夕食を食いながら、テレビで「日本作詞家大賞」の選考会を兼ねた歌番組を観ていた。
大半が演歌である。
テロップに流れる歌詞だけ眺めていると、どれもたいしたことのない詞に思える。
ありきたりの言葉だけが連なる何のヒネリもない詞ばかり。
…… と思っていたが、曲が流れて、歌手がその詞をメロディーに乗せていくと、何かが変わってくる。
何がどう変わっていくのか?
最初はそのカラクリが分からなかったが、途中から、おぼろげながら視えてきたものがあった。
「作詞」というのは、単独で成立するものではなく、メロディ、アレンジ、歌手、さらに舞台といった「トータルな芸能装置」のなかで「生まれてくる」ものなのだ。
だから、作詞そのものにおいては、ドキッとするような鋭い言葉は必要ないのである。
むしろ平凡な、当たり障りのない言葉の方が良い。
その方が、メロディにも、アレンジにも、歌手にも、舞台にも違和感なく溶け込んでいく。
どこにでも転がっている平凡な詞だからこそ、どんな人間からも受け入れてもらえる “幅の広さ” が生まれる。
「♪ あなたに会えて、私は幸せ」
それでいいのである。
好きな人に出会うことができた人間は、その言葉だけで、今の自分の気持ちをストレートに表現した言葉に思えてくる。
むしろ、平凡な言葉が、「世界にたった一人しかいないあなた」という自分の気持ちを100%代弁してくれる言葉に変わる。
そういう技術を持っているのが、プロの作詞家だ。
プロのどこが凄いのかというと、まず、どこにでも転がっている平凡な言葉を、“意外な” 文脈で使ってくる。
「♪ 夢をかなえてくれる人よりも、夢を追っている人が好き」
実にうまい歌詞だと思う。
もし、これが逆で、
「♪ 夢を追っている人よりも、夢をかなえてくれる人が好き」
ということになれば、
“夢想ばかりしている無能な人よりも、着実な人生設計のできる人が好き” という意味になって、平凡な世界観しか生まれない。
しかし、「夢をかなえてくれる人」よりも、「夢を追っている人が好き」というひっくり返しによって、ドラマが生まれる。
どういうドラマか?
「愛が生まれる」ドラマなのだ。
愛というものは、相手の “負の部分” に賭けてみようという気持ちを呼び覚ます。
“負の部分” が見えたからこそ、恋する者は、相手を「助けてあげたい」という相手の心に寄り添う自分のスペースを見つけることができるのだ。
もう一つ気づいたことがある。
演歌の詞を考えるときは、まず聞いている人が、どんな場所でこの歌を聞いているのか、ということまで想像してあげることが大事だということだ。
たとえば、年末になっても仕事が忙しくて、家族のもとに帰れない人がいるとする。
そういう人が、雪の降る町外れの居酒屋で、一人でテレビの紅白歌合戦を聞きながら、手酌酒を飲んでいるとしよう。
そんなとき、
「もう一本、これは私からのサービスだから」
といって、ママさんがカウンターの端にポンと置いてくれるお銚子は、どんなに心が温まることか。
で、さっそく詞を作ってみた。
♪ もう一本、もう一本、これは私の気持ちなの。
だけど調子に乗らないで。ただのお銚子一本だから。
そんなぁ、私の気まぐれ酒に、付き合う貴方(あなた)はお人よし。
お勘定は、しめて8万5千円。
お金がないのなら、駅前に「アコム」があるからね。
ハァ、チョンチョン ♪
演歌はいいよね。
どんな演歌も、みな応援歌になる。
悲しいときには、とことん悲しい歌ほど、人の気持ちにピタッと寄り添ってくる。
演歌の歌詞を、「判で押したようなステレオタイプ」という人もいるけれど、普遍性というものは、案外そんな単純な形を取っているものなのだ。