アートと文藝のCafe

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ホラー小説「眼鏡の少女」 


 夏も終わろうとするのに、地獄のような猛暑が続いています。
 それを乗り切るには、全身にサァーッと鳥肌が立つような「怪談」が効果的です。
 残暑厳しいこの季節。このブログでもときどき「怪談スペシャル」をお送りしたいと思います。
 
 
 
第一回 眼鏡の少女 
 
 「平野愛子です」
 と、電話口で名乗った女性は、
 「旧姓、吉沢愛子といえば、分かるかしら?」
 と言い直して、クスっと笑った。
 
 10年経っても、その声は忘れない。
 
 別れた女。
 正確にいうと、「去っていった女」だ。

 
 
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 「見てもらいたいものがあるの」
 
 夕刻、オフィスビルの中にあるカフェに座った愛子は、そう言ってバッグから1枚の写真を取り出した。

 運動会の一コマを押さえたものだろうか。
 赤い運動帽を被った小学生ぐらいの女の子が、土の上に引かれた石灰の白線の上を懸命に走ってる。
 
 「これが何か?」
 
 写真から目を上げて、私は愛子の顔を見つめた。
 目の周りには小ジワが目立ったが、10年経っても愛子は美しかった。
 
 この間、「未練はなかった」といえば嘘になる。
 一時は、社会で功なり名を遂げて、愛子を見返してやりたいと思わぬこともなかった。

  

 しかし、この年になっても、相変わらず愛子の旦那より偉くなるどころか、自分一人の食い扶持を確保するのもままならぬ安サラリーマン生活を維持するだけで精いっぱいだ。
 
 「あれはもう死んでしまった女だ」
 そう思い込むことで、いわば記憶の底に封印してしまった女。
 
 その愛子が、10年ぶりに目の前に座って差し出した写真。
 自分の娘が走っている子供の運動会を見せて、どうするつもりか。
 懐かしさのこもった甘い言葉を期待していた私は、正直、意表を突かれて、少し鼻白んでいた。
 
 「この写真を見せるために、わざわざ電話を?」
 愛子はそれには答えず、私を試すように、
 「2番目に走っている子はどんな子?」
 と言って、私の顔を覗き込んだ。
 
 「2番目?」
 もう一度、写真に目を落とす。
 
 赤い帽子を被った女の子のすぐ後を、白い帽子を被った眼鏡の女の子が追いかけている。

 その2人がコーナーを回って競り合っており、その後は3~4人がダンゴ状になっているために順位が明瞭ではない。たぶん愛子の言った「2番目の女の子」とは、その白い帽子の眼鏡の子を指すのだろう。
 
 「白い帽子を被った眼鏡の子が、2番目にいるけど 
 
 そう言いながら、愛子に視線を戻した私の目に、恐怖にひきつったような、愛子の見開かれた目が飛び込んできた。
 その異様な表情に圧倒され、理由の分からない不安が私の身体にも広がり、気づくと両腕に鳥肌が立っていた。
 
 「あなたには見えるのね?」
 愛子は念を押すように、私の顔を覗き込んだ。
 
 「見えるって?」
 思わず聞き返した。
 
 「眼鏡の女の子」
 
 とっさのことで、愛子の言っている意味が分からなかった。
 
 何かの謎掛けか。
 それとも、ひょっとしてゲームか。
 
 「何を言いたいのか、教えてくれてもいいだろう」
 私がそう言うと、愛子は真顔で答えてきた。
 
 「その眼鏡の女の子は、私以外の誰の目にも存在しなかったの。あなたが見つけるまでは。
 ねぇねぇ、ではこっちの写真を見てくれない」
 
 愛子がバッグから取り出したもう1枚の写真は、家族のピクニックの情景だった。
 芝生の斜面に敷かれた水玉のビニールシートに、3人の人物が腰を下ろしている。母親と子供たちという感じだ。真ん中にいるのは愛子だ。
 
 2~3年ほど前の写真か。目の前にいる愛子より頬がふっくらして幸せそうだ。

 

 その右側には、先ほど運動会で先頭を走っていた赤い帽子の女の子が陣取り、得意満面の笑顔を浮かべてピースサインを送っている。たぶんそれが愛子の娘なのだろう。
 
 そして、その隣りに、ちょっとはにかんだ笑いを浮かべている眼鏡をかけた女の子がいる。

 先ほど見た運動会の写真で、愛子の娘を追いかけていた少女だ。
 愛子の娘よりはシャイなのか、照れ笑いを浮かべている。

 しかし、そのはにかんだ笑顔から真面目そうな性格がしのばれて、愛子の娘よりも可愛い感じもする。
 
 どこにもありそうな、ピクニックを楽しむ親子と、その子の友だち。
 不自然なところが何もない、平和で、のどかで、平凡なスナップだ。
 
 「まさか、ここに写っている眼鏡の女の子も、ほかの人には見えないとか ?」
 私が言いかけた言葉を継ぐように、愛子が続けた。
 
 「そうなの。この写真は私と娘だけがいるところを撮ったものなの。そのとき周囲には誰もいなかったのよ。カメラを構えていたのは主人だから、いたずらのしようもないわ」
 
 「この女の子に心当たりは?」
 
 そう尋ねた私に対し、愛子は無言で、首を横に振っただけだった。
 
 「これはデジカメではなくフィルムカメラだろ?  ということは、素人ではそんなに簡単に画像をいじれないということだ。ネガと見比べてみた?」
  
 「みたわ。ネガにはこの眼鏡の子は写っていないの。
 しかし、プリントすると、私だけには見えるのよ、この子が。
 主人にも、娘にも、学校の友達にも、誰にもこの娘は見えていないの。
 何度プリントしても同じ。現像所を変えても同じ。私、自分で気が狂ったと思ったわ」
 
 「で、ついにこの女の子の姿が見える人間が、この世にもう一人現れたと
 しかしねぇ、俺には理解しがたいね。信じられないといった方がいい。
 だって、これは心霊写真なんてもんじゃない。細部まではっきりと見える。なにもかも。

 周りの人に、君をからかう理由がきっとあるんだよ。みんなで示し合わせて、こういう合成写真を作ったんだ。からかわれる理由を考えた方が早い」
 
 「私、知り合いの精神科の先生にも相談したことがあるの」
 「そうしたら?」
 「先生は写真を見て、『疲れていますね』と精神安定剤をくれただけ」
 
 そういう愛子の表情を見るかぎり、ふざけているようにも、冗談を言っているように見えなかった。
 
 私は、もう一度、実在しないという眼鏡を掛けた女の子を見た。
 
 確かに、何か妙だ。
 愛子の娘が、いかにも親の愛をたっぷり受けてすくすくと育った女の子に見えるのに対し、その隣りにいる眼鏡の子は、愛子の娘より一歩引いている感じがする。 
 
 王女にかしずく侍女。
 本妻の子に対する妾の子。  
 そういう “日陰者のはかなさ” がその子から漂ってくる。
 たぶん今どき珍しい黒ブチの眼鏡をしているせいかもしれない。
 
 しかし、その黒ブチ眼鏡には、愛子の娘を目立たせるために自分がブスの役を引き受けようという、その女の子の意志すら感じられる。

 

 だが、黒ブチ眼鏡の子は、端正な顔をしている。ひょっとしたら、愛子の娘よりもきれいかもしれない。
 なのに、なぜこの子は愛子の娘の方を立てて、自分は一歩下がろうとしているのか。
 
 その顔には、後悔と諦めが潜んでいるようにも見える。
 「来てはいけないところに来て、見てはならないものを見た」
 そういう意志を、その子の表情から読みとることができる。

 

  そのはにかんだような笑い顔の底に、幸せな家庭を外から見つめながら、自分ではそれを諦めざるをえない人間の哀しみが浮かんでいた。
 
 そのことを愛子に伝えると、愛子は思い詰めたように自分の膝に目を落とし、ため息をついた。
 そして、うめくように、言った。
 
 「この女の子は、きっとあなたの子よ。私が堕ろした 。だからあなたにも見えるのよ」 
 
 「まさか
 今度は私が絶句する番だった。
 
 
 愛子と別れて、一人で居酒屋に入った。
 バカバカしい話を、アルコールで流してしまいたかったからだ。
 しかし、酔えば酔うほど、「ありうる話かもしれない」という気もしてくる。
 愛子が最後に言った言葉が、頭のなかで鳴り響く。
 
 「この子は、今まで別の世界で独りぼっちで生きてきたのよ。自分の親たちを捜していたんだと思う。
 だけど、この子の暮らす世界では、この子の親は見つからなかったの。
 そして、こちらに来て、ようやく母親だけを見つけたんだと思う」
 
 だったら
 と、私は、手酌でお猪口に日本酒を注ぎながら、うめいた。
 その娘を、独りぼっちで闇の世界に送り出したのは誰だ!
 
 愛子は、私よりあの男を選ぶために、私の元を去っていった。
 そして、結婚の障害になるというので、こっそり私との間にできた子供を堕ろした。

 

 俺と愛子が一緒になっていれば、あの眼鏡の女の子は、この世を恨むことも、はかなむこともなく、すくすくと育っていたんだ。
 
 私は気づかないうちに、居酒屋のカウンターで涙をこぼしていた。
 そして、夜の街をさまよい、深夜になってから独り住まいのアパートに戻った。
 
 アパートには、窓ガラスから明かりが漏れてくる部屋は、ひとつもなかった。
 錆びた鉄骨に支えられたアパートの階段を登る。
 
 鍵穴にドアキーを差し込むと、部屋の中で音がした。
 
 廊下をこちらに向かって歩いてくる誰かの足音。
 かろやかな、女の子の足取りを思わせる音。
 
 私がドアのノブに手を掛けると、中から聞いたこともない、幼い女の声が漏れてきた。
 
 「お父さん、お帰りなさい」