アートと文藝のCafe

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1978年に女の歌が変わった

エッセイ 
男から脱出した女たち

 
 昭和歌謡を振り返ってみると、女性シンガーの歌が途中からガラっと変わる時期がある。
 1970年代の後半あたりからだ。
 女たちが、自分の正直な気持ちを歌い始めたといっていい。
 
 たとえば、杏里の『オリビアを聴きながら』。
 尾崎亜美の作品で、杏里のデビューシングルともなった曲である。

  

▼ 『オリビアを聴きながら

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 曲調は優しい。
 メロディーもきれいだ。
 杏里の歌い方には、どことなくアンニュイの影が漂う。

 

 しかし、深夜のラジオからこの曲が流れてきたとき、激痛に近いショックを感じた。
 それは、男から見ると、ついに「異形の女」が現れたというくらいの衝撃だった。
 同時に新鮮だったし、興奮もした。
 
 静かな曲調とはうらはらに、残酷な歌でもあると感じた。
 自分の心から、ひとりの男を追い出す女の歌なのである。

  
 この歌に登場する “男” は、女の誕生日にはカトレアの花を贈ることを忘れない優しい男である。

 
 なのに、彼女は「優しい」と断言しない。
 「優しい人だったみたい」
 と過去形の、しかも推測の形を残した言い方で終わらせている。

 

 つまり、男の “優しさ” が、この時点で効力を失っていることが、「 だったみたい」という過去形の言葉になっていることから分かる。
 
 続く歌詞は、
 「♪ 夜更けの電話、あなたでしょう
 話すことなど何もない
 愛は消えたのよ、二度とかけてこないで
 
 おとなしい言葉だが、ここには断固相手を拒否する強靭な神経がむき出しになっている。
 
 「いつのまにか、女が化物のように強くなっている ! 」
 当時は、そう思った。

 

 いま聞くと、きわめて当たり前のことが歌われているに過ぎない。
 なのに、その時代にこの歌が新鮮に聞こえたのは、このようにはっきりと男を拒絶する歌が、それ以前にはなかったからだ。


女たちは「待つ女」をやめた
  
 それまで、演歌においては、ひたすら女は、男を待ち、騙され、傷つけられ、耐え忍ぶものとして描かれてきた。
 多くの男たちは、この演歌的な “待つ女” をそのまま女の実情としてとらえてきた。

  
 『オリビアを聴きながら』は、そういう世の男たちに、はじめて女の真実の声を届けたといってもかまわない。
 女が男を捨てるときは、いかにあっさりしたものか。
 そのことをズバリ歌にしたのが、この1978年の『オリビアを聴きながら』だったのだ。
 

「昔の男」には、もう出る幕がない

 

 同じ年、そのことを別の角度から歌い上げた曲が誕生している。
 桃井かおりが歌った『昔のことなんか』だ。
 作詞・作曲は荒木一郎
 彼は、この時代、突出した恋愛関係の洞察者だった。

 

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 歌詞は、こういう調子である。
 
      昔のことなんか聞かないことにしましょう。
    もう夜も更けてきたわ。
    昔の恋なんかママゴトみたいなものよ。
    もうあなたのことだけよ。
    昔の私は、何色だったのかしら。
    もう思い出せないのよ

 

 この曲は、ただ漫然と聞いていると、現在進行形の恋に夢中になっている幸せな女の歌にしか聞こえない。


 だから、男が聞いた場合、女から、“新しい恋人として選ばれた自分” に酔える心地よい歌に聞こえるはずだ。

 

 しかし、この歌には、もう一人の男が登場する。

 それは、昔、「ママゴトみたいな恋」だったと吐き捨てられる “過去の男” である。その男の方に感情移入すれば、男のリスナーはとたんにやりきれなくなるだろう。

   

 

ピンクレディの『UFO』は老練な男
の恋のテクニックを示唆した歌だ

 

 この時代、女たちが、同世代の男に見切りをつけて、恋愛のハイグレード化を図ったことが分かる、もう一つの歌がある。

 

 ピンク・レディーの『UFO』がそれだ。
 作詞を担当したのは阿久悠である。
 
 歌のなかの少女は、UFOに乗ってきた “宇宙人” と遭遇する。
 その宇宙人は、
 「見つめるだけ愛し合えるし、話もできる」。

 

 そして、自分が言葉に出さずとも、何を願っているのか、さりげなくキャッチして、
 「飲みたくなったらお酒」
 「眠たくなったらベッド」
 と、うぶな女の子を巧みにリードしていく。

 

 この “宇宙人” が、恋の手管を知り尽くした老獪な年上男性を意味していることは、いうまでもない。

 つまり、年上男の高級なくどきのテクニックに酔ってしまった少女は、
 「近頃すこし、地球の男に、飽きたところよ」
 と、同年代の若い男たちに物足りなさを感じてしまうのだ。

 

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 この歌がヒットしたのも、『オリビアを聴きながら』と同じ時代。
 1977年の12月。
 このとき、精神の未熟な若い男には、女の心をつなぎとめることができないという女性側のメッセージが明るみに出てしまったのだ。  

 

女の恋愛は常に「上書き」保存される

 

  「男は、過去の女たちとの恋愛を、別々のフォルダに保存して思い出すことができる。しかし、女の恋愛は、そのたびごとに、常に上書き保存される」
 という言葉がある。


 これは、歌手の一青窈(ひととよう)が、あるテレビ番組に出演したときの発言らしい。

 

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 それを聞いた精神分析学の斎藤環は、『関係する女 所有する男』(2009年講談社現代新書)で、次のように書く。


 「男は、恋愛関係の思い出を、別々の『フォルダ』にいつまでもとっておける。だからこそ、同時に複数の異性と交際できる。

 女性にとっては驚きかもしれないが、男は過去の恋人に対しても、実は小さめのフォルダをずっと残している。
 別れに際して、男の方がはるかに未練がましいのは、フォルダがなかなか捨てられないからである。

 いっぽう女は、現在の関係こそがすべてだ。
 女にとって性関係とは、まさにあらゆる感情の器にほかならず、それゆえ『一度に一人』が原則だ。新しい恋人ができるたびに、過去の男は消去(デリート)され、新たな関係が『上書き』される。

 夫婦の場合、男の浮気は元のサヤに戻ることが前提だが、女性の浮気は事実上、結婚生活の終わりにほかならない。
 複数の男性と同時につきあえる女性がいたとしたら、それは自暴自棄あるいは自傷行為のようなものかもしれない」

 

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演歌に歌われた「耐える女」
とは「母」のことだった 

 

 このように、1978年というのは、演歌で歌われた「待つ女/耐え忍ぶ女」が、ニューミュージックの「去る女」に変化した年だった。
 
 この「待つ女/耐え忍ぶ女」という存在を別の言葉に置き換えると、それは「母」である。

 
 つまり、男の存在を丸ごと肯定し、庇護し、男のわがままにも唇をかんでじっと耐えてくれる存在。

 
 そのような「母」を、女性全般に求めたのが、それまでの男性社会だった。
 それが、1978年まで続く。
 
 そこに至るまで、男たちは、女の母性に支えられることを前提に、「社会」という戦場に出撃できる と思い込んでいた。


 この時代(まさに高度成長期 ! )、世界に伍して日本の繁栄を勝ち取るために戦ってきた男たちというのは、実はマザコン的精神構造を抱えて生きてきたともいえる。

 


1970年代後半から
キャリアウーマンの比率が増える
 
 ところが、1970年代後期頃から、女たちは、男に対して「母」として振舞うことをやめる。


 この過程には、専業主婦よりキャリアウーマンの比率が増えていくという時代背景も関係している。

 つまり、経済的に自立できれば、男に頼る必要もないという風潮が女性の間に広まっていった時代が訪れたということなのだ。
 
 それまでの演歌で歌われた「待つ女」とは、「結婚を待つ女」だった。
 「結婚が女にとって最大の幸せ」という前提があったからこそ、「待つ女」が演歌の美学にも成り得た。

 

 逆に言えば、結婚できないような恋愛を強いられた女は、日陰に生きて「耐え忍ぶ女」にならざるを得なかった。

 


山口百恵も『プレイバック Part2』で
未熟な男を切り捨てる
 
 その構図が崩れ始めたのが、1978年だったのだ。
 この年、山口百恵は、『プレイバック Part2』(詞 阿木燿子)で、「バカにしないでよ」と未熟な男を怒鳴りつけ、「坊や、いったい何を教わってきたの?」とあざ笑う。
  

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 このような流れに、男たちはどう対応しようとしたのか。
 結局は、なすすべもなく、あっちの女に振られ、こっちの女に振られ、必死に昔の女を頼ろうとして、また振られ

 
  
 そんな女々しい男を見つめる女の気持ちを歌った歌が、1984年に小柳ルミ子がリリースした『今さらジロー』。
 ここでは、一度振った女のもとに再び現れ、ものの見事に拒絶される悲しい男が描かれている。

 
昔は昔、今は今 

 

▼『今さらジロー』

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 歌い出しが秀逸だ。
 「あれは確か、2年前の雨降る夜に、あたしの手を振り払って、出て行ったっけ」

   
 カギとなる歌詞は、最後の「 たっけ」 。
 この「 たっけ」で、ものの見事に、「いまさら」が表現されている。

 

 「あんた自分から出ていったんだよね。それを今になってノコノコと
 というニュアンスが、この「 たっけ」に集約されている。
 
 そして、未練たらしく戻ろうとする男に対して、女はつぶやく。
 「昔は昔、今は今」

  
 作詞・作曲は、シンガーソングライターの杉本真人。

 阿久悠荒木一郎もそうだが、こういう歌を男が作っているというのがミソ。
 たぶんこういう形で、男たちは、女たちの新しい主張に徐々に耳を傾け、それに対応するすべを身につけていったのかもしれない。