを拾い出した穂村弘さんの感性は鋭いと思う。
まったく何の変哲もない、ほとんどの人が見逃してしまうようなエピソードなのだ。
しかし、この光景を目にした平田俊子さんが感じたものを穂村さんも理解し、著者の視点に共感している様子がびんびんと伝わってくる。
作者の平田俊子さんは、小学生の女の子たちを突拍子もない行動をとらせるバスという乗り物の不思議さを見抜き、評者の穂村さんはその女の子たちが “この世の秩序” の外に出たことを見逃していない。
穂村さんは、その女の子たち評して、
「二人の行動は健全でも合理的でもない。でも、純粋な遊びの塊のような “この子たち” は、はた迷惑な天使のように輝いている」
と語る。
健全でも合理的でもない。だからこそ面白い
同じ平田俊子さんの『スバらしいバス』という本から、穂村さんは次のような文章も拾っている。
―― 「なまぬるい風が吹く夏の夜だった。中野駅の近くで用事をすませたあと、家まで歩いて帰ろうとしていた。
夜の九時を少し過ぎていた。駅の北口を歩きながらバスターミナルをふと見ると『江古田の森』いきのバスが停まっていた。
江古田に森なんかあったっけ? フォンテンブローの森とかシャーウッドの森みたいなものが江古田にあるんだろうか」
こんな疑問に取り憑かれた「わたし(平田俊子)」は、このバスに吸い込まれるように乗ってしまう。夜九時過ぎに、女性が一人で、「江古田の森」という言葉に惹かれて。
その行為は健全でも合理的でもない。でも、だからこそ面白い。
そんな「わたし」の心理を “異次元への憧れ” といったら大袈裟だろうか。世界の裏側か隙間にふっと紛れてしまいたいというような感覚かもしれない。
その気分を味わうには、電車よりも車よりもバスがいい、というのはわかる気がする。
どこに連れて行かれるのかわからないバスに乗って、うねうねと道を曲がりながら、未知の風景を眺めるときめき、その間の「わたし」は、世界の健全性や合理性の網の目から解き放たれているのだ。
(以上引用終わり)
穂村弘さんという歌人は、日常生活のなかにふっと現われるエアポケットのような時間と空間を見つけ出すのがうまい人なのだ。
素面(しらふ)って不思議だ …
アル中と戦う漫画家の吾妻ひでお氏の作品に接したときの印象を、穂村さんはこう書く。
―― 「真夜中に近所のローソンで、珈琲と牛乳とタイカレーの缶詰と『失踪日記2アル中病棟』(吾妻ひでお)を買ってしまった。
吾妻ひでおの過去の作品を知っている読者なら、そりゃ面白いに決まっていると思うのだ。
この作品には電気ポットが突然話しかけてきて一晩中説教されるとか、衝撃的なエピソードがごろごろ出てくる。
でも、いちばん印象に残ったのは、ごく普通の町角の、奇妙に丁寧に描き込まれた景色だ。その中に立った主人公の口からこんな言葉が飛び出す。
『素面(しらふ)って不思議だ … 』
えっ、と思う。一般的な常識では『素面』の方が普通だろう。
でも、アルコールに慣れた脳には『素面』の世界が不思議に感じられるのか。丁寧に描かれた日常風景の中で、こう云われると、なんだかこちらの現実感までぐらぐらしてくる。
世界のリアリティのレベルが、実はまったく便宜的なものだってことが直観されるのだ。
(以上引用終わり)
自分のアル中の苦しみを笑いに変えて、読者を楽しませる吾妻ひでお氏の漫画から、特に「素面ってすごい」という言葉をつかみだしたのは、さすが歌人だと思わざるを得ない。
“ふつうの人” が見逃すような日常性の裏にひっそりとたたずむ世界。
つまり、穂村さんがいうところの「合理的でも健全でもない」世界へ視線が向かってしまうことは、もう歌人(詩人)の宿命なのだ。
世間では、たわいもなく「感動して、元気をもらい、号泣してしまう」人たちがメジャーだというのに、穂村さんはこっそりとそれに背を向ける。
「ふつう」との戦いは、「悪」との戦いよりも厳しい
松田青子作・ひろせべに画という『なんでそんなことするの?』(福音館書店)という童話に関する書評は、そのことについて触れている。
作品のなかで、主人公の男の子を取り巻く友だちたちは、次々とこんなことをいう。
「トキオくん、変だよ。そんなぬいぐるみを持っているなんておかしいよ。それは女の子のもんなんだよ」
「ぼくたち男なんだから、ぬいぐるみを持っているのはおかしいよ。ぼくのお父さんも言っていたよ。それはおかしいって」
「あとさ、そのきたないぬいぐるみにバイキンがついてたらどうするの? クラスみんながバイキンに感染しちゃうかもよ。セキニンとれるの? トキオくん。ぼく、トキオくんのことを思って言っているんだよ。これはユウジョウだよ」
童話のなかで繰り広げられる “トキオ君の友だち” たちのセリフを読んで、穂村弘さんは自分が言われているかのように苦しくなってくる。
そして、こう書く。
―― 「ふつう」との戦いは、「悪」との戦いよりもずっと厳しい。「ふつう」との戦いにおいては、いつの間にか、こちらが 「悪」にされてしまうからだ。特に一人で多数の「ふつう」と戦うのは恐ろしい。
「ふつう」でないことにを見つめたときの衝撃。そこから想像力を働かして、未知のものへと接近していくときの面白さを、穂村さんは上手に描く。
リアルな体験とは不条理に満ちたもの
『やっぱり月帰るわ、私、』(インベカオリ★ 赤々舎)という写真集への書評にそれを見ることができる。
(以下引用)
―― (この写真集には)やばそうなオーラをまとった女性たちの写真が沢山収められている。事故に遭いそうな、事件に巻き込まれそうな、何かしでかしそうな、彼女たち一人一人の佇まいに目が釘付けなる。
「高橋一紀に告ぐ
私は漫画家になりました。
電話に出ろ !! 」
こんな看板を高々と頭上に掲げてアスファルトの路面に立つノースリーブ&ハイヒールの女性がいた。
タイトルは『人の道』。
「告ぐ」と「出ろ !! 」の間に挟まれた「なりました」の丁寧語がたまらない感じだ。ちなみに看板は手書きではない。
うーん、と思う。
いったいどんな事情があるんだろう。高橋一紀という人が、おまえが漫画家になったら電話に出てやるよ、とでも約束したのだろうか。
何がなんだかわからない。
ただわかるのは、この女性の思いがとんでもなく濃いってことだ。
(以上引用終わり)
ここで大事なことは、穂村さんが「何がなんだかわからない」と言っていることだ。
これは、意味不明のものに遭遇して、思考停止になったことを意味しているのではない。
そうではなく、この言葉は、むしろ思考が活発に動き出していることを伝えている。
それを「好奇心」という言葉に置き換えてもいいのかもしれない。
穂村さんは、ここで “リアルなもの” に触れたのだ。
リアルなものに触れるとは、それまでの経験からは理解できないような “真実” をまのあたりにすることだ。
人間は、身の回りのものを何でも見ているように思い込んでいるが、実は自分の理解できるものしか見ていない。
理解できないものは、感覚器官としての目では捉えていても、脳がそれを把握していない。
穂村さんの “脳” は、「告ぐ」と「出ろ !! 」の間に横たわる 「なりました」という丁寧語の不条理を察知したのだ。
彼は、そこに「謎」を発見したといっていい。
つまりは、「謎」を見出したときに、穂村弘さんの感性はヴィヴィッドに働くらしい。
まさに、「謎」こそ詩の本質であるかのように。
ミステリーと詩は双子なんじゃないか
だから、彼は『オーブラウンの少女』(深緑野分 東京創元社)の書評欄で、こんなことを書く。
―― 優れたミステリーには、現実的な論理で説明できるとは思えないような謎が鮮やかに解かれる快感がある。
だが、本作の場合、それで終わりにはならない。
一つの謎が解かれることによって、世界とそこに存在する人間に関するさらに深い謎が生まれている。
我々が生きているのはこんなにもとんでもない場所だったのか、という驚き。
本を閉じた後も、底知れない生の深みにくらくらするような感覚が残る。
自分が惹かれるミステリーはどれも皆、同様の構造をもっていることに改めて気づかされた。
一つ目の謎が解かれても、二つ目の謎は永遠に残される。
このタイプの永遠の謎を秘めた作品が、私には「ミステリーの姿をした詩」のように思えるのだ。
ミステリーと詩とは双子なんじゃないか。
(以上引用終わり)
この穂村弘さんの文章を読んで、私は自分が日ごろから言いたかったことがプロの手によって、簡潔に、そして鮮やかに描き出されていると思った。
だから、この人の書評が読める『週刊文春』は、貴重な雑誌なのだ。
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