TBSのドラマ『半沢直樹』は、今や社会現象化している。
その平均視聴率は25%。
この日曜日に放映された第8話は25.6%を記録した。
特に、ドラマ展開のカギを握る大和田常務(香川照之 54歳)のアドリブ。
「お・し・ま・い・DEATH!」
「死んでもやだね」
などという名セリフは、子供に宿題を迫る親たちに対し、「死んでもやだね」などという子供の反応を量産していると聞いた。
このドラマ。
何がそれほどウケるのか?
一言でいうと、“役者の力” である。
あれほど誇張されたセリフと “顔芸” のオンパレードは、並みの役者が演じると “ギャグ” としても通用しない。
しかし、このドラマでは、それが不自然にならず、むしろ他のドラマにはない緊張感を叩き出している。
特に香川照之が表現する “顔芸” は、もうただの “芸” を通り越して、「芸術」ですらある。
もちろんこのドラマの主人公は堺雅人の演じる「半沢直樹」だが、視聴者は心の奥底で、密かに香川照之の方を “主人公扱い” にしているのではなかろうか。
香川の “ゴジラ級” ド派手演技に引っ張られ、堺雅人の顔芸もどんどん “鬼化” してきた。
大音量で叫ぶ「半沢直樹」の顔アップが登場するたびに、
「このドラマは役者全員が妖怪化してきた」
と思わざるを得ない。
もちろんいい意味で言っている。
ドラマのテーマは銀行・金融業界の舞台とした現代ドラマであるが、その根底には、勧善懲悪を目指した時代劇、派手な大だちまわりの歌舞伎、あるいは犯人捜しのサスペンスといったすべてのエンターティメント要素がてんこ盛りになっている。
それを盛り立てているのが、香川照之、市川猿之助、片岡愛之助という、一癖も二癖もあるヒール軍団だ。
このような、個性の強い “憎まれ役” たちが “主役” になってきたというのは、どういう時代になったことを物語るのか?
陰翳の乏しい二枚目(イケメン)俳優の時代が終わろうとしているといっていい。
いわゆる、清潔感あふれる端正なイケメン。
10年ほど前は、こういう人たちが主役を張らなければドラマは成立しなかった。
たとえば、福山雅治。
あるいは、ディーン・フジオカ。
竹内涼真。
故・三浦春馬。
かつては、こういう人たちが画面に登場するだけで、周りの空気がさぁ~っと浄化されるような清潔感が生まれ、それがドラマのカタルシスを生み出していた。
しかし、そういう時代が終わろうとしている。
今は「清潔感」だけでは、ドラマが成立しない。
そうではなく、香川照之のような “あくどさ” 。
あるいは、片岡愛之助のような “ねちっこさ” 。
さらに、市川猿之助のような “いやらしさ” 。
そういうヒールの味わいが誇張されるような演技を視聴者が理解するようになったのだ。
「イケメン」という概念が定着して、すでに20年経つ。
20年前は、「イケメン」であれば、精神的成熟や知性などは問題にされなかった。
しかし、さすがに20年経つと、「イケメン」にも付加価値が必用となってきた。
20年前ならば、「ジャニーズ」という男性アイドル集団は、歌って踊れるだけで、価値があった。
だが、今のジャニーズはみな高学歴になり、クイズ番組で知識を披露したり、小説を書いたり、ニュース番組でMCを務めたりしなければならなくなった。
それは、男性アイドルを求める女性層が、イケメンにも付加価値を求めるようになったからである。
たぶん、今年の暮れにジャニーズの「嵐」が解散すると同時に、ジャニーズは2極分解するだろう。
キスマイ、キンプリ、セクシーゾーンといった従来のジャニーズ路線で活躍できる若手軍団と、役者としての存在感を確立した井ノ原快彦、岡田准一といったベテランが存在感を競い合うようになって、中間層が没落していく。
山Pや亀梨は徐々に活躍の場が少なくなり、“大御所感” が増してきたキムタクも危ない。
キムタクは、日産のCMで、「やっちゃえ日産!」などといって、ヤンキー路線に帰ろうとしたり、マクドナルドの “ちょいマック” シリーズでお茶目な個性を強調しているけれど、そこには47歳を迎えた彼自身の焦りと同時に、事務所の焦りが見てとれる。
繰り返すけれど、付加価値のないイケメンは、これからは、役者としても歌手としても食べていけない。
「カッコいい」という概念が変わったのだ。
人間の美醜だけが評価に対象となった時代は終わった。
それを『半沢直樹』は教えてくれる。
ヒール役として、いま脚光を浴びている役者たちは、歌舞伎畑の人で占められている。
それは何を意味するのか。
「日本の伝統芸」という “付加価値” をたっぷり備えた人たちなのだ。
言ってしまえば、そういう「伝統芸」の厚みが、そのまま彼らの「知性」、「教養」になっている。
そういうことを、『半沢直樹』は教えてくれる。