秋から冬に変わるこの季節。
1年の中で、景色がいちばん贅沢になる。
公園を散歩していて、そう思った。
木々の葉が、絵具を盛ったパレットのように、にぎやかになる。
朱色に輝く紅葉。
黄色に燃えるイチョウ。
そして地面は、その落ち葉のジュウタンで彩られ、1年のうちでも、もっともゴージャスな大地に変わる。
あとほんの数週間経てば、冬枯れた風景に一変するというのに、初冬の自然は、豊穣な色彩の恵みを謳歌している。
だからこそ、寂しい。
空がいちばん鮮明に燃え上がる瞬間というのは、日没の直前であるということを、われわれは経験的に知っているからだ。
最も絢爛(けんらん)と輝く光景の中に、来たるべき「滅亡」の影を読む。
それは、強盛を誇った権力者の衰退や、絢爛たる輝きを持った文化の終焉などに「美」を感じる日本人的な感受性のなせるワザかもしれない。
日本が誇る古典文学の『平家物語』の冒頭には、
「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音」に「諸行無常の響き」を感じ、
「沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色」に「盛者必衰のことわり」を感じるという日本的感性が描かれている。
そこに、仏教に基づく “東洋的無常観” を見る声は多いが、しかし、それこそ、明確な「四季」を教えてくれる日本固有の思想であったかもしれない。
外国人観光客が、日本に長期滞在して、いちばん驚くのは、日本の四季の鮮やかな変わりようだという。
夏から秋に、秋から冬というように、時が「微妙な変化」をともなって過ぎていく情感を表現する言葉が英語文化圏にはない、という話を聞いたことがある。
この微妙な変化を、しいて日本語でいえば、「うつろひ = 移ろい」という言葉になる。
この「うつろい」という語感をもっとも象徴的に表すのは、障子に映る木の影だ。
障子は人間の視界を、あえてストレートな “自然” から遠ざける。
しかし、遠ざけた分だけ、逆に、見えないはずの「時間」が視覚化される。
つまり、時を経るごとに移動していく障子の影が、「時のうつろい」を教えてくれるのだ。
この「うつろい」を無理やり英訳した外国人は、何という言葉を当てたか。
a moment of movement
「時の流れ中の “瞬間” 」という意味になるのだろうか。
韻を踏んだ語感は美しいし、訳語の意味も「なるほど!」と思えなくはない。
でも、どこか違うような … 。
要するに、時間や季節が、ひとつのグラデーションを描くように変化していく様子を表現すると、やはり、日本語と英語では微妙な違いが生まれる。
「自然」を、あたかも「アート」や「文学」のように感じる日本人の感性が生まれたのは、この細やかな変化を見せながら移ろう日本独特の「四季」のせいであったかもしれない。