アートと文藝のCafe

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名言とは何か?

  
 巷でよく「名言」とされる言葉を拾ってみると、その多くは、「人生の成功者」になるための “修行を説く” ようなものが多い。

 たとえば、
 「自分と同レベルだと思っていた隣人が成功すると、人間というものは屈辱を感じるものだ。しかし、その隣人の幸せに素直に拍手を送れる人が次の成功者になれる」
 とかいった言葉だ。
 
 あるいは、
 「本当に強い人間は群れない。人は無力だから群れるのではない。群れるから無力になるのだ」
 とか。

 

 さらには、
 「ヒーローとは、多くの人を生き残らせるために、自分が犠牲になる覚悟を抱いた人間のことをいう」
  などなど ……

 

 この手の人生訓が、世間では “名言” といわれているようだが、私自身はこういう “気の利いた説教” にはほとんど興味がない。

 

 そうではなくて、ほんとうの名言というのは、その言葉の中には “結論” がないものをいうのではなかろうか。

 

 結論がない代わりに、思考をうながす。
 つまり、心に残る言葉というのは、そこで発言されたことの結論を、自分自身で探さなければならない言葉だと、私は思うのだ。

 

 たとえば、フランスの画家ポール・ゴーギャンは、その代表作たる絵に、
 「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」
 というタイトルをつけた(下の絵)。

 

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 この問いかけは、人間にとって、究極の「問」のような気がする。

 

 問われた人間にとって、こんなに無力感をもよおす問はほかにない。
 なぜなら、問そのものが、「正解などない!」ということを傲然(ごうぜん)と言い放っているからだ。

 

 しかし、この言葉には、物心のついた子供が夜空を見上げ、
 「宇宙の果てには何があるんだろう?」
 と考えるときの、あの心を震わせるような恍惚感と畏れが同時に秘められている。
 そこには、人間の思考の原点となるような重みがある。

 
  

 モーリス・ブランショというフランスの哲学者の言った一言も、終始頭を離れない。

 

 「書くこと、それは、語り終えることのありえないもの の残響になることである」

 

 難しすぎて、いまだに何を言っているのか解らないところがあるのだが、これも、私にとっては「名言」である。


 この言葉には、「表現」というものを考えるときの根源的なヒントが示唆されているように思う。

 

 人が、何かを書いて、それを言葉として残す。

 

 ブランショは、そういう行為こそ、
 「語り終えることのありえないもの」
 の残響(エコー)に過ぎない、というわけだ。

 

 では、
 「語り終えることのありえないもの」
 とは、いったい何なのだろう?

 

 「表現者」を自認するような人ならば経験的に分かると思うが、「書きたい」とひらめいた言葉が、そのままその人の文章になることはまずあり得ない。

 

 むしろ、当初のアイデアを文字として残そうとあせればあせるほど、ほんとうに書きたいものは虚空に漂う煙のように、逃げてしまう。

 

 モーリス・ブランショは、そのことを、
 「(書くことは)語り終えることのありえないものの無残な残響(エコー)でしかない」
 と言ったのだ。

 

 けっきょく、「美しさ」というのは、その 無残な残響のことをいうのではないか?
 語り尽せないからこそ、意識の底に美しい残像が残るのではないか?

 

 ポエム、俳句、短歌などの韻文形式の短い文学は、必ず語り得ないもの を内に秘めている。
 
 その “欠落している言葉” が、われわれにとって「美」として意識されるのだ。
  
  
 辰濃和男氏の書いた『文章のみがき方』という本の中にも、美しい言葉があった。

 

 福井県丸岡町(現坂井市)が募集した「日本一短い手紙」の中から選ばれた一文だ。

 文章というのは、いろいろなものを削ぎ落とし、最後にこれだけは伝えたいと厳選された言葉だけで綴られたものが人の胸を打つ、というその一例として掲げられたものである。
  

   「いのち」の終わりに三日下さい。
  母とひなかざり。貴男(あなた)と観覧車。
  子供達に茶碗蒸しを。

 

 たぶん、死期を悟った病気の女性が、すがるような思いで書き残した手紙だったのだろう。
 読んでいて、涙がこぼれそうになった。

 

 「ひなかざり」
 「観覧車」
 「茶碗蒸し」

 このたった三つの言葉が、千万語を費やすより雄弁に状況を語り尽している。
 傑作であると思う。
  
  
 川本三郎が書いた『言葉のなかに風景が立ち上がる』という本の中にも、忘れられない言葉がある。これは自分で読んだのではなく、週刊誌の書評欄で目にした文章だ。

 

 その本の中で、川本三郎は、清岡卓行という詩人の次のような詩の一節を引用しているという。

 

   それが美
   であると意識するまえの
   かすかな驚き
   が好きだ 

 

 すごくよく分かるのだ、この感じ。 

 

 風景を見たり、あるいは絵画を見たりして、「美しい」と感じる前には、必ずそれを「美」と捉える前の、わずかな心の動きが、さざなみのように広がる。

 

 実は、その小さな驚きの方が、「美」を感受する以上に、人間の根源的な心の動きをあらわしているのではなかろうか。

 

 上の詩は、まさに人間の “心” が動き出す瞬間を見事に捉えている。

 

 俳句、短歌、そして短いポエムなどは、そういう人間の繊細な感情の動きをとらえる適切な文学形式だからこそ、いまだに多くの愛好家の心をキャッチしているのだ。