作曲家のエンニオ・モリコーネが亡くなった(2020年7月6日)。
追悼ニュースでは、『アンタッチャブル』、『ニューシネマ・パラダイス』などといった映画音楽の作曲家として紹介されていた。
しかし、私のようなシニア世代からみると、エンニオ・モリコーネ(写真下)といえば、マカロニ・ウエスタンのテーマ曲を作り続けた人というイメージが強い。
『荒野の用心棒』とか、『夕陽のガンマン』とかいったやつだ。
そんなわけで、久しぶりに、エンニオ・モリコーネが手掛けたマカロニ・ウエスタンのテーマ曲をYOU TUBEで拾い出して聞いてみた。
これがみな素晴らしい!
昔、ラジオでさんざん流れていた頃は、「単なるヒット曲」という程度の意識しかなかったのに、いま聞いてみるとすごく新鮮だ。
もちろん映画も面白かったが、音楽がこれほどカッコいいという認識は当時はなかった。
最初に、エンニオ・モリコーネの音楽を聞いたのは、もう50年以上も前になるだろうか。
その頃、BGM用のムードミュージックとして、『世界残酷物語』の「モア」とか、チャップリンの『ライムライト』のテーマ曲などが街のレストランでよく流れていた。
そういうメロンソーダみたいに甘い曲が流れるなかで、『荒野の用心棒』のテーマが流れてきたときは、魚を釣っていたときに、突然サメがかかったような気分になった。
▼ マカロニ・ウエスタンの大ヒット作品『夕陽のガンマン』。
エンニオ・モリコーネの美学が貫かれた代表作のひとつ。
youtu.be
いま思えば、彼のスコアは、それまでの西部劇の音楽を変えた。
当時流行り始めていたエレキギターを前面に押し出し、それに哀切感きわまる口笛の旋律を絡める。
エレキギターの異様なテンションと、さびしい口笛の確信犯的なミスマッチ。
それがまさに、マカロニ・ウエスタンによく登場する荒涼たる原野に吹き渡る「無慈悲な風」を連想させた。
その頃、マカロニ・ウエスタンを「西部劇」と言い切ることにためらいを持つ人々もいた。
「西部劇のシチュエーションを借りた、ただのアクション映画」
1960年代の中頃から70年代初期にかけて世界的ブームを巻き起こしたマカロニ・ウエスタンに対し、当時そういう批評も多かった。
しかし、個人的には、マカロニ・ウエスタンという映画ジャンルは衝撃だった。
それまでの「西部劇」の思想的な衣をはぎ取ったリアルな開拓時代の実像を視たような気になったからだ。
それは、まさに東映のヤクザ映画が、“ヤクザの思想” を美的に形式化した任侠路線から、粗暴なチンピラたちの暴力をリアルに描く『仁義なき戦い』シリーズに移行したときの感じに近かった。
マカロニ・ウエスタンでは、舞台背景も簡素化された。
ジョン・ウェイン主演の『アラモ』や、ゲーリー・クーパーとロバート・ランカスターが共演した『ヴェラクルス』みたいに、セットにもロケにもふんだんにお金を使った豪華絢爛なハリウッド映画とは違い、マカロニ・ウエスタンに登場するのは、同じメキシコ国境近く町や村を描いても、みな貧相。お金をかけないB級映画のチープ感が濃厚に漂う。
エキストラも少ないから、町はみなゴーストタウン状態。
そもそもロケ地には、スペインや昔のユーゴスラビアなどが選ばれていたというから、アメリカ的な “荒野” とはまた違った寂寥感があった。
人間の描き方も違う。
主人公も含め、登場人物たちには「正義」も「理想」もなく、ただ貪欲にカネを稼ぐため(もしくは女を手に入れるため)だけに生きている感じ。
その主人公たちのすさんだ精神と、荒涼とした町や村の様子がぴったりと重なりあって、それが、SF映画における「核戦争後の地球」のような不思議な終末感を漂わせていた。
だから、マカロニ・ウエスタンには、西部劇(時代劇)でありながら、むしろ近未来的な匂いがした。無慈悲なバイオレンスや裏切りが描かれても、それが過去にあったものではなく、むしろ、これから起こりそうなリアルさを持っていた。
マカロニ・ウエスタンのシリーズでも、やはり面白いのは、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(1964年)、『夕陽のガンマン』(1965年)、『続・夕陽のガンマン』(1966年)といった初期のものだ。
特徴をいえば、みなクリント・イーストウッドが主役を張った映画だ。
小学生時代にテレビで『ローハイド』を観ていた世代だから、そのドラマに準主役として登場していたクリント・イーストウッドに対する印象は強く残っている。
▼ 『ローハイド』 時代のイーストウッド
しかし、その後イーストウッドの活躍を日本で知ることがなかったので、「消えた役者」ぐらいにしか思っていなかった。
もちろん現在は、映画監督としてもかずかずの名声を獲得した人として揺るがない有名人だが、この頃のクリント・イーストウッドを見ると、まだサクセスストーリーの主人公になるという予兆はない。
だから、当時彼がイタリア製の西部劇に出たことを知って、「都落ち」とか「出稼ぎ」という言葉がすぐに浮かんだ。
実際、薄汚れたポンチョを身にまとって、とぼとぼと荒野をさまようイーストウッドの姿には、まさに「賞金稼ぎ」に身を落とした “食いつめ者” の雰囲気が漂っていた。
でも、そのやるせなさが、逆に不思議な存在感につながっていた。
『ローハイド』でにやけた二枚目を演じていた名残りはすでになく、食うためにイタリアまで流れていった男の悲壮さが、そのニヒルな立ち居振る舞いに横溢していた。
このクリント・イーストウッドにはしびれた。
生活のなかに「笑い」を感じる時間を失ってしまった男。
境遇の悲惨さに、内面まで侵食されてしまった男。
そんな男が漂わす、飢えた肉食獣のような飢餓感。
そういう生活が、もう骨の髄まで染み込んだことを自分で悟ってしまったことへの虚無感。
一言でいうと、「ハードボイルド」。
非情の美学。
描き方としては、主人公の内面描写をいっさい省き、ひたすらその行動のみを冷徹な “カメラの目” で描ききるというクールさに尽きる。
そのときの無表情な眼だけが、主人公の心を推測する唯一の手がかりとなる。
イーストウッドがそういう主人公を演じた瞬間に、「西部劇」は変わった。
クリント・イーストウッドがアメリカに帰った後も、マカロニ・ウエスタンはフランコ・ネロやジュリアーノ・ジェンマのようなイタリア人の人気スターを次々と輩出させた。特にジュリアーノ・ジェンマは、日本でも女性人気が高かった。
しかし、私が好きだったのは、そのような美男系の主役たちよりも、たいてい準主役のように登場するリー・ヴァン・クリーフのような役者だった。
あの猛禽類を想像させる鋭い眼で見つめられたら、相手が敵意を持っていないことが分かっても、自分などは膝の力が抜けてへなへなと崩れおちていくように思えた。
さらに好きだったのは、『荒野の用心棒』と『夕陽のガンマン』で、悪役として登場したジャン・マリア・ヴォロンテ。
彼の表情や演技には、人間としての常軌を逸した、一種 “神がかり的” な悪役を演じていて鬼気迫るものがあった。
どの映画か忘れたが、彼が、部下に火をつけさせたタバコ(一説によるとマリファナ)を吸うシーンがある。
普通、タバコを指にはさむ場合は、人差し指と中指を使う。
しかし彼は、タバコを中指と薬指ではさみ、口全体を手のひらで覆うように吸った。
それが、その男の常人とは異なる性癖を描いているようで、いたく印象に残った。
とにかく、主人公も悪役も、マカロニ・ウエスタンに出てくる人間はみな、どこか壊れていた。
で、またエンニオ・モリコーネの音楽が、そういう登場人物たちの心情を見事に表現していた。
いま聞くと、マカロニ・ウエスタンのテーマ曲は、みなひたすらチープで、通俗的。
しかし、頼れる者を周りに持たない荒野の住人たちの、ヒリヒリするような孤独感だけはしっかりと伝わってくる。
『荒野の用心棒』も、『夕陽のガンマン』も、「あの音楽があったから、あの映画が成立した」と思えるような名曲に恵まれたと思う。
特に『続・夕陽のガンマン』で使われた「黄金のエクスタシー(The Ecstasy Of Gold)」は、映画音楽を離れて、… つまり映像画面の助けを借りなくても観賞できる傑作であるように思う。
▼ 「黄金のエクスタシー」 ソプラノで歌うスザンナ・リガッチの声が特にいい
Ennio Morricone - the ecstasy of gold
▼ 『続・夕陽のガンマン』
マカロニ・ウエスタンのブームは、数年も続かなった。
一説によると、60年代中期から70年代初期にかけて、500本近い本数が撮られたともいうが、後半になると粗製濫造となり、人々が飽きるのも早かったという。
今では完全に過去の遺物である。
しかし、一度魅せられた人たちにとっては、永遠不滅のジャンルのようである。
その証拠に、マカロニ・ウエスタンを論じたネット情報は、みな驚くほど緻密で、しかもレベルが高い。それぞれが、さまざまな情報を取り込みながら、読ませるに足る独自の見解を披露している。
映画としては駄作も多いといわれているのに、これだけ秀逸なレビューを集める映画のジャンルがほかにあるだろうか。
そのことが意味するものは、まだ私にも十分に分からない。