映画批評
『七人の侍』
3月21日に、NHKのBSプレミアムで放映されていた黒澤明の『七人の侍』を、また観た。
「また」という言葉を使ったが、もう5~6回観ている。
それだけ観ていれば、ストーリー展開の細かい部分も覚えるし、登場人物たちのセリフもだいたい覚える。
しかし、観るたびに、まったく新しい作品に接したような感動が得られる。
こんな映画はほかにない。
おそらく、この先観るであろう映画も含めて、自分が一生かかって鑑賞した全映画のうちの最高傑作だと断言できる。
だからこそ、フランシス・コッポラも、ジョージ・ルーカスも、スティーヴン・スピルバーグも、自分たちの映画制作の基本をこの『七人の侍』に置いているのだ。
私も、この作品以外の黒澤明のちゃんばらモノはほとんど観てきた。
『用心棒』、『椿三十郎』、『影武者』、『乱』 …。
しかし、それらを全部足しても、この『七人の侍』にはかなわないのではなかろうか。
数々のリメイク版を生み出した傑作
制作されのは、1954年。
もう70年近い歳月が流れているにもかかわらず、まったく古さを感じさせない。
まずもって、それが不思議だ。
1980年代につくられた『影武者』や『乱』の方が、いま観ると古めかしい感じがするくらいだ。
『七人の侍』の概要を一言で記す。
時は戦国時代。
村の収穫期に必ず来襲する野武士の侵攻に怖れをなした村人たちが、村を自衛するために侍を七人雇って、野武士と対抗するという話だ。
ハリウッド西部劇の『荒野の七人』というリメイク版も出たから、ストーリー展開がどのようなものであるか知っている人も少なくないだろう。
▲▼ 野武士の頭領
しかし、やはり本家の迫力には、リメイク作品も及ばない。
いったい、この映画はどういう “奇跡” を起こしてしまったのだろう?
「人間」をリアルに捉えたすさまじい戦闘シーン
今回久しぶりに観て、その理由が少しだけ見えてきた。
これほど、“戦いのリアリティ” を真剣に追求した映画というのは、ほかに類例がないのだ。
もちろん、その「リアリティ」という言葉のなかには、殺陣の迫真性というものも含まれる。
突風の中を、土煙をあげて襲いかかる軍馬。
雨のぬかるみを這いずり回って繰り広げられる侍たちと野武士の死闘。
気象条件を上手に使った戦闘シーンは、この映画の白眉である。
しかし、それ以上に挙げておかなければならないものがある。
戦いに挑む人間たちの「光」と「影」を徹底的に暴き出すという、「人間」を描くときのリアリティが際立っているのだ。
たとえば、こんなシーン。
剣を振り回しながら馬を疾駆させて村に乱入する野武士に、百姓たちは最初は怖れをなして逃げまどう。
しかし、その野武士が落馬したと思いきや、一転して、彼らは狂気に駆られたように竹槍を振りかざし、惨殺の雄たけびを上げる。
そこに描かれた百姓たちの弱さと、ずるさと、強さと、醜さ。
… というか、「人間」そのものの弱さと、ずるさと、強さと、醜さを画面は正直に伝えてくる。
対照的に、野武士の悲惨さも描かれる。
村の広場で、落馬した野武士は、情けないほどうろたえ、逃げまどい、地面に身体を摺り寄せて、命乞いする。
もちろん、日頃痛めつけられている百姓たちには、そんな命乞いの悲鳴も耳に入らない。
剣や槍といった「武器」ではなく、スキ、クワ、カマという「農具」が、倒れた野武士の頭に振り落とされる。
観ているとやりきれなくなるくらい人間の醜い、弱い部分がそこには露呈している。
確かに、切られた腕が宙を飛ぶこともない。
槍が内臓を抉り出して、臓腑が飛び散ることもない。
最近のハリウッド映画の戦闘シーンでよく見られる、「視覚上の誇張」はここにはない。
しかし、この『七人の侍』で観客がつかまされるのは、まさに生理的な「痛み」や慟哭するほどの「悲しみ」、身が凍るような「恐怖」である。
腕を切られた痛さ、槍が突き刺さった苦しさが、観客に「痛覚」として伝わってくるのだ。
ハリウッド活劇の戦闘シーンが、どんなに残酷な映像を写そうが、どこか「スポーツ」のような軽やかさを伴っているのに対し、ここには、まぎれもなく「戦闘」がある。
だから、ひとつの戦闘シーンが終わるたびに、百姓たちと一緒に、観客もへたへたと地面に倒れ込むような疲労感に包まれてしまう。
そして、画面のなかにいる人間たちと一緒に、死者への哀悼や生き残れたことに対する安堵を共有する。
この映像には戦争体験が反映されている
たぶん、ここには制作者たちの戦争体験が反映されているはずだ。
太平洋戦争が終結したのが、1945年。
『七人の侍』が生まれたのは、その 9年後。
悲惨な戦争の足跡が、まだ街の至るところに残されていた時代である。
そのなかで、制作者たちの多くは、米軍の空襲で焼かれた民家や、沖縄の地上戦で、多くの民間人が殺傷されたときの生々しい記憶を持っている。
だから、この映画を印象づける “逃げまどう百姓たち” という映像には、そういう戦争体験が反映されていると見る方が自然だ。
それが、その後につくられた「戦争を知らないスタッフ」たちによってつくられた戦争映画とはいちばん異なる点である。
百姓たちにとって、あの戦闘は「祭」だったのか?
終わり方も秀逸。
野武士を殲滅して平和を取り戻した村では、太鼓と笛の音に合わせて、田植えが始まる。
村人たちのはしゃぎぶりを見つめる生き残った侍たち。
志村喬が演じる「勘兵衛」、木村功演じる「勝四郎」、加藤大介の「七郎次」の3人が、平和の戻った村の様子を眺めている。
3人の侍たちの表情に、明るさはない。
「また、負け戦だったな」
と、リーダー格だった勘兵衛(志村喬)がつぶやく。
「え?」
と、勘兵衛の部下であった七郎次(加藤大介)は、怪訝そうに勘兵衛の顔を覗き込む。
「勝ったのは俺たちではない。あの百姓たちだ」
有名なセリフだ。
勘兵衛のつぶやきに、田植えの作業を景気づける百姓たちの笛と太鼓と、歌声がかぶさる。
すでに百姓たちの心には、自分たちを守ってくれた侍に対する感謝の念もリスペクトもない。
生き残った3人の侍の心を領する徒労感と喪失感。
ここにはハリウッド映画的なカタルシスはない。
つまり宿題を渡された形で、観客は置き去りにされる。
この映画に描かれた戦闘って何だったのだろう。
戦争って何だろう。
その宿題の解を求めるために、きっとまた観てしまうだろう。