「驟雨」という言葉がある。
「しゅうう」と読む。
にわか雨、それも糸のような淡い走り雨のことをいう。
この言葉を覚えたのは、吉行淳之介の短編『驟雨』を読んでからである。
小説のテーマは、娼婦とその客との間に繰り広げられる淡い恋愛ドラマだ。
たぶん、こういう作品が、現在評価される余地はあまりないように思える。
「娼婦」という商売自体が、性の倫理規定が厳しくなってきた今の世で容認される空気が薄くなってきているからだ。
ただ、私がこの小説に接した50年前、 中学生であった私は「娼婦」が何であるかなどと問題にする以前に、男女の哀しいラブストーリーとして読んだ。
▼ 作者_吉行淳之介
話は、こうである。
1950年代中頃、新宿の娼婦の町(赤線街)に通うようになった若い男が、ある日、その街で一人の娼婦に出会い、どこか惹かれるものを感じる。
▼溝口健二監督の映画『赤線地帯』(1956年 昭和31年)
しかし、娼婦というのは、数々の男を相手にする商売だから、一人の男が独占するわけにはいかない。
男は、むしろ、それをよしとする。
自分の気が向いたときだけ、その女のもとに通えばいいわけだから。
「結婚」 のような男女の濃密なつながりを避けて、女と距離を置いて生きようとする男の気持ちには、かえってそういう関係の方が都合がいい。
だが、その娼婦のもとに通い出すようになって、男の気持ちに変化が起きる。
「惚れてしまったのではないか?」
男はそう自分に問う。
その自問は、彼の気持ちを動揺させる。
彼女が、他の客たちに体を開くことに対して、知らず知らずのうちに嫉妬している自分がいるからだ。
「娼婦に惚れるなんてバカバカしい。相手にとって、自分は客の一人に過ぎない」
そう自分に言い聞かせる男の気持ちが、不安定に揺れ始める。
「女も、自分のことを特別な存在として意識していそうだ」と思える兆候が表れてくるからだ。
かといって、主人公は何かのアクションを起こすわけでもない。
宙ぶらりん状態になっている自意識を持て余したまま、無為な日々を過ごしていく。
▼溝口健二監督の映画『赤線地帯』(1956年 昭和31年)
そして、話はそっけなくストンと終わる。
終わり方はこうだ。
主人公は、いつものように、その娼婦に会うつもりで、娼家を訪ねる。
そして、彼女に先客がいることを知る。
時間をつぶすために、彼は近くの居酒屋で、蟹(かに)をサカナに酒を飲み始める。
酔った頭で、彼女の馴染み客同士が集まって、彼女の話を “サカナ” に酒を飲み合う情景を想像する。
それは楽しい想像から、徐々に不快な想像に変わっていく。
以下、引用。
「酔いは、彼の全身にまわっていた。
もぎられ、折られた蟹の脚が、皿のまわりに散らばっていた。
脚の肉をつつく力に手応えがないことに気づいたとき、彼は、杉箸が二つに折れかかっていることを知った」
それがラスト。
「折れかかった箸」が、不安定な立ち居地を保っている男の憂いを伝えて余りある。
読み進めてきて、最後にこの行にたどり着くと、この不思議なそっけなさが、とてつもない “余韻” として読者の心に降りかかるのだ。
読んだのは中学3年のときだった。
その時期、立て続けに吉行淳之介の小説を読んだ。
似たり寄ったりの話が多い。
気に入った娼婦のもとに通いながら、その女に惚れそうになる「心」を固く封印したまま、「これはただの遊戯だ」と陰鬱につぶやく男たちの話。
それが身につまされた。
もちろん、中学3年の自分は、娼婦なんて知らない。
それどころか、女そのものを知らない。
にもかかわらず、吉行淳之介の “娼婦もの” に登場する男たちに、言い知れぬ共感を覚えた。
当時、初恋の渦中にあったからだと思う。
受験を控えた自分に、「恋愛」など許されるわけがない。
しかも、羞恥心も強かったから、相手に気持ちを伝えることもできない。
だから、恋焦がれる女性のことを、必死に「ただのクラスメート」に過ぎないと思い込もうとする。
だが、その自制心は常に裏切られる。
勉強どころじゃない自分がいる。
そういう自分の焦燥が、吉行淳之介の描く「煮え切らない男たち」の気持ちと共振した。
▼ 若い頃の吉行淳之介
今の若い人たちがこれを読んだとしたら、どう感じるだろう。
たぶん、現実感のない話だと思うような気がする。
なにしろ、「娼婦」という存在が、今はない。
今でも売春組織はあるのだろうが、それは非合法のものとなる。
ところが、これが書かれた昭和20年代後半には、まだ政府も半ば公認していた売春街があったのだ。
そのような背景を知らないと、このような娼婦の街が、人々の日常生活の片隅にあっけらかんと存在していることの奇妙さを理解できない。
それでも、当時すでに「売春は犯罪であり、反社会的なものである」という認識は広がっており、吉行淳之介の小説は、「売春を奨励するものである」と批判され、リベラル文化人や教育者などによる攻撃の対象となっていたという。
でも、そういう小説に、中学生の自分は惹かれた。
そこには、思春期の男の子が期待するような扇情的なエロ描写がない代わりに、乾いた抽象画のような男女の交情が描かれていた。
そして、氷河の底に沈むような「冷たい官能」と、荒野の夕陽を眺めるような「荒涼とした憂い」があった。
そういうものを背伸びしながらも覗き見ることは、まだ半分も手に入れていない自分の「人生」を見通す手がかりとなった。
吉行淳之介の初期の短編には、「小説」というより、「詩」であると言い切った方がよいものがある。
『驟雨』は、一連の “娼婦もの” の中では、特にそのような傾向が強い。
その中の一節が、一度でも頭の片隅に寄生してしまうと、それは一生を支配する。
この小説で、印象に残ったのは、次のような個所だ。
主人公と娼婦の女が、朝のカフェの窓から外の景色を眺めるシーンが出て来る。
以下、引用。
「そのとき、彼の眼に、異様な光景が映ってきた。
道路の向う側に植えられている一本の贋アカシヤのすべての枝から、おびただしい葉が一斉に離れ落ちているのだ。
風は無く、梢の細い枝もすこしも揺れていない。葉の色はまだ緑をとどめている。
それなのに、はげしい落葉である。
それは、まるで緑色の驟雨であった。
ある期間かかって、少しずつ淋しくなってゆくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木となってしまおうとしている。
地面にはいちめんに緑の葉が散り敷いていた」
この小説のタイトルともなる “驟雨” がそこで登場する。
「葉が離れ落ちる」という描写が伝える寂寥(せきりょう)感。
「風もないのに落ちる」という言葉がつむぎ出す、神秘性。
「少しずつ淋しくなっていくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木になる」という観察から生まれる不条理感。
小説や評論のようなロジックの世界には還元できない、「詩」としての妙味がそこにあるように思った。
毎年、この季節になると、葉を黄色く染めた街路樹のイチョウが散り始める。
小説『驟雨』の中で散るのはニセアカシアの葉だが、私は、イチョウの葉が散り始めると、いつもこの小説を思い出す。
今年も、自分にとっての「驟雨の季節」がやってきた。