アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

見知らぬ女(人)

 

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▲ トレチャコフ美術館でもっとも人気のある「見知らぬ女」

  

  

 昔、上野の東京都立美術館で開かれた「トレチャコフ美術展」をカミさんと見にいったことがある。
 
 その日は雨の休日で、上野の森の新緑が雨に煙って濃い影をつくっていた。
 美術館に入る前から、すでに絵画の世界を歩いているような日だった。
 
 トレチャコフというのは、帝政ロシア時代の画商の名前で、当時の保守的なロシア画壇に反抗した若い画家グループを支援した人の名である。

 

 当時、そういう革命派の画家たちを「移動派」と呼んだらしい。

 

 なぜ、「移動派」という名前がついたかというと、革命派を自認する画家たちが、実際に自分たちの絵を抱えて町や村を回り、美術展などに行く習慣を持たなかった庶民に見せて回ったからだ。

 

 当時のロシア画壇というのは、ヨーロッパ志向の政府の方針により、イタリア古典絵画の手法をそのまま踏襲する絵が主流だった。
 しかし、そういう保守系の美術展では、帝政ロシアの貴族政治の下で苦しんでいる庶民の生活を描いた絵が採り上げられることはなかった。

 

▼「移動派」の絵画_イリヤ・レーピン 『ヴォルガの船引き』

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 それに不満を感じた若い画家たちは、ロシア画壇の主流派と決別し、ロシアの腐敗した貴族政治を風刺したり、農民や一般大衆の悲惨さをテーマにした絵を描き始めた。

 

 だから、彼らの描く絵画は、権力と癒着した僧侶階級の腐敗だったり、プロレタリアートの過酷な労働の状況を克明に写し取るといったメッセージ性の強いものになった。


▼ サヴィツキー 『線路の修繕工事』

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 正直にいうと、私は、そういう絵があまり好きではなかった。
 政治風刺や権力批判などというテーマを盛り込んだ絵画は二流の美術だという思い込みがあったからだ。
  
 しかし、実際にその手の作品に接してみると、自分が持っていた先入観とは少し違うかな という印象を持った。

 

 やはり、素朴なリアリズムの「豪速球」でこられると、歴史の一瞬に立ち会っているという素直な感動がわき起こってくるのだ。
 そういう絵画体験というものを、私はそれまで持ったことがなかった。 

 

イリヤ・レーピン 『無実の死刑囚を救う聖ニコラウス』

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 それともうひとつ面白いと思ったのは、ロシア人たちの風俗だった。
 人々の着るもの、街、村の景色。特に貴族階級の婦女子の衣服。
 ヨーロッパというよりアジアに近く、かといって中国でもモンゴルでもない独特の装束は見ていて飽きなかった。

 

▼ コンスタンチン・マコフスキー 『蜜酒の杯』 /「ココシュニックを被る少女」

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 ロシアデザインの特殊性は、建物にも反映されている。
 玉ねぎ型の屋根を持つクレムリン宮殿独特の建築様式もじっくり見るとなんとも奇妙だ。


 こういう文化様式はどうして生まれてきたのだろう? と、考えれば考えるほど興味が湧いてきた。

 

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 ロシア文化というのは、「カオス(混沌)」の文化である。

 

 西洋近代的な文化の底には、古代アジア的な土着性が潜んでいる。
 フランス的教養で染められた貴族文化は、一皮むくと、魔術や呪術ばかり。


 
 革命前の19世紀帝政ロシアは、ひょっとしたら人類史上まれにみる不思議な国家空間を形作っていたのかもしれない。
 
 そういう面白さに気づくと、ますますロシア絵画に惹かれていくものを感じる。 

 

 今回の美術展のなかでも、ひときわ異彩を放っていたのは、イワン・クラムスコイの「見知らぬ女(人)」であった。

 

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 馬車に乗る一人の貴婦人が、傲慢と思えるほどの眼差しで、路上にいる人間を見下ろしている。

 

 ロシアの庶民階級から見れば、憎むべき貴族階級のいやらしさを身に帯びた女性のように見えたかもしれない。

 

 しかし、これを描いたクラムスコイ自身が、貴族社会を嫌って「移動派」の指導者に身を投じたくらいの人だから、この絵も「貴族の傲慢さ」を批判的に描いたものではない。

 

 むしろ注目すべきは、一見 “傲慢” な女の瞳に宿された、どうしようもない憂いだ。
 
 彼女は何者なのか。
 モデルは誰なのか。
 なぜ悲しんでいるのか。

 

 作者のクラムスコイ自身が、この絵に関しては生涯沈黙を守ったため、すべて謎であるらしい。

 

 この「謎」が人々の好奇心を引き寄せるために、一度見たら忘れられない絵という意味で、「忘れられぬ女(人)」といわれることもある。

 

 不思議なのは、彼女の目だ。 

 

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 馬車の下にいる人々を見下ろしているようで、この目は何も見ていない。
 よく見てみると、焦点が定まっていないのだ。

 

 では、彼女の心は、何をとらえていたのだろうか?

 

 不意に訪れた「意識の空白」。
 すなわち、「虚無」をとらえていたのだ。

 

 もし彼女が貴族階級の娘であったのなら、自分たちの富と権力を保証してくれた世界が崩壊し、やがて自分たちが経験したこともない労働者の世界がやってくる前の、一瞬の意識の空白。

 

 つまり、帝政末期の世界から、次の革命期の世界へ移っていく一瞬の空白を、彼女の鋭い感受性は、とらえてしまったのだ。

 

 だから、彼女の目に映ったのは、「今はまだどちらにも属していない世界」、すなわち「虚無」だった。
 
 
 これと似たような心の状態を描いた絵が、もう一枚ある。
 
 同じクラムスコイが描いた「荒野のイエス・キリスト」である。

 

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 これは、イエスが悪魔の誘惑と嫌がらせに耐え、荒野を40日さまよったときの情景を描いた絵だ。

 

 岩の上に座るイエスは、悪魔の誘いをようやく退け、憔悴しきって、もう動くこともできない。
 その目は、生気を失い、ただの穴のようになってしまっている。

 

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 ここに描かれているのは、またしても「虚無」を見た人の目である。

 

 イエスの心に、何が起こっていたのか。

 

 自分が悪魔の誘いと戦っていても、まったく自分を助けようとしなかった「神」の存在を考えていたという気がする。

 

 イエスは「神の子」である。
 ならば、父である「神」は、ピンチに陥った子を助けるのが当たり前ではないか?
 岩の上に座るイエスは、そう考えた。

 

 だが、荒野を吹く風のなかに、父であるはずの神の声はない。

 

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 やがて、イエスは、神の存在を疑う前に、神そのものを無条件に信じることが「信仰」であることに気づく。

 

 「疑う」ことを捨て、「信じる」ためだけに祈る。
 信仰とは、そういうものではないのか?

 

 それが、イエスの “穴のような目” が見つめた「真実」だった。

 

 神の存在を、人間は見ることも知ることもできない。
 ただ、何かのときに「突然の啓示」として、神を感知することができる。

 

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 ロシアの大文豪ドフトエフスキー(写真上)は、
 「平行線はどこまでいっても交わらない」
 という一般的なユークリッド幾何学に対し、
 「平行線は無限延点で交わる」
 という非ユークリッド幾何学の公理に刺激を受け、その “無限延点” こそ、神の立つ場所だと確信したという。

 

 無限遠点とは、もちろん人間には知覚できないし、想像することもできない。
 ゆえに、それは「虚無」なのである。

 

 しかし、その「虚無」は、神の慈悲と恩寵に満たされた “光り輝く虚無” だ。

 

 革命前夜のロシアというのは、そのように、数学の最先端の知見と、荒唐無稽なメルヘンがひとつの坩堝(るつぼ)の中で溶け合うような、とんでもない創造的パワーが渦巻いていた世界だったのかもしれない。

 

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外は白い雪の夜

  

 こんな悲しい別れの歌って、ほかにあるのだろうか?
 『外は白い雪の夜』。

 

 この季節になると、必ず思い出す歌のひとつだ。

 

 作曲は吉田拓郎
 作詞は松本隆

 

 この歌が発表されたのは、1978年。
 私は20代半ばだった。
  
 しかし、当時、私はこの歌をリアルタイムで聞いていない。
 後年、YOU TUBEをさまよい歩いていて、偶然この歌を拾った。
 たぶん、2016年か2017年ぐらいの冬だったと思う。

 

 だから助かった。
 もし、1978年当時にこれを聞いていたら、きっと私は、聞きながら号泣していただろう。
 
 それほど、歌でうたわれた情景と、当時の私の心境はシンクロしていた。

 

 どういう歌なのか。

 

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 雪の降る夜、人気のないレストランで、男と女が最後の会話を交わす。
 男は、その晩、彼女に別れ話を切り出すつもりでいる。

 

 女は、すでにそれを予感し、取り乱さないように男の顔を見詰めたまま、笑顔で覚悟を決める。

 

 歌詞だけ追うと、男が女から去っていく歌だ。
 しかし、男だって、女に未練を感じながらも、あえて「別れ話」を切り出すことだってあるのだ。

 

 それは、「このままでは女が去っていくのではないか?」 と男が予感したときだ。
 男は、女を食い止める手段を使い果たしたとき、やむを得ず、自分から先に「別れよう」という言葉を口にする。

 

 その場合、「別れ話」を切り出した男の方が女々しいのだ。

  
 それに対し、この歌では、覚悟を決めた女の方が、むしろ凛としている。

 しかし、その「凛とした強さ」は、今にも崩れ落ちそうな危うさを秘めている。
 あと、5分耐えることができなければ、彼女はテーブルに身を投げ出して泣いてしまうだろう。

 

 しかし、姿勢を正したまま、それをこらえている女の健気(けなげ)さが、なんとも愛らしく、悲しい。

 

 そういう切ない別れを、美しい思い出に閉じ込めるには、やはり雪の夜がふさわしい。

 

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▼ 2002年のライブより

campingcarboy.hatenablog.com

  

作詞のコツ

  
 夕食を食いながら、テレビで「日本作詞家大賞」の選考会を兼ねた歌番組を観ていた。

 大半が演歌である。


 テロップに流れる歌詞だけ眺めていると、どれもたいしたことのない詞に思える。
 ありきたりの言葉だけが連なる何のヒネリもない詞ばかり。

 

 …… と思っていたが、曲が流れて、歌手がその詞をメロディーに乗せていくと、何かが変わってくる。

 

 何がどう変わっていくのか?

 

 最初はそのカラクリが分からなかったが、途中から、おぼろげながら視えてきたものがあった。

 

 「作詞」というのは、単独で成立するものではなく、メロディ、アレンジ、歌手、さらに舞台といった「トータルな芸能装置」のなかで「生まれてくる」ものなのだ。

 

 だから、作詞そのものにおいては、ドキッとするような鋭い言葉は必要ないのである。


 むしろ平凡な、当たり障りのない言葉の方が良い。

 その方が、メロディにも、アレンジにも、歌手にも、舞台にも違和感なく溶け込んでいく。

 どこにでも転がっている平凡な詞だからこそ、どんな人間からも受け入れてもらえる “幅の広さ” が生まれる。


 
 「♪ あなたに会えて、私は幸せ」

  それでいいのである。


 好きな人に出会うことができた人間は、その言葉だけで、今の自分の気持ちをストレートに表現した言葉に思えてくる。

  むしろ、平凡な言葉が、「世界にたった一人しかいないあなた」という自分の気持ちを100%代弁してくれる言葉に変わる。
 

 

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 そういう技術を持っているのが、プロの作詞家だ。

 
 プロのどこが凄いのかというと、まず、どこにでも転がっている平凡な言葉を、“意外な” 文脈で使ってくる。

 

 「♪  夢をかなえてくれる人よりも、夢を追っている人が好き」

 

 実にうまい歌詞だと思う。

 

 もし、これが逆で、
 「♪  夢を追っている人よりも、夢をかなえてくれる人が好き」
 ということになれば、
 “夢想ばかりしている無能な人よりも、着実な人生設計のできる人が好き” という意味になって、平凡な世界観しか生まれない。

 

 しかし、「夢をかなえてくれる人」よりも、「夢を追っている人が好き」というひっくり返しによって、ドラマが生まれる。
 
 どういうドラマか?
 「愛が生まれる」ドラマなのだ。

 
 愛というものは、相手の “負の部分” に賭けてみようという気持ちを呼び覚ます。
 “負の部分” が見えたからこそ、恋する者は、相手を「助けてあげたい」という相手の心に寄り添う自分のスペースを見つけることができるのだ。
  
  
 もう一つ気づいたことがある。

 

 演歌の詞を考えるときは、まず聞いている人が、どんな場所でこの歌を聞いているのか、ということまで想像してあげることが大事だということだ。

 

 たとえば、年末になっても仕事が忙しくて、家族のもとに帰れない人がいるとする。
 そういう人が、雪の降る町外れの居酒屋で、一人でテレビの紅白歌合戦を聞きながら、手酌酒を飲んでいるとしよう。


 

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 そんなとき、
 「もう一本、これは私からのサービスだから」
 といって、ママさんがカウンターの端にポンと置いてくれるお銚子は、どんなに心が温まることか。

 

 で、さっそく詞を作ってみた。

 

  もう一本、もう一本、これは私の気持ちなの。
 だけど調子に乗らないで。ただのお銚子一本だから。

 そんなぁ、私の気まぐれ酒に、付き合う貴方(あなた)はお人よし。
 お勘定は、しめて8万5千円。

 お金がないのなら、駅前に「アコム」があるからね。
 ハァ、チョンチョン ♪
   
  
 演歌はいいよね。
 どんな演歌も、みな応援歌になる。


 悲しいときには、とことん悲しい歌ほど、人の気持ちにピタッと寄り添ってくる。

 

 演歌の歌詞を、「判で押したようなステレオタイプ」という人もいるけれど、普遍性というものは、案外そんな単純な形を取っているものなのだ。 
   

 

吉行淳之介 『驟雨』

 
 「驟雨」という言葉がある。
 「しゅうう」と読む。
 にわか雨、それも糸のような淡い走り雨のことをいう。
 
 この言葉を覚えたのは、吉行淳之介の短編『驟雨』を読んでからである。

 

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 小説のテーマは、娼婦とその客との間に繰り広げられる淡い恋愛ドラマだ。

 

 たぶん、こういう作品が、現在評価される余地はあまりないように思える。
 「娼婦」という商売自体が、性の倫理規定が厳しくなってきた今の世で容認される空気が薄くなってきているからだ。

 

 ただ、私がこの小説に接した50年前、 中学生であった私は「娼婦」が何であるかなどと問題にする以前に、男女の哀しいラブストーリーとして読んだ。

 

▼ 作者_吉行淳之介

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 話は、こうである。
 1950年代中頃、新宿の娼婦の町(赤線街)に通うようになった若い男が、ある日、その街で一人の娼婦に出会い、どこか惹かれるものを感じる。

 

溝口健二監督の映画『赤線地帯』(1956年 昭和31年)

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 しかし、娼婦というのは、数々の男を相手にする商売だから、一人の男が独占するわけにはいかない。
 
 男は、むしろ、それをよしとする。
 自分の気が向いたときだけ、その女のもとに通えばいいわけだから。
 「結婚」 のような男女の濃密なつながりを避けて、女と距離を置いて生きようとする男の気持ちには、かえってそういう関係の方が都合がいい。

 
 
 だが、その娼婦のもとに通い出すようになって、男の気持ちに変化が起きる。
 「惚れてしまったのではないか?」
 男はそう自分に問う。

 

 その自問は、彼の気持ちを動揺させる。
 彼女が、他の客たちに体を開くことに対して、知らず知らずのうちに嫉妬している自分がいるからだ。
 
 「娼婦に惚れるなんてバカバカしい。相手にとって、自分は客の一人に過ぎない」
 そう自分に言い聞かせる男の気持ちが、不安定に揺れ始める。
 「女も、自分のことを特別な存在として意識していそうだ」と思える兆候が表れてくるからだ。
  
 かといって、主人公は何かのアクションを起こすわけでもない。
 宙ぶらりん状態になっている自意識を持て余したまま、無為な日々を過ごしていく。

 

溝口健二監督の映画『赤線地帯』(1956年 昭和31年)

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 そして、話はそっけなくストンと終わる。
 終わり方はこうだ。
 
 主人公は、いつものように、その娼婦に会うつもりで、娼家を訪ねる。
 そして、彼女に先客がいることを知る。
 時間をつぶすために、彼は近くの居酒屋で、蟹(かに)をサカナに酒を飲み始める。

 

 酔った頭で、彼女の馴染み客同士が集まって、彼女の話を “サカナ” に酒を飲み合う情景を想像する。
 それは楽しい想像から、徐々に不快な想像に変わっていく。

 以下、引用。
 
 「酔いは、彼の全身にまわっていた。
 もぎられ、折られた蟹の脚が、皿のまわりに散らばっていた。
 脚の肉をつつく力に手応えがないことに気づいたとき、彼は、杉箸が二つに折れかかっていることを知った」
 
 それがラスト。
 「折れかかった箸」が、不安定な立ち居地を保っている男の憂いを伝えて余りある。
 読み進めてきて、最後にこの行にたどり着くと、この不思議なそっけなさが、とてつもない “余韻” として読者の心に降りかかるのだ。
  
 読んだのは中学3年のときだった。
 その時期、立て続けに吉行淳之介の小説を読んだ。
 
 似たり寄ったりの話が多い。
 気に入った娼婦のもとに通いながら、その女に惚れそうになる「心」を固く封印したまま、「これはただの遊戯だ」と陰鬱につぶやく男たちの話。
 
 それが身につまされた。
 
 もちろん、中学3年の自分は、娼婦なんて知らない。
 それどころか、女そのものを知らない。
 にもかかわらず、吉行淳之介の “娼婦もの” に登場する男たちに、言い知れぬ共感を覚えた。
 
 当時、初恋の渦中にあったからだと思う。
 
 受験を控えた自分に、「恋愛」など許されるわけがない。
 しかも、羞恥心も強かったから、相手に気持ちを伝えることもできない。
 だから、恋焦がれる女性のことを、必死に「ただのクラスメート」に過ぎないと思い込もうとする。

 

 だが、その自制心は常に裏切られる。
 勉強どころじゃない自分がいる。
  
 そういう自分の焦燥が、吉行淳之介の描く「煮え切らない男たち」の気持ちと共振した。
 
▼ 若い頃の吉行淳之介

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 今の若い人たちがこれを読んだとしたら、どう感じるだろう。
 たぶん、現実感のない話だと思うような気がする。
 
 なにしろ、「娼婦」という存在が、今はない。
 今でも売春組織はあるのだろうが、それは非合法のものとなる。

 

 ところが、これが書かれた昭和20年代後半には、まだ政府も半ば公認していた売春街があったのだ。
 そのような背景を知らないと、このような娼婦の街が、人々の日常生活の片隅にあっけらかんと存在していることの奇妙さを理解できない。

 
 
 それでも、当時すでに「売春は犯罪であり、反社会的なものである」という認識は広がっており、吉行淳之介の小説は、「売春を奨励するものである」と批判され、リベラル文化人や教育者などによる攻撃の対象となっていたという。
  
 でも、そういう小説に、中学生の自分は惹かれた。
 
 そこには、思春期の男の子が期待するような扇情的なエロ描写がない代わりに、乾いた抽象画のような男女の交情が描かれていた。

 

 そして、氷河の底に沈むような「冷たい官能」と、荒野の夕陽を眺めるような「荒涼とした憂い」があった。
 
 そういうものを背伸びしながらも覗き見ることは、まだ半分も手に入れていない自分の「人生」を見通す手がかりとなった。 
  

 
 吉行淳之介の初期の短編には、「小説」というより、「詩」であると言い切った方がよいものがある。

 
 『驟雨』は、一連の “娼婦もの” の中では、特にそのような傾向が強い。
 その中の一節が、一度でも頭の片隅に寄生してしまうと、それは一生を支配する。 
 
 この小説で、印象に残ったのは、次のような個所だ。
 主人公と娼婦の女が、朝のカフェの窓から外の景色を眺めるシーンが出て来る。

 以下、引用。
 
 「そのとき、彼の眼に、異様な光景が映ってきた。
 道路の向う側に植えられている一本の贋アカシヤのすべての枝から、おびただしい葉が一斉に離れ落ちているのだ。

 

 風は無く、梢の細い枝もすこしも揺れていない。葉の色はまだ緑をとどめている。
 それなのに、はげしい落葉である。
 それは、まるで緑色の驟雨であった。

 

 ある期間かかって、少しずつ淋しくなってゆくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木となってしまおうとしている。
 地面にはいちめんに緑の葉が散り敷いていた」
  
 この小説のタイトルともなる “驟雨” がそこで登場する。
 
 「葉が離れ落ちる」という描写が伝える寂寥(せきりょう)感。
 「風もないのに落ちる」という言葉がつむぎ出す、神秘性。
 「少しずつ淋しくなっていくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木になる」という観察から生まれる不条理感。

 

 小説や評論のようなロジックの世界には還元できない、「詩」としての妙味がそこにあるように思った。
 

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 毎年、この季節になると、葉を黄色く染めた街路樹のイチョウが散り始める。
 小説『驟雨』の中で散るのはニセアカシアの葉だが、私は、イチョウの葉が散り始めると、いつもこの小説を思い出す。

 

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 今年も、自分にとっての「驟雨の季節」がやってきた。 
  

   

リベラルとは何か

 萱野稔人(かやの・としひと)著
リベラリズムの終わり その限界と未来』
(2019年11月20日 幻冬舎新書)の感想

 

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 惜しい本である。
 「狙い」はいいと思った。

 

 しかし、結論を急ぎ過ぎたのか、なんとも消化不良を起こしたまま
発行されてしまった本という気がする。

 

 最大の問題は、『リベラリズムの終わり その限界と未来』というタイトルを掲げながら、肝心の “リベラリズム” の定義をあいまいにしたまま議論が進んでしまったことだ。

 

 さらにいえば、「その限界と未来」という副題を持ちながら、(“限界” の方は多少説明されているけれど )“未来” の方にはほとんど言及がないことも中途半端だ。

 

 確かに、ここ数年、「リベラル派」もしくは「リベラルな運動」というものに対し、世界中で批判が起こっていた。
 そして、それに呼応した書籍も出回るようになり、ネット言論でも「反リベラル」を謳う主張が目立つようになってきた。

 

 萱野氏は、それらを見据えて、
 「今さらリベラルの定義は必要ないだろう」
 と、はしょっちゃったのかもしれない。

 

 そうだとしたら、ますますもって残念な本である。
 世の風潮が「反リベラル」に向かっていたとしても、萱野氏なら、その理由について、独特の社会分析を踏まえ、さらに、哲学と思想の領域から読者に納得のいく解説をしてくれるのではないかと期待したからである。

 

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 実は、私はこの萱野稔人(写真上)という哲学者をわりと高く評価していた。

 

 彼が世に広く知られるようになったのは、10年ほど前に放映されていたNHKの討論番組『ニッポンのジレンマ』で、切れ味の鋭い社会批評を提示してからである。

 

 その後、彼は、専門分野の哲学のみならず、経済、政治、歴史と幅広い学問領域を横断的に渡り歩き、数々の研究成果を残してきた。

 

 特に、経済学者の水野和夫氏との対談による『超マクロ展望 世界経済の真実』(2010年11月)という本では、資本主義の勃興からグローバル経済の先行きまで見通す視野の広い分析を行い、当時これを読んだ私はすごく興奮した記憶がある。

 

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 だから、当然この『リベラリズムの終わり』という本も期待して手に取った。

 

 しかし、残念なことに(冒頭に記したように)、この本では「リベラル」という概念をしっかり提示することもせず、いきなり、
 「ここのところ『リベラル』といわれる人たちへの風当たりがひじょうに強くなっている」(序章)
 と一気にたたみ込んでいく。

 

 そういう展開に持ち込むのなら、少なくとも、“リベラル” といわれる人たち って何? という読者の素朴な疑問に、まず最初に答えるべきではなかったろうか。

 

 現在マスコミで、「リベラルな人たち」といえば、それは「保守的な人たち」に対して、「革新を標榜する人たち」というイメージで語られることが多い。
 政党でいえば、「政権与党」の自民党に意見をいったり批判したりする野党の「立憲民主党」や「共産党」のことを指す。

 

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 また、テレビの『朝まで討論会』などでは、自民党的見解を述べる人たちに対し、激しく非難する学者や評論家のことをいう。

 

 基本的には、「反原発」、「反米軍基地」、「反戦」、「反憲法改正」などと “反” を最初に掲げて思想を語る人たちといってもいいのかもしれない。

 

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 しかし、そういう人たちを「リベラル派」とひとくくりにまとめてしまうのはどうなのだろう?

 

 そもそも「リベラル派」とは、何なのか?

 

 それは、かつて「左翼」と呼ばれていた人たちが、そのまま「リベラル」と呼ばれるグループにスライドしたものなのか?
 それとも、旧「左翼」とは異なる新しい思想をもった人々なのか。

 

 「リベラル」の直訳語が「自由」なら、その言葉をまっ先に掲げ、かつ「民主」という言葉と組み合わせた「自由民主党」などは “最大のリベラル党” ということにならないのか?
 
 どうもそこのところがよく分からない。

 

 そこを萱野氏に教えてほしいと思ったのだが、しかし、氏は、そういう概念区分を言及することを避け、一気に、「リベラルが嫌われる理由」の説明に移っていく。

 

 すなわち、リベラルな人々が嫌われるのは、
 「口ではリベラルなことを主張しながら、実際の行動はまったくリベラルではない人がたくさんいる」からだ、という。

 

 つまり、萱野氏の回りには、リベラル派を自認しながらも、「学生や大学職員、若手研究者に対してきわめて権力的にふるまう人も少なくない」とか。

 

 そして、次のように続ける。
 「欧米諸国でも日本でも、リベラル派の主張は現在、かつてほどの支持を集められなくなっている。
 それは、リベラル派の人間が、自分たちのご都合主義に無自覚なまま独善的に “正義” を掲げるという “にぶさ” に、多くの人がうんざりしているからである」

 

 こんなくだりも。
 「リベラル派の人間は、自分たちの主張に支持が集まりにくくなっている現状を、“人々の意識の低下” や “社会そのものの劣化” だと批判する。
 そして、批判者に対してしばしば “反知性主義” というレッテルを貼る。
 しかし、そのレッテルは、むしろリベラル派にこそふさわしい」(第一章 76ページ)

 

 さらに、彼は、上記のことを言葉を変えて繰り返す。

 

 「リベラル派は、自分たちの言動が批判されるようになったのは、人々が右傾化したからだ、という。
 しかし、本当にそうだろうか。
 そもそも “右傾化のせいだ” という主張そのものが、『リベラル派こそが正しく、それを批判する人間はおかしい』という前提に立った認識だ。
 そこに、彼らの “にぶさ” があらわれている」

 

 まぁ、こういうように「リベラル批判」がとめどなく噴出してくるので、「反リベラル」の立場を標榜する人たちからみると、溜飲が下がる思いだろう。

 

 しかし、こういうリベラル批判が効力を持つためには、前述したように、「リベラルとは何か」という概念定義がしっかり提示されていることが前提となる。
 
 そこをあいまいにしながら議論を進めていくところに、私は多少の違和感を抱いた。
  
  
 ただ、萱野氏の「リベラル派には最大の弱点がある」という指摘には耳を傾ける必要があると感じた。

 

 その弱点とは何か?

 

 「リベラル派の弱点は、“正義の実現” にはコストがかかる、ということを軽視しているところにある」
 と、氏はいう。

 

 具体的には、こういうことだ。

 「リベラル派はしばしば、弱者のために(たとえば)生活保護をもっと拡充すべきだ、と主張する。生活保護だけでなくすべての社会保障をもっと拡充すべきだ、とも主張する。
 しかし、『その予算を確保するために、私たちが負担する税金をもっと増やそう』とはなかなかいわない」

 

 つまり、リベラル派は、口を開けば「人権の擁護」だとか「生活弱者の救済」などと主張するが、そのような “正義の実現” にはとてつもないコストがかかることを無視している、というわけだ。

 

 そして、そういうリベラル派のコスト意識の欠如が、近年一般庶民から嫌われているという論法に、萱野氏はつなげていく。

 

 氏がいうには、
 「そのような “正義の実現” を可能にするのは、パイが拡大しているときだけである」
 
 「パイ」とは、人々の間で分配しうる社会的資源のことだ。
 すなわち、具体的には、税金を基本とする国の財源をいう。

 パイの拡大期なら、リベラル派の主張は問題なく支持される。
 日本でいえば、たとえば、1970年代半ば。

 

▼ 1960年代から始まった新幹線の整備は、70年代の日本の高度成長期を象徴する事業だった

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 萱野氏は書く。

 「1973年、当時の田中角栄総理は医療や年金などの社会保障を大きく拡充した。なぜそうした政策が可能だったかといえば、高度経済成長によってパイそのものが拡大していたからである。
 この時代は経済が大きく成長していただけでなく、生産年齢人口も増加し続けており、パイを拠出する国民一人ひとりの負担をほとんど増やすことなくパイの分配を手厚くすることができた」

 

 が、「今は違う」と萱野氏。

 

 「今の日本は少子高齢化が進み、70年代の高度成長期とはうってかわって、パイの縮小が大問題となっている」

 

 つまり、リベラル派が主張するような、抽象的な「正義の実現」などが夢物語に思えるほど、財源がひっ迫している。
 
 「リベラル派に対する風当たりが強くなってきたのは、理想論しか語らないリベラルな人々に対する庶民のリアリズムが反映されたものだ」
 というのが、萱野氏が一貫して主張するテーマの骨子なのだ。

 

 欧米においても、こういう “反リベラル” な運動が盛んになってきている、と氏は書く。
  
 「ヨーロッパ諸国においても、極右政党が支持を伸ばしているのは、『財源が厳しくなり、われわれの福祉すらままならないのに、なぜさらに外国人を受け入れるのか?』という国民の反発があるからだ」

 

▼ 「ネオナチ」のような極右団体の登場も移民・難民増加への危機感が背景になっている

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 リベラル派は、こういう「反移民運動」を、しばしば「右傾化」、「全体主義化」としてとらえるが、そのような庶民の “右傾化” と思われるものこそ、実は、パイが縮小することへの庶民の危機意識から生じていると、萱野氏はいう。

 

 確かに、この主張には一理ある。
 欧米のことはいざ知らず、日本における「パイの縮小」は、まさに「少子高齢化」の進み具合が予想外に早くなってきたことに由来するからだ。

 

 だが、そういうように、“鮮やかに” つまり図式的に問題を整理されても、どこか腑に落ちないものが残る。

 

 それは、けっきょく、「リベラルとは何なのか?」という根本問題が依然として残されているという不満に帰結していく。

 

 私の思いを正直に書けば、社会風潮や国の政策に不満を表明した人に対し、「リベラルだ!」と “負のレッテル” を貼る発想には、やはり「全体主義的な匂い」を感じて、窮屈な気分になる。

 

 テレビのある報道番組を見ていたら、アフリカや中東では食糧危機が生じ、餓死者も出ているというのに、世界の食糧供給量は十分に足りているはずだという。

 

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 では、なぜ食糧危機に見舞われる国や地域が出てしまうのか?

 

 そこには、もちろん気候変動や内戦などの問題が絡んでいる。
 しかし、いちばん大きな理由は、金融資本主義の発展により、食糧が投機の対象となったためだという。
 けっきょくは、グローバル企業や富裕層のマネーゲームに「食糧」が使わているからだとか。

 

 そういう話を聞いて、「そりゃおかしいだろ!」と声を出すことも、反リベラル勢力から見ると、“コスト意識の欠如” に映るのだろうか?

 

 そう見られてもかまわないから、その代わりに、食糧問題とグローバル資本主義に対するしっかりした解説を受けたいと思う。

 

 昔の萱野氏なら、そこまでキチッと説明してくれたはずなのに、この本では、そこをはしょってしまったという不満が残る。

 

 

今日から捜査一課

 

 テレビの刑事ドラマなどを観ていると、よく「捜査一課」という言葉が出てくる。
 警察官が主人公になるドラマでは、この「捜査一課」と名乗る刑事の方が、普通の刑事よりもカッコいい場合が多い。


 聞き込み調査をするときも、定期入れみたいなものをヒラヒラと振って見せて、「捜査一課です」とかいえば、ほとんどの人は口答えすることなく、素直に対応してくれるようだ。

 

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 そこで、私も70歳になったのを機に、自分の活躍の場を広げようと思い、そろそろ「捜査一課」を名乗ってもいいのではないかと思うようになった。

 

 「俺さぁ、今度捜査一課を始めるからな」
 と、この前刑事ドラマを観たあと、カミさんにそう言ってみた。

 

 すると、この手の会話には驚かなくなったカミさんは、読んでいる新聞から目を離すことなく、「それでいつから始めるの?」と、物憂そうな声で聞き返してきた。


 こういうのは間を置いてしまうと決意がにぶるので、即断即決が大事だと思い、「今日からだよ。もう今から俺は捜査一課なの」とはっきりと告げてやった。

 

 そのあと、台所で食器を洗いながら、考えた。


 捜査一課になったはいいのだが、まず何をやればいいのか、それが思い浮かばないのだ。


 そこで私は、皿を洗いながら、隣でそれを拭き取っているカミさんに聞いてみた。
 「いちおう捜査一課を始めたんだけど、まず、俺に何かやってもらいたいことがあれば、遠慮なく言っていいぞ」

 

 すると、この手の会話にあまり反応を示さなくなったカミさんだが、それでも皿を拭く手を休めることなく、うつろな表情のまま、こう聞き返してきた。


 「あなたが捜査一課なら、私は何課ぐらいなの?」
 意表を衝く質問に、私は、多少どぎまぎしながらも、


 「そうさなぁ 。旦那が捜査一課の場合は、妻は捜査二課ぐらいじゃないのかなぁ」
 「じゃ、犬は?」
 「捜査三課だろ」


 その場で、わが家の捜査一課から三課までの担当責任者が決まった。


▼ 待機中の捜査三課

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 さて、部署は決まったのだが、犯罪が起こらない。
 犯罪が起こらなければ、せっかくオープンした捜査三課までの部署が開店休業になってしまう。

 
 現在、家族で、誰がどのようにして犯罪を発見し、誰がその調査に踏み切るか、そういうことを相談しようと思っているのだが、さすがにもう「捜査一課」という言葉を出しても、カミさんも犬も反応しなくなった。

 

 

クリスマスと紅白の季節

 

 新型コロナウイルスが蔓延しているせいで、年末行事を自宅で迎える人が増えそうだという。
 仕事の都合で、今までは年末も家に帰れなかった人にとっては、いいチャンスなのかもしれない。

 

 私個人の思い出を語ると、昔から、この季節には楽しいイベントを経験したことが一度もなかった。
 サラリーマンをやっていたとき、年末年始は一気に仕事がきつくなる季節だったからだ。

 

 当時編集にしていた年間本の締め切りが春先だったので、巷でジングルベルが鳴っているイブの日も、会社に一人残って残業していたし、大晦日の除夜の鐘も、電車に揺られたまま聞いたこともあった。
 ま、そんなことはいいんだけど。
  
 
 ところで、日本人は、これまでクリスマス・イブをどう過ごしてきたのだろう。
  
 私がまだ幼かった頃、 1950年代の話だが クリスマス・イブというのは、母親と子供が家でひっそりと祝うものだった。

 

 親父は というと、だいたいどこの家庭の親父もそうだったけれど、 会社の同僚たちとキャバレーなどに繰り出し、夜更けまで大騒ぎすることが多かった。

 

 当時の風刺漫画などには、サラリーマンのオヤジたちがサンタの赤い帽子を被り、
 「ジンゴベー♪ ジンゴベー♪」
 と歌いながらダンスフロアで踊りまくっている様子がよく描かれていた。
 うちの親父も「接待麻雀」と称して、家に帰って来なかった。

 

 そのうち、
 「クリスマスぐらいは家に帰って家族サービスをしよう」
 という風潮が高まってきて、世のオヤジたちは、ケーキを買ってまっすぐ家に帰るようになった。 
 それが、1960年代に入ってからだと思う。 

 

 今はもう、クリスマス・イブに外で騒いでいるオヤジはいない。
 テレビCMなどを見ていても、イブの日は家族そろってケーキを食べるのが「幸せ」というイメージが浸透している。  

 

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 ところで、若い人たちが、クリスマス・イブを恋人と一緒に過ごす習慣を持つようになったのは、いったいいつ頃からなのだろう。
 
 私が、そういうことに気づいたのは、バブルの時代だった。
 当時、都心のホテルの夜景の見えるレストランは、そうとう前から若いカップルの予約で埋まり、男は給料の1~2ヶ月分の宝飾品を彼女のために奮発し、その夜はそのホテルで1泊したとか。

 

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 「今はそういう時代だ」
 と当時のマスコミに知らされて、イブの日も残業していた私は、「ウッソだろ !! 」と腹を立てた記憶がある。

 

 しかし、いろいろな話を後から聞いてみると、イブを恋人同士で祝うことになったカップルたちも、それ相当の努力があったという。

 

 男の方は、膨大な出費をせねばならないし、女の方も、そのお目当ての男をGet するために、いろいろな段取りを重ねる必要があった。

 

 なにしろこの時代のイケてる女子は、「ホンメイ君」のほかに「アッシー君」やら「ミツグ君」といった複数のボーイフレンドを確保しておくことが当たり前だった。

 

 アッシー君やミツグ君たちだって、自分こそが「ホンメイ君」だと信じ込んでいる。
 だから、クリスマス・イブの約束を取り付けるために、彼らの間で、メスのトナカイを奪い合うオスのトナカイ同士のような争奪戦が起こる。

 

 そういう煩わしいゴタゴタを処理し、イブの夜を「ホンメイ君」と過ごすためには、女性の方も緻密な対応が欠かせなかった。 

 

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 ちなみに、バブル期のクリスマス・イブに男が用意したデート費用は、プレゼントだけで最低10万円。
 ほか、ディナー代に宿泊代。
 トータル30万円でも足りないこともあったとか。 

 

 

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 そのデート予算が2007年には2万円台にまで下がり、2015年になると、8千円台に落ち着いたという話を聞いた。

 

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 『ユーミンの罪』(2013年11月発行)という本を書いた酒井順子さん(写真下)によると、「イブを恋人と過ごす」というブームが巻き起こった背景には、1980年に出されたユーミンの『SURF&SNOW』というアルバムの影響があったという。

 

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 その中にある『恋人がサンタクロース』という歌が、「恋愛」と「イブ」 を結びつけたというのだ。
  
 「サンタが隣のお洒落なおねえさんを、クリスマスに連れて行ってしまった」
 と聞かされる主人公の女の子は、自分もサンタに連れて行かれるような女になりたいと思う。

 

 “サンタ” が「恋人」の寓喩であり、“連れ出した” というのが、「結婚」を意味することはいうまでもない。

 

 『恋人がサンタクロース』の歌が若いカップルにとって大きな意味を持った頃というのは、ちょうど「紅白歌合戦」に若者が振り向きもしなくなった時期と一致している。

 

 それまでの「紅白」は、大晦日の夜に家族全員がコタツに入って楽しむ “家族行事” だった。

 残業と夜の居酒屋放浪で家を空けがちなお父さんも、その日だけは団欒に加わり、子どもたちも、久しぶりに家族全員が顔を合わせる年末の一夜を楽しむ。

 

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 そんな状況から、子どもたちが抜け出したのが、ちょうどユーミンのニューミュージックが流行る時代。

 

 2000年代になると、ようやく紅白にも顔を見せるようになったユーミン(写真下)だが、それまでユーミンといえば、「紅白」みたいな家族の “かったるいぬくもり” などにはそっぽを向いていた人という印象が強かった。

 

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 当時は、そういうアーティストの方がカッコよかったわけで、若者たちはどんどん「紅白」に背を向けていった。

 「紅白」の視聴率は、現在で30%の後半ぐらいらしいが、1963年の時点では、80%を超えていた。
 60年代というのは、「紅白」が家族をつなぐ求心力を秘めた時代だったのだ。
 

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 たぶん、それは「近代家族」の形成期と波長を合わせている。
 60年代から70年代に入って、地方から出てきた人々が、都心の近郊に家を構え、「夫婦に子供二人」という平均的な近代家族を形成するようになっていく。

 

 「紅白」は、そうして田舎を捨ててしまった家族たちの “バーチャルな故郷” の役目を負っていたのだ。

 

 その擬似故郷的な匂いをもたらす「紅白」の野暮ったさに、若いころのユーミンは背を向けた。


 それに共感した(当時の)若者たちは、大みそかに家を出て、「初詣」と称し、同年代のカレ氏やカノジョと連れ立って、都会を練り歩いた。

 そして、高層ビルのバーなどに入り、都会の夜景を眺め、その人工的な光の乱舞に酔った。

 

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 80年代に、大都会の光を、ユーミンほどうまく歌ったアーティストはいなかったかもしれない。
 しかし、そのあざとい美しさには、どこか生物的なグロテスクさも交じっていた。

 

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  当時思いついた短歌がある。

  「夜景がきれい」と女がいう
  しょせんオレたちは蛾(が)の仲間

  

 

リバプール時代のビートルズ

  

 年を取るということは、涙腺が緩みやすくなってきたということかもしれない。
 感情を制御する機能が衰えてきているせいか、突拍子もなく、そういう状態が襲ってくる。

 

 10年ぐらい前だったか。
 土曜の夜のことだった。


 大森屋の「しらすふりかけ」を手のひらにこぼして、それをツマミとしてべろべろ舐めながら、レント(※ 奄美黒糖焼酎)の水割りを飲みつつ、テレビを見ていたときだ。

 『地球街道』という番組で、女優の藤田朋子夫妻が、リバプールを訪れるというドキュメント映像が流れた。
 
 リバプール

 

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 ビートルズ(上)が、青春時代を過ごした町だ。
 
 ジョン・レノンの生家。
 ペニーレイン。
 ストロベリーフィールド。
 セントピーターズ教会。
 キャバーンクラブ(写真下)。
  などが次々と画面に登場する。

 

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 へぇ こんなとこだったのか
 と、画面を食い入るように見た。
 
 ビートルズは好きだったから、それらの固有名詞はみな知っていたけれど、具体的な映像を見るのは初めてだった。
 


 まず驚いたのは、ジョン・レノンの生家などが、まるで観光資源のように、しっかりと保存されていたことだ。
 ジョンの寝たベッド。弾いたギターなどが、そのままの状態(作為的だったけれど)で残されている。
 
 ああ 連中も、「古典」になったんだなぁ と思った。

 
 昔の音楽の教科書なんかに出てきた「ベートーベンの生家」、「ショパンの生家」みたいなものと同じ扱いだったからだ。
 


 で、セントピーターズ教会というのが出てきた。
 
 そこの体育館みたいなところで、ジョン・レノンがコンサートを開く段取りだったという。 

 

 … ということを、頭の禿げ上がったようなジジイが説明している。

 ジジイはいう。
 「そのとき、ジョンと知り合ったばかりのポール・マッカートニーが、この場所に寄ってきて、いきなりジョンのギターを取り上げ、それを弾き出したのです!」

 

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 「その、ポールがギターを弾いた場所がここです」
 と、頭の禿げ上がったジジイが、大げさな身振りで、教会の床の部分を指差し、興奮気味に叫ぶ。

 

 そのとき、ジョンは、ポールの音楽技量にびっくりして、すぐさま自分のバンド「クオーリィメン」(写真下)のメンバーにポールを誘ったのだという。

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 「まさに、この場所で、歴史が始まったのです! その場を、当時15歳だった私は、一部始終を見ていたのです」

 ジジイの目に涙が浮かんでいたようにも見えた。

 

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 ガーン、と自分の涙腺もゆるくなって、目頭に涙がにじんだ。
 
 体育館のような、ただの板敷の場所で、ジョンのギターをポールが弾いた。
 それがなかったら、ビートルズはこの世に存在しなかった。
 
 そう思ったら、テレビに映ったそのなんの変哲もない空間が、突然、まばゆいばかりの光に満ちた神聖な場所に見えてきた。

 
 
 人間の歴史は、偶然に左右される。
 
 俺が、ビートルズから与えられた愉楽、勇気、快感
 それを可能にしてくれた「偶然」の出会いを実現した場所。
 
 そのとき、それだけで、もう涙が出た。
 
 
 その後、ビートルズのデビュー前までドラマーを務めたピート・ベストが出演した。
 白髪頭の、ただの酒屋のオッサンみたいなオヤジ。

 

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 しかし、彼こそは、ビートルズがレコードデビューを果たす以前、ドイツのハンブルクなどで荒稼ぎをやっていた頃の主要メンバーだったのだ。
 
▼ 現役時代のピート・ベスト

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 ところが彼は、他のメンバーに比べて、音楽技量が劣っているというマネージャーの判断によって、ビートルズを解雇される。
 
 ビートルズのドラマーには、リンゴ・スター(写真下)が加わり、ピート・ベスト以外のメンバーはレコードデビューの後、世界進出を果たす。

 

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 「あのときは辛かったよ」
 と、今は一庶民となったピート・ベストが語る。
 

 
 だけど、彼は日本から来たインタビュアーの質問にも、終始穏かなニコニコ顔を浮かべている。
 本当に幸せそうだ。
 
 その幸せは、今の彼を支える大事な一言を、ジョン・レノンからもらったときに生まれたという。
 
 「ビートルズの最良の音は、レコードになっていない」
 
 超有名人になったジョンが、ある日ピートと再会したとき、そう語ったのだという。


 
 「ビートルズの一番素晴らしかった演奏は、俺たちが無名時代だったとき、お前がドラマーを務めていたハンブルグ時代のライブだ」

 

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 ジョンのその言葉が、ビートルズを解雇されて以来、ずっと失意のどん底にいたピートを救った。
 
 ジョンはお世辞を言ったわけではない。

 

 今、ようやくハンブルグ時代の音源の一部が、CDなどにも出回るようになった。
 音は稚拙で荒っぽい。


 でも、そこには後のビートルズには見られない、自分たちの可能性を信じる楽天的なふてぶてしさが生んだ、みずみずしい音があった。
  
 ビートルズのメンバーは、成熟と引き換えに、メンバー同士の軋轢も重なって、やがて、みずみずしさを失っていく。
 
 ピート・ベストは逆に、メンバーから外されたがゆえに、永遠の「みずみずしさ」を手に入れた。


 だから、テレビに映ったピート・ベストは、今もなお幸せそうな笑顔を浮かべることできるのだ。
 
 ビートルズよ、ピートよ、ありがとう。
 あんたたちのくれた音のおかげで、俺は幸せだったぜ。

 
 
 
MONEY (1962) by the Beatles with Pete Best
youtu.be

 

 

 

分断社会の心理学

 

 アメリカの大統領選にほぼ決着がつき、トランプ氏やバイデン氏の報道も、もう日本のニュースではほとんど流れなくなった。

 

 しかし、選挙の騒動から一ヶ月が過ぎ、ようやく見えてきたものがある。

 

 それは、アメリカ社会に広がった「分断」の予想外の深さだ。

 

 今回の選挙で獲得した得票数は、負けたトランプ氏が7,100万票。
 勝ったバイデン氏が7,500万票。
 その差は、400万票でしかなかった。

 

 さらにいえば、敗れたとはいえ、トランプ氏の得票は前回より800万票以上も上積みされているのである。

 

 これを見ると、この選挙には「勝ち負け」がなかったことが分かる。
 ルール上は「バイデン勝利」となるが、実質的には「引き分け」。
 すなわち、アメリカは、トランプ氏を支持する人たちと、バイデン氏を支持する人たちによって、真っ二つに分かれたという構図が浮かびあがった。

 

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 「21世紀に入り、アメリカ合衆国の大統領選挙が実施されるたびに、アメリカ国内の深い “分断” が浮き彫りになってきたが、この2020年の選挙ほど、世論が二分されたことはなかった」

 

 そう語るのは、同志社大学の藤井光教授である(朝日新聞12月2日夕刊)。

 

 藤井教授によると、
 「1990年代までは、アメリカの民主党支持者と共和党支持者の価値観はある程度重なりあっていた」
 という。

 

 ところが、2000年代に入ると、民主党支持者と共和党支持者が抱く価値観に少しずつ隔たりが生じるようになってきた。

 

 民主党には、都市圏や大学を中心とした支持者が集まるようになり、一方の共和党は、地方に広がる白人ブルーカラー層から支持される傾向が強まった。

 前者がリベラル。
 後者が保守。
 支持者別に表現すると、「都会のエリート層」と、「地方のワーキングプア層」。

 

 大統領選挙中は、このような分け方がアメリカの主要メディアでなされ、日本の報道もそれにならって、この図式を踏襲した。

 

 しかし、この図式は、「分断」の表層的な部分をなぞっただけではないのか?
 つまり、「分断」を招いた要因をさらに詳しく調べると、また違った見方が生れてくるのではないか?
 アメリカでは、選挙後そういう声が次第に強くなってきた。

 

 そういう問題提起を行った学者の一人ハーバード大学マイケル・サンデル教授は、次のようにいう。


 「今回の選挙で浮き彫りにされたのは、アメリカのエリート層の傲慢さだ」 
 (2020年12月2日の読売新聞)

 

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 つまり、トランプ氏が予想外の善戦を繰り広げた背景には、民主党を支持するエリート層に対し、一般のアメリカ庶民の反発が大きくなったという見方が成立する、とサンデル氏は語る。

 

 バイデン支持者とトランプ支持者の学歴を調査したところ、大卒以上の投票先は、バイデン候補が57%。トランプ候補は41%(AP通信)。
 つまり、バイデン支持者の方が高学歴であることが判明した。

 

 しかし、むしろそこに問題がある、とサンデル氏はいう。

 
 「この高学歴者たちの傲慢さが、今回の大統領選では非エリートたちの予想外の反感を呼んだ」
 つまり、その “反感票” がトランプ氏に流れたというわけだ。

 

 エリート層と非エリート層の分断。
 それは何もアメリカ社会に限ったことではない。
 むしろ、グローバリズムによって経済発展を遂げたすべての先進国に共通して見られる傾向といえる。

 

 思えば、2016年に起こったイギリスのEU離脱騒動も、同じ構造だった。
 当時、移民の流入によって自分たちの仕事を奪われることを危惧したイギリスの労働者階級は、移民の受け入れを積極的に進めるEUに反感を持つようになった。

 

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 それに対し、EUに留まる方がイギリスの経済的・社会的地位を保証するといって “離脱派” をけん制したのが、若者を中心としたエリート層だった。

 

 結果はエリート層の敗北に終わったが、そのときに語り継がれるようになったのは、
 「傲慢なエリート層と、それに耐える非エリート層」
 という “物語” だった。

 

 アメリカの非エリート層も、イギリスの非エリート層も、けっして無知で無教養な低学歴労働者ではない。
 両者とも、かつては「健全で、良心的で、豊かな中産階級」だったのである。
 それぞれが、国の中核を担う中流家庭の人たちだったのだ。

 

 そういう人たちが没落していったということは、何を意味するのか?
  
 グローバリズムによる格差社会が到来したということである。
   
 ものすごく乱暴にいえば、グローバル経済の進展によって、とてつもないお金を手にした超富裕層が世界中に出現してきたのだ。

 

 彼らは、一度手に入れた「富」を、子孫にも残すようになる。
 かつての貴族社会のような、金持ちの世襲制が誕生したといっていい。

 

 起業家の慎泰俊(シン・テジュン)氏は、そういう社会構造をもたらした現代社会のお金持ちの心理を、次のように語る。(朝日新聞 12月2日)

 

 「発達した資本主義社会では、経営トップや創業社長など『能力がある人』に富が極端に集中する。
 そのような富の大きさが、現代社会では、あたかも人格的な優越までも示唆するかのように設計されている」

 

 つまり、そこに「勝ち組」と「負け組」という意識格差が生まれ、それが現代社会の大きな「分断」を招く要因になっているというのだ。
 
 前述したハーバード大学マイケル・サンデル氏も、同様の見解を示す。
 すなわち、
 「資本主義社会で “勝ち組” となった人々が、メリトクラシー能力主義)の文化を持ち上げすぎてしまった結果、非エリート層との “分断” が生まれた」
 とも。


  
 人間の常として、「優秀」で、「能力」と「分別」を持つ人ほど傲慢になりやすい。
 そうなると、その傲慢さを嫌う人々もまた自分たちの主張を強めざるを得ない。

 

 その二つがいがみ合ったときは、どちらの陣営も、自分たちの戦意を鼓舞する「物語」が必要になってくる。

 

 アメリカ大統領選の場合、バイデンを擁立した民主党支持者の「物語」を列記するのは簡単だ。
 「人種差別反対」
 「人権の擁護」
 「経済格差の是正」
 「性的マイノリティーへの支持拡大」
 「地球温暖化政策への取り組み強化」

 

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 このような “理知的” な「物語」の提示は、知的エリート層がもっとも得意とするところだ。

 

 それに比べ、トランプ氏を支持した人々の「物語」は、こういう理知的な形をとらない。
 彼らの心理の底にはエリート層への反発があるから、そこから噴き出す「物語」はもっとパッショネート(情動的)だ。

 

 すなわち、
 「民主党の大物がこっそり甘い汁を吸っている “影の政権” を叩きつぶす!」
 というような、Qアノン的陰謀論に近くなる。

 

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 そういうトランプ支持者の陰謀論的な物語に理解を示すか。
 それとも、バイデン支持者を構成するエリートたちの傲慢さを容認するか。

 

 それによって、アメリカ大統領選を考える視点は、まったく異なってくる。

 
 近年、アメリカの民主党的なリベラリズムに対し、それに違和感を抱くような意見が日本にも出てくるようになった。

 

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 哲学者の萱野稔人(かやの・としひと 写真上)氏は、自著『リベラリズムの終わり その限界と未来』(2019年11月20日)において、
 「欧米諸国でも日本でも、リベラル派の主張は現在、かつてほどの支持を集められなくなっている」
 と指摘する。

 

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 「その理由は、リベラル派の人間が、自分たちのご都合主義に無自覚なまま『正義』を掲げる独善性に、多くの人がうんざりしてきたからである」
 という。

 

 このくだりは、前述したマイケル・サンデル氏の、「米国エリート層の傲慢さ」という指摘と呼応している。

 

 萱野氏とサンデル氏は、
 「リベラル派の人間は、自分たちの主張に支持が集まりにくくなっている現状を『人々の意識の低下』、『社会そのものの劣化』と批判するが、そういう批判こそ、自分たちの傲慢さを自覚していない証拠」
 と見るところが共通している。

 

 彼らの指摘は、アメリカの民主党にシンパシーを感じていた日本人にも、ある程度の反省をうながす契機になるような気がする。
 また、無条件に「反トランプ」を掲げてきた人にも、物事を冷静に考えるためのいい刺激となったはずだ。

  

 私などは、米大統領選の間、ずっと「反トランプ」的な視点でニュースを眺めていたから、トランプ支持者たちの心理分析を試みた(サンデル氏らの)指摘は勉強になった。

 

 ただ、最後に触れた萱野氏の “反リベラル論” に対しては、若干批判したいところがある。
 長くなるので、それは稿を改めて語りたいと思う。

  

 

現代の「不倫」が貧しいわけ

 

 「不倫」がこれほど社会的バッシングを受けるようになってきたのは、いったいいつ頃からだろう。

 

 最近のテレビ報道などを見ていると、不倫が発覚したタレント・芸能人に対する番組コメンテーターや視聴者の糾弾がどんどん激しさを増している。

 

 その理由を探ったあるネット情報によれば、スマホの普及を背景に、視聴者が、それまでの自分には手が届かなかったマスメディアに対し、自分の声を反映させるコツを覚えたからだという。

 

 視聴者の声を素直に反映し、ワイドショーのコメンテーターの口調も不倫した者への叱責をどんどん強めるようになった。

 

 こういう動きが顕著になってきたのは、2013年から2015~1016年頃。
 2013年の矢口真理、2016年のベッキー、2016年の宮崎謙介。 
 こういう人たちの不倫がマスコミでも批判的に取り上げられるようになったのは、いずれも、彼らに対するネットユーザーたちの誹謗中傷が激しくなっていった時期と重なっているそうだ。

 

 では、なぜネットユーザーたちは、この時期から、急激に「世の中のモラル」や「社会正義」を声高に主張するようになったのか。

 

 ある社会学者によると、国民のストレスがそれだけ増大するような社会が到来してきたからだという。

 

 要は、マスコミやネットによる不倫バッシングが横行すればするほど、不倫を批判する人たちは、自分がマジョリティーであるという安心感を得ることができる。
 逆にいえば、それほど現代人は、マイノリティーとして孤立していくことを恐れるようになったともいえる。

 

 確かに、そういう説明には一理ありそうに思う。

 

 しかし、私はこれを「文化」の問題としてとらえている。
 不倫を「文化」として考える思考回路が、今の人たちにはなくなってきたのだ。

 

 昔、ある俳優が、自分の不倫をマスコミから糾弾されたとき、「不倫は文化だ」と開き直って、発言がさらに炎上したという話があった。
 たぶんに誇張された談話だったらしいが、この発言には、ある部分「真実」が含まれている。

 

 実際、文学などでも、不倫をテーマにした小説には名作が多い。
 世界最古の “恋愛小説” といわれる『源氏物語』(11世紀)は、現代の基準に照らし合わせてみると、不倫文学である。

 

宝塚歌劇の『源氏物語

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 ヨーロッパで最初の恋愛文学といわれる『トリスタンとイゾルデ』(12世紀)も、はっきりした不倫小説だ。

 

 なぜ、洋の東西を問わず、恋愛小説は「不倫小説」の形をとって始まったのか?

 

 それは、そもそも恋愛自体が「不倫」から始まったからだ。
 つまり、昔の人は、人間の「恋愛感情」というものを、恋愛が許されない環境のなかではじめて知ったのである。

 

 中世に生まれた『トリスタンとイゾルデ』の話は、もっとも端的にそれを物語っている。
  
 若い騎士のトリスタンは、マルク王という隣国の叔父が結婚するときに、その花嫁となるイゾルデという王女を護衛しながら、王のもとに向かう。

 

 しかし、トリスタンとイゾルデは、本来ならマルク王とイゾルデが飲むことになっていた「惚れ薬」という媚薬を旅行中に間違って飲んでしまい、それがもとで、激しい恋に陥る。

 

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 婚約者であったマルク王は、そのことを知って激怒する。
 そのため、トリスタンとイゾルデは、マルク王の追跡を振り切り、逃亡を重ねる。

 

 長くは説明しないが、当然、こういう不倫の恋が悲劇を招かないわけはない。
 それがゆえに、この話は今もって哀しい恋愛小説の古典として読み継がれている。

 

 こういう不倫文学の系譜は、近世から近代のヨーロッパにおいても途絶えることなく名作を生み続けた。

 『危険な関係』(ラクロ)
 『赤と黒』(スタンダール
 『ボヴァリー夫人』(フロベール
 『アンナカレニーナ』(トルストイ)などは、単なる不倫小説というよりも、普遍的な恋愛文学として多くの読者に愛されている。

  

▼ 話を現代に置き換えて映画化された『危険な関係』(1960年)

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 日本文学でも、不倫を描いた小説は多い。
 多くの愛読者を抱えている村上春樹にも、不倫を真正面からテーマに据えた『国境の南、太陽の西』がある。

 

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 村上龍の方には、『テニスボーイの憂鬱』というラブロマンスがある。

 

 私は、この両村上の不倫小説を読み、ともに「大人の恋愛小説」だと思ったが、正直にいうと、どちらも今ひとつ物足りなかった。

 

 不倫を描きながら、どんな恋愛小説よりも、“倫理的な美学” を打ち出したのは、立原正秋(1926年~1980年)だ。

 

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 立原が作家としての存在感を発揮したのは1960年代後半から70年代にかけてである。
 彼の作品を、私は1970年代半ばにそうとう読んだ。
 25~26歳のときだった。
 
 彼の小説に出てくる男女には、どちらにも “凛とした” 風情があった。
 
 そこに描かれる男女は、不倫をしていても、まさに “死を賭した” とでもいえるほど苛烈なものだった。

 

立原正秋の原作『情炎』をもとにした映画

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 不倫の恋は成就を求めない。
 2人の関係が明日も続く保証はどこにもないからだ。
 だから、逢っていても、一瞬のきらめきの底には、常に闇が沈んでいる。
 
 逢瀬が終わり、別れるときは、二人とも「未練」を噛みしめるどころか、逢うのはこれを最後にしようという「断念」と戦わなければならない。

 

 立原の小説は、この「断念」の苛烈さによって、凄絶な美を生み出していた。

 

 

 もうひとり、すさまじい不倫小説を書く作家だと思った人に、森瑤子(1940年~1993年)がいる。

 

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 彼女の活躍がいちばん目立ったのは、日本がバブル景気に向かう直前(1970年代後半から80年代にかけて)だったので、バブリーでゴージャスな恋愛小説の書き手として人気を博した。

 

 特に、1982年に刊行された『情事』は、80年代の不倫小説の白眉だった。
 この小説に魅せられて、一時期、私はずいぶん彼女の小説を読みあさった。

 

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 アンニュイに満ちた大人の世界を華麗な文体で描き尽す彼女の小説は、日本の新しい都会小説の誕生を感じさせた。

 

 しかし、その文体の隙間に潜んでいたのは、バブリーな生活を重ねてもけっして心を満たしてくれない都会人の「寂寥感」だった。
 
 「華やかなことは哀しいことだ」という諦念を、もっとも華やかな文体で描き出す。
 それが彼女の真骨頂だったかもしれない。

  

  
 立原正秋も森瑤子も、今はあまり話題になることはない。
 しかし、彼らの不倫文学は、
 「不倫には格調を伴った不倫もある」
 ということを教えてくれる。

 

 成就することを断念する恋。
 その苦痛に、目を閉じて耐えるときに見えてくる「もののあわれ」。
 そこまで突き進んで、はじめて「文化」になるような不倫も生まれてくる。

 
 
 ひるがえって、昨今の芸能人が催す「不倫謝罪会見」を見る。
 すると、そこで吐き出される言葉の、あまりの貧しさに愕然とする。

 

 「申し訳ありませんでした」と、涙顔で訴える彼らの言葉の空疎な響き。

 誰に対して申し訳なかったのか。
 誰に自分の言葉を届けたかったのか。

 

 そういうことを事前にまったく考えていなかったことが “不倫男たち” の謝罪会見からは見えてくる。

 

 要は、彼らには覚悟がないのだ。
 一度不倫に踏み切ったからには、その後は山の庵(いおり)にでもこもり、周囲の四季を眺めながら人生をたたむぐらいの覚悟が必要なのに、彼らはあさましくも自分の仕事も家庭も手放そうとしない。

 

 そのような謝罪会見の場で、さらにうすら寒いのは、記者会見に臨んだ人間を、まるで火あぶりの刑に処するように、冷酷な質問を浴びせるレポーターたち。

 

 レポーターたちの口調にも、「自分は正義に加担しているから正しい」という驕りが見える。
 そういう寒々とした光景が、現代の「不倫」を貧しいものにしている。

   

 

エドワード・ホッパーの “晩秋”

  

 師走。
 この年最後の月が来てしまった。
 
 とはいえ、12月初頭は、まだ “晩秋” の気配が残っている。
 年の瀬が近づく頃より、逆に、今の方が「一年の終わり」という空気感が漂う。

 

 真冬になってしまえば、逆に、訪れる春に向かって、生命が待機状態に入っているという気分が強まってくる。
 大地は枯れ果てても、土の中で生命が胎動している気配を感じ取ることができる。
 
 しかし、晩秋は「終わっちゃったよ 」の感じ。
 暮れゆく空を眺めていると、パチンコの最後の玉が穴に消え行くのを目で追ってから、おもむろに席を立つときの、あの心境に近づいていく。
 

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 冬に近づくと、光が変る。

 どこか、この世でないところから射してくる光が感じられる。
 落ち葉の上を、ひたすら、細く、長く伸びていく影。
 地平線があれば、それを超えて、さらにその先まで伸びていきそうな初冬の影を見ていると、影が、この世界とは違う場所に行こうとしているような気がする。
 

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 照射角の低い晩秋の陽は、建物の真横を直撃し、そのために、ただの家の壁さえもメタリカルに輝き出す。
 
 エドワード・ホッパーの絵を見ていると、いつもその晩秋を感じる。
 この世でありながら、この世界を超越するような光景を作り出す不思議な光。

 

 ホッパーの絵に表れる光は、時に恐ろしく、時になつかしい。
 

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 幼い頃に見ていた風景は、大人になって接する風景よりも、はるかに美しく、鮮やかに輝いていたはずだ。

 

 しかし、それは同時に、世界を「言語」を通してみる習慣を持たなかった頃の、生々しい不安や恐怖にも彩られている。

 

 ホッパーの絵から漂ってくる怖さというのは、ちょうど迷子になった子供が感じるような怖さに近い。
 

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 彼の絵から立ち登ってくる言い知れぬ不安感は、幼い日の夕暮れに、買い物をしている親からふとはぐれてしまったときの不安感に似ていないだろうか。
 
 そういうときに見ている街の風景は、見慣れた街であっても、「この世の風景」ではない。
 時間が凍結し、物音も途絶え、「世界」が急に “うつろ” になっていく気配に満たされた風景だ。
 

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 大人になったわれわれは、「迷子」の怖さを忘れている。
 
 「迷子になる」というのは、単に親からはぐれてしまったことをいうのではない。
 自分が何者なのかも分からず、どこを目指そうとしているのかも分からないという、人間の根幹を揺るがすような不安と孤独に接する状態を「迷子」という。
 

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 ホッパーは、「迷子」の不安と孤独を描いた画家である。


 だから、彼の絵に接すると、「自分は今どこにいるのだろう?」と問わざるを得ないような、世界のまっただ中で孤立しているような哀しみがこみ上げてくる。
 しかし、そこには、とてつもない「なつかしさ」も潜んでいる。
 

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 「なつかしさ」と「不安感」は、両立する感情なのだろうか。
 ホッパーの絵では、それが見事に両立している。

 

 彼の絵に漂う「超越的な雰囲気」というのは、その二つが奇跡のように結合したところから生まれてくる。
 晩秋の不思議な光が生み出す魔術のように。 
  

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絵画記事
 
 

 

 

三島由紀夫 没後50年

 

 作家の三島由紀夫が、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた事件(1970年11月)から、今年で50年経つ。

 

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 それにちなんで、テレビも含め、いろいろなメディアで三島の生前の功績やあの事件の意味を問うような企画が続いた。

 

 昨日の夜、その一つであるEテレの『三島由紀夫 没後50年』という番組を見た。
 そこでは、三島が創設した元「盾の会」メンバーへのインタビュー、文芸評論家たちの分析などが行われていた。

 

 また別の番組では、生前の三島を知らない若者たちに、「三島という作家に対する印象」を尋ねたりもしていた。

 

 意外なことに、三島に対して強い関心を持っている若者が多いことを知った。
 作品を愛読している若者も多く、その文章に傾倒していると告白をした人もいた。

 

 今の若者にとって、三島由紀夫とはどういう存在なのだろう。
 私はそこに興味を持った。

 

 たぶん、今の若い人たちは、三島の作品(および行動)から、今の時代に欠けている「精神の強さ」みたいなものを感じたのだろうと思う。

 

 「死」を賭してまでも何かを訴える。
 そういう苛烈な生き方を、今の若者は経験したことがない。
 さらにいえば、彼らの両親や教師からも、そういう人生を歩んできた気配が感じられない。

 

 一見平和で、どんな自由も許されているような現代社会。
 しかし、そこには真の明るさはなく、理由の分からない閉塞感だけが漂っている。

 

 若者たちのそういう “いらだち” が、「死」を賭して決起した三島由紀夫という存在に対する関心を呼び寄せているような気がする。

 

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 1970年。45歳の三島が自ら命を絶ったとき、私はちょうど20歳だった。
 私も “時代の子” であったから、三島由紀夫という作家の著作は多少は読んでいた。

 

 デビュー作ともいえる『仮面の告白』、吉永小百合山口百恵などが出演した映画として評判を取った『潮騒』、金閣寺の放火犯を主人公にした『金閣寺』、2・26事件をテーマにした『憂国』といった話題作もフォローしていた。
 また、小説だけでなく、『私の遍歴時代』や『文化防衛論』のようなエッセイにも目を通していた。

   
 が、はっきり言って、「感動した」といえるほどのものが少ないのだ。
 『花ざかりの森』のような、彼が少年期から青年期に書いた小説にはものすごく愛着を感じたが、彼が大人になってから書いたもの大半は、私にはあまり面白いとは思えなかった。
   
 作家として大成してからの三島作品の印象を一言で語ってしまうと、その文章から「リアリティ」というものが感じられなかったのである。
 
 ところが、彼はこんなことをいったらしい。
 「私は、現実には絶対にありそうもない出来事をリアリスティックに書く」
 (『盗賊ノート』)
  
 この言葉を、どこか別の本で読んだとき、「不思議なことを言う人だな」と思った。
 私の印象はまったく逆で、現実によく起こりそうな出来事を、きわめて観念的に書く作家というイメージがあったからだ。
  
 “リアリスティック” に書かれたものが、リアリティを保証するとは限らない。

 三島由紀夫は、たとえば『金閣寺』において、金閣寺に放火する若い僧の内面を、彫刻を刻むがごとくに、精緻に巧妙に穿(うが)っていくが、そこで描かれる人間の内面世界は、「美への希求」とか「美への嫉妬」などという抽象化された観念に過ぎず、生身の人間の手触りがごっそりと抜け落ちているように思えた。

 

 このように、三島作品そのものからはさほどの感動は得られなかったが、しかし である。
 彼の作品をテーマにした批評家たちの書く “三島論” には、どれも大いに想像力をかき立てられた。

 

 いちばん最初に読んだのは磯田光一の『殉教の美学』(1964年)だった。
 これは、三島自身の書いたどの著作よりも数段面白くて、刺激的に思えた。

 

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 磯田氏の三島由紀夫論は、セルバンテスの書いた有名な『ドン・キホーテ』の紹介から始まる。
 
 『ドン・キホーテ』とは、こんな話だ。
 
 17世紀初頭、中世の騎士の時代が終わったにもかかわらず、騎士を気取るスペイン人ドン・キホーテは、従者のサンチョ・パンサと二人で「騎士道を生きる旅」に出る。
 キホーテは、ただの風車を伝説上のドラゴンと間違えて突進するような人で、いわば妄想に取り付かれた老人である。

 

 その狂人キホーテに、正気のサンチョ・パンサはうんざりしながらも従者として付き従う。

 

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 だから、この物語は、現実を錯誤して空騒ぎを続ける “狂人” と、現実を直視する “理性の人” の物語と読めないことはないという。

 

 そして、後世の評論家たちは、この物語の中に、滅び行く中世的ロマンの世界を生きるドン・キホーテと、勃興する近世の合理主義精神を生きるサンチョ・パンサという、時代が交代するときの「寓話」を読み込んだ。

 

 こういう『ドン・キホーテ』の通解に触れながら、磯田光一氏は、途中から一気にその話を三島由紀夫と結びつけたのだ。

 

 そして、
 「三島由紀夫という作家は、まさにドン・キホーテだ!」
 と言い放った。(まだあの事件が起こる前である)

 

 磯田氏は、『ドン・キホーテ』という作品の歴史的評価とはまったく逆に、
 「キホーテは、風車とドラゴンと間違えたのではなく、冷静に風車を風車として認識したうえで、あえて戦いを挑んだのだ」
 といってのけた。

 

 では、ドン・キホーテのイメージを着せられた三島由紀夫は、いったい何と戦ったのか?

 

 「三島は、戦後民主主義という人々の虚妄と戦った」
 磯田光一氏はいう。

 民主主義は、戦後の日本人が手に入れた最高の政治形態のように思われがちだが、その副産物として、倫理観を失った金儲け主義などを助長させ、日本人の心をむしばんでしまった。

 

 三島は、自分が狂人と思われることを覚悟のうえで、戦後の国民意識を頽廃させた「戦後体制」そのものに戦いを挑んだ。
 …… と、磯田氏はいう。

 

 当時、高度成長の経済発展を謳歌した日本人たちは、戦後社会がかろうじて保っていた「精神の緊張感」を失い、経済大国への道を歩み始めた日本の繁栄に酔いしれ始めた。

 

 それに危機感を持った三島が、
 「あえてドン・キホーテを演じることによって、堕落しそうな日本人たちに警鐘を鳴らした」
 と磯田光一は喝破した。

 

 そのとき三島が持ち出した「天皇」という概念は、戦後民主主義の虚妄を暴くための方便だった。


 すなわち、三島は、戦後民主主義が毛嫌いする「神としての天皇」をあえて持ち出すことによって、虚偽の「平和」に酔いしれる日本人たちに意識の覚醒を迫った。

 

 この磯田氏の指摘は、私にとってまさに青天の霹靂ともいうべき衝撃を与えた。
 そしてようやく私は、当時の三島の意志がおぼろげながら解かるようになった。

 それまで、私には、三島の実生活がとても奇怪なものに思えていた。

 

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 いきなりボディビルを始めて、筋骨隆々たる肉体を作ってみたり、鉢巻を巻いて日本刀を振りかざしてみたり、映画にチンピラやくざの役で出演してみたり、自衛隊体験入隊してみたり、今のディズニーランドにも似た大袈裟なフランス風邸宅を築いてみたり、天皇制護持者として左翼の東大全共闘と討論してみたり、疑似軍隊のような「楯の会」を結成してみたり、 やることなすこと奇怪なことばかりだった。

 

 しかし、この謎の行動が、磯田光一氏の “三島 = ドン・キホーテ論” である程度氷塊したのである。

  
 そこで、三島に関する論評をさらに読みたくなり、磯田氏の著作に続いて、野口武彦氏の『三島由紀夫の世界』(1968年)という評論を読んだ。
 これも磯田氏の『殉教の美学』に負けず劣らず面白い作品だった。

 

 野口氏は、三島をドイツ・ローマン派の文脈の中に位置づけ、三島のことを「典型的なロマン主義的人間」と定義して、その文学を分析した。

 

 氏にいわせると、「ロマン主義文学」というのは、アイロニー(逆説・矛盾)の力によって成立するという。

 

 つまり、「墜落」を前提とした「飛翔」を求めるのがロマン主義であり、「飛翔」による栄光の獲得は、結果として待ち受ける「墜落(挫折)」によって保証されるというのだ。

 

 野口氏は、そういう「挫折を迎える」ための高揚感や情熱こそが、ロマン主義の精神を支えるとしたうえで、三島の心情にそれを読みとった。

 

▼ 常に「ここではないどこか」をイメージさせるロマン派の絵画や文学
 (ドイツ絵画の巨匠 フリードリッヒの絵)

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 当時私は、磯田光一野口武彦の「三島論」が双璧だという思いを抱いていたが、その後も岸田秀野坂昭如橋本治という人々が、ことあるごとに三島論を書いていて、それも全部読破した。
 

 だが、三島由紀夫に関する論評をどれだけ読破しても、必ず最大の謎が残ってしまう。

 

 それは、1970年に、三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で決起(クーデター)をうながし、その後自らの腹を開いて自死してしまったことだ。

 

 けっきょく、50年後の今も、そのことは、三島を語る人々の最大の「謎」として語り継がれている。

 彼のこのときの行動は、何を目的としたものだったのか。
 それを完璧に言い当てた人は、いまだに一人もいない。

 

 いったい、三島は、何をしたかったのだろう?
 
 40年ほど経ってから、私なりに考えたことが一つある。
 それは、映画監督のヒッチコック(1899年~1980年)が、「謎」の本質を突き止めた、ある体験談がヒントになっている。

 

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 ヒッチコックがある日、列車に乗ると、外国人ふうの男たちが「マクガフィン」なるものについて話しているのを目にした。

 

 ヒッチコックは、男たちの会話に興味を抱き、ずっと耳を傾けるが、話を聞いているだけでは、「マクガフィン」が何のことだかさっぱり分からない。
 分からないので、よけい知りたくなり、聞き耳を立てながら、あれこれと推測するのだが、やはり分からない。
 
 そこで、ヒッチコックはふと思った。
 「そうか! 観客を映画に引き付けるためには、映画のなかに “マクガフィン” を一つ設ければいいのだ」
  
 つまり、登場人物たちにあれこれと「謎」の周辺を語らせるけれど、「謎」の正体そのものは語らせない。

 

 すると、映画の観客は、そのもどかしさに耐えられず、どんどんその「謎」の真相を知りたくて、作品を過剰に読み込んでいく。
 
 結局、「マクガフィン」そのものには何の「意味」がないのだが、その「中身」を欠いた空虚さが、ブラックホールのように観客の意識を吸い込んでいく。
 
 このエピソードは、大塚英志という評論家が書いた『物語論で読む村上春樹宮崎駿 - 構造しかない日本』(2009年)という本で紹介されたものである。
 
 この本に登場した “マクガフィン” の話は、それまで私のなかでくすぶっていた “三島由紀夫事件” の「謎」をあっさりと解いたように思えた。

 

 三島由紀夫も、ヒッチコックと同じように、「自分の人生」にマクガフィンを潜ませたのだ。

 

 三島は、優れた洞察力を持つ人であったから、自分が書いた小説が「永遠の古典」として残ることに疑問を抱いた可能性がある。

 

 若い頃から東西の古典文学になじんだ三島は、自分の作品がそれらの古典のように、後世に評価されることに懐疑的であったかもしれない。

 

 ならば、どのようにして、自分の存在を “永遠” にすることができるか?

 

 それには、自分自身が「謎」になることだ。
 人間の生命は、命が尽きたときにすべて終わるが、「解けない謎」は永遠に死なない。

 

 そこで三島は、普通の人が「謎」に思えるような自死を遂げることによって、
 「彼の書いた作品には、きっと読者が理解できないような深い意味が潜んでいるに違いない」
 と読者に思わせる仕掛けを施した。

 

 そうだとしたら、素直に頭が下がる思いもする。
 これ以上の「マクガフィン」を設定することは、もう誰にもできないだろう。

 

 三島由紀夫は最初から “マクガフィンの人” であり、磯田光一氏も野口武彦氏も、みなそのマクガフィンの魅力に引っかかったのだ。
 それはそれで、三島の凄さだなぁ と思う。

 

 最近読んだ本に、佐藤秀明氏の書いた『三島由紀夫 悲劇への欲動』(2020年10月20日刊)という本がある。

 そのなかで、
 「三島由紀夫は死後に成長する作家だ」
 という文芸評論家・秋山駿氏の言葉が紹介されていた。

 

 なるほど、と思った。
 おそらく、没後50年のあと、「没後60年」、「没後70年」という形で、三島は奇跡のように復活を遂げるだろう。
 あの「謎の死」があるかぎり。 
  

  
 最後に、三島の初期短編について触れる。

 冒頭で私は、彼の初期作品に感動したことを書いた。
 それは、『花ざかりの森』であり、『中世』であり、『岬にての物語』である。
 なかでも、彼が16歳のときに書いたという『花ざかりの森』は、いまだに忘れられないほど美しい短編だと思っている。

 

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 この短編には、巻頭にギイ・シャルル・クロスという詩人の作ったエピグラフ(銘句)が添えられている。

 

 こんなフレーズだ。

  かの女は森の花ざかりに死んでいつた。
  かの女は余所(よそ)にもつと青い森があると知つてゐた。
  (堀口大學 訳)
  
 ここでいう「余所(よそ)にある青い森」が何を意味するのか不明だが、想像するに、その場所は、とにかく今いる場所からとてつもないほど遠く離れていて、もしかしたら、人間は到達することもできないかもしれない、という含みを持った場所である。

 

 私は、三島由紀夫という人は、この16歳のときに掲げたエピグラフを、生涯なぞった人のように思える。

 つまり、「死」の彼方にある、「もっと青い森」を生き続けた人なのだと思う。

 

 

 

 



 

 

 

 

a moment of movement (うつろひ)

 

 秋から冬に変わるこの季節。
 1年の中で、景色がいちばん贅沢になる。
 公園を散歩していて、そう思った。

  

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 木々の葉が、絵具を盛ったパレットのように、にぎやかになる。
 朱色に輝く紅葉。
 黄色に燃えるイチョウ
 
 そして地面は、その落ち葉のジュウタンで彩られ、1年のうちでも、もっともゴージャスな大地に変わる。

 

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 あとほんの数週間経てば、冬枯れた風景に一変するというのに、初冬の自然は、豊穣な色彩の恵みを謳歌している。

 

 だからこそ、寂しい。

 

 空がいちばん鮮明に燃え上がる瞬間というのは、日没の直前であるということを、われわれは経験的に知っているからだ。

 

 最も絢爛(けんらん)と輝く光景の中に、来たるべき「滅亡」の影を読む。
 それは、強盛を誇った権力者の衰退や、絢爛たる輝きを持った文化の終焉などに「美」を感じる日本人的な感受性のなせるワザかもしれない。

 

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 日本が誇る古典文学の『平家物語』の冒頭には、
 「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音」に「諸行無常の響き」を感じ、
 「沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色」に「盛者必衰のことわり」を感じるという日本的感性が描かれている。

 

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 そこに、仏教に基づく “東洋的無常観” を見る声は多いが、しかし、それこそ、明確な「四季」を教えてくれる日本固有の思想であったかもしれない。

 

 外国人観光客が、日本に長期滞在して、いちばん驚くのは、日本の四季の鮮やかな変わりようだという。

 

 夏から秋に、秋から冬というように、時が「微妙な変化」をともなって過ぎていく情感を表現する言葉が英語文化圏にはない、という話を聞いたことがある。

 

 この微妙な変化を、しいて日本語でいえば、「うつろひ = 移ろい」という言葉になる。

  

 この「うつろい」という語感をもっとも象徴的に表すのは、障子に映る木の影だ。

 
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 障子は人間の視界を、あえてストレートな “自然” から遠ざける。
 しかし、遠ざけた分だけ、逆に、見えないはずの「時間」が視覚化される。

 

 つまり、時を経るごとに移動していく障子の影が、「時のうつろい」を教えてくれるのだ。

 

 この「うつろい」を無理やり英訳した外国人は、何という言葉を当てたか。

 

 a  moment  of  movement

 

 「時の流れ中の “瞬間” 」という意味になるのだろうか。

 

 韻を踏んだ語感は美しいし、訳語の意味も「なるほど!」と思えなくはない。
 でも、どこか違うような

 

 要するに、時間や季節が、ひとつのグラデーションを描くように変化していく様子を表現すると、やはり、日本語と英語では微妙な違いが生まれる。

 

 「自然」を、あたかも「アート」や「文学」のように感じる日本人の感性が生まれたのは、この細やかな変化を見せながら移ろう日本独特の「四季」のせいであったかもしれない。

 

 

コント・信玄と勘助の密談

  

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山本勘助】(上) お屋形様、浮かぬ顔していらっしゃいますな。
武田信玄】(下) そちの気のせいだ。ワシは楽しんでおる。ほら、庭の紅葉を見てみよ。良い眺めじゃろう。
 

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【勘助】 日頃紅葉などに興味を持たれないお屋形様が、また今日はどうして庭など眺めておいでなのです?
 もしや、NHK大河ドラマ麒麟が来る』に出てくる明智光秀織田信長の評判を気に病んでいらっしゃるのではございますまいな(笑)。

 

【信玄】 そちは、ちと口が過ぎるぞ。あのドラマはワシのライバルである織田信長が滅ぶ話を描いておるのじゃ。だから、ワシはむしろ愉快な気持ちでいる。
 それにあのドラマはそろそろ終わるぞ。
 

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【勘助】 まぁ、そうではありますが、…… 本来ならお屋形様が、信長や家康を撃ち滅ぼすような脚本でもよろしかったと思いますがな(笑)。
【信玄】 そんなことは特に気にはしておらん が、目障りではあるのぉ。
【勘助】 何が でございましょう?

 

【信玄】 明智光秀という男、決してあのように眉目秀麗ではないわ。
【勘助】 これはしたり! 役者の演じる光秀役に、お屋形様が本気で関心を示されるとは(笑)。いつものお屋形様とは思われませぬ。

【信玄】 ワシは、あの役者の顔を見ていると、興が削がれると言ったまでじゃ。
 実際の光秀があのようなイケメンであろうはずはなく、それこそ歴史の冒涜じゃ。

  
【勘助】 気になさいますな。明智ごとき武将などしょせん裏切り者でございます。後世のウワサもかんばしからずと。
 それよりも、お屋形様が数々の武勲を上げられたことは、後世の歴史家が見逃すはずはございません。

 

【信玄】 ほんとうにそう思うか?
【勘助】 もちろんでございます。特に、上杉謙信と戦った「川中島の戦い」などは、戦国の合戦の白眉として後世の歴史を学ぶ者が称賛することでしょう。

 

【信玄】 待て待て。勝ったとはいえ、ワシは馬上から謙信に斬りつけられたのじゃぞ。

 

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【勘助】 ご心配なく。しょせん、謙信が単騎突入してきたというのは負け戦の腹いせ。
 一軍の将が、あのような軽挙妄動の振る舞いを起こすこと自体、頭の弱さを知らしめているようなものでございましょう。

 

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【信玄】 そう決まったわけでもないぞ。後世、あの謙信の振る舞いを講談などに採り入れてはやし立てる講釈師が出るに決まっておる。斬りつけられたワシは、いい面(つら)の皮じゃ。

 

【勘助】 そこを堪えたからこそのお味方の大勝利。お屋形様のご威光が薄れることなどありますまい。

 
【信玄】 ところで、勘助。そちは何でここにおる? 川中島の戦いで死んだのではなかったか。
【勘助】 そのようなことを、あまり気にする読者もおりますまい。「信玄公」といえば、この「勘助」。2人揃ってこそ、武田の伝説というものが維持されるのでございます。
 
【信玄】 そのようなものかのぉ
【勘助】 「信玄餅」に「勘助饅頭」。きっとこれが、後世にまで当地の土産物として残ることでございましょう。

 

【信玄】 「餅」として残ったとてしょうがないわ。この正しき信玄の姿を、どれだけ後の世に残すことができるのか、それを思うと、気も晴れぬわ。
 なにしろ、ここ最近、このワシを主役としたドラマがさっぱり作られなんだわ。勘助、ゆゆしきことぞ。

 

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【勘助】 何を申される。かつてはNHKの大河ドラマ風林火山』にご出演なされたではないか。
【信玄】 あれはそちが主役ぞ。このワシは、引き立て役じゃったわ。
 
【勘助】 ならば、黒澤明の『影武者』がございましたぞ。

 

【信玄】 何を申すか。あれこそ「影武者」が主役の映画。本物のワシなど、ほとんど出んかったわ。
 それに比べ、負け戦で名の売れた真田幸村のような武将を堺雅人が演じたり、戦国武将としては影の薄い黒田官兵衛岡田准一が演じたりして、それぞれ評判をとっておる。

 

【勘助】 真田幸村黒田官兵衛も小物でござる。
【信玄】 信長はどうじゃ? あやつは『信長の野望』などというゲームの主役を務め、いい気になっておるぞ。
 このままでは、武田は、織田家明智家にも真田家にも後塵(こうじん)を拝すことになろうぞ。
 

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【勘助】 ならば、ここで後の世に残す大きな業績をつくらねばなりませぬな。
 信長は、市場経済の先駆者などといわれ、一時は経営者向けの経済誌などの主役として引っ張りだこに成り申し、近代日本の創始者のごとき扱いを受けておりまする。
 また謙信も、「義」に生きる爽やかな武将として再評価も高いとか。
 お屋形様も、ここらで後の世の評価を万全なものとするセールスポイントをアピールするのが肝要と心得ます。
 

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【信玄】 それ、それよ勘助。先ほどより、ワシはそのことを勘案しておったのよ。
 そちが見たワシの美点とは何か。ざっくばらんに申してみよ。

 

【勘助】 信長、謙信になきもので、お屋形様だけが有している最大の力は、常人が逆立ちしても太刀打ちできぬ、その冴え渡った「智謀」でございましょう。
【信玄】 智謀か 。 『チボー家の人々』、マルタン・デュ・ガール。
【勘助】  …………………………
 
【信玄】  どうした勘助。何か反応してみよ。
【勘助】 …… いや、申し訳ございませぬ。ちと聞き逃したようでございます。

【信玄】 そちは、今がっかりしたような顔をしたが、他に良き思案がなきと思ったゆえか?
【勘助】 いえいえ、良き思案が生まれましたでござりまする。

 

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【信玄】 言うてみよ。
【勘助】 思えば、我らの旗印は『風林火山』。これを売り込もうではございませぬか。
【信玄】 どのように?
 

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【勘助】 風、林、火、山。これ、みな「自然」を意味しておりまする。次の世は、アメリカの頭領バイデン殿が国を率いるようになり、パリ協定とかいう約定に馳せ参じるとか。
 おそらく世を挙げて「環境問題」が大きく審議されることになりましょう。

 

【信玄】 なるほど。環境問題か。
【勘助】 そこで、先手を打ち、この『風林火山』を「自然の恵みを尊重する」エコロジーの旗印として、後の世に訴えかけてはいかがでござろう。

 

【信玄】 おお、それは妙案だの! 
 

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【勘助】 すなわち、まず「風」。これは風力発電を得んがための標語となす。
 次なる「林」は、森林保護をめざしたるもの。
 「火」というのは、石油や石炭といった化石燃料に頼ることなく、薪や炭といった天然資源によるエネルギーの獲得を訴えるもの。
 そして、「山」とは、健康のための登山を奨励するがためのもの。
 このように宣伝すれば、お屋形様の先見性を、否が応でも後世の者どもが認めることになりましょうぞ。


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【信玄】 そちはなかなかの知恵者じゃのぉ。さすがは武田家の軍師じゃ。
【勘助】 なんの。お屋形様の頭の中にあるお考えを、この勘助、厚かましくも取り出しただけでござる。勘助一人では、とてもこのような知恵は回りかねまする。

 

【信玄】 しかし勘助、どのような形で、そのことを後の世に訴える所存ぞ。

 

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【勘助】 それを書き留めた書状を頑丈なる大箱に収め、「武田の埋蔵金」と偽って、後世の者たちが発見するまで、地中に埋めておくというのはいかがでござろう。

 

【信玄】 なるほど。「隠れ軍資金」というウワサのみ流しておけば、後の世の者たちが、血なまこになって探し回るであろうな。
 勘助、良き知恵を出したものよ。これで武田は安泰じゃ。
 

   


 

 

陰謀論はウイルスである

  
 アメリカ大統領選も、選挙から3週間経って、ようやく決着がつく気配が見えてきた。

 トランプ氏がいまだ敗北を認めないまでも、国家の機密情報などを次期大統領のバイデン氏に移行させることを同意したことによって、ようやく一連の騒動に終止符が打たれる模様だ。

 

 しかし、それとは別に、いまメディアが関心を示している大統領選の話題に、もう一つのテーマが浮上してきている。

 それは、
 「アメリカ国民の間で、なぜ “陰謀論” がこれほど大きな影響力を持ったのか?」
 ということだ。

 

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 これについて、慶應義塾大学渡辺靖教授が、『文藝春秋2020 12月号』において「米大統領選を揺るがすQアノンの正体」という原稿を寄せている。

 

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 また、BS-TBSの『報道1930』(11月23日)では、『誰かが裏でアメリカを操っている 「陰謀論」』というタイトルで、国際基督教大学の森本あんり教授、慶應義塾大学の中山俊宏教授らをゲストに招き、アメリカ大統領選で浮上した陰謀論について語り合っている。

 

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 陰謀論といえば、トランプ支持者の間に広まった「Qアノン」が代表的なものとされるが、陰謀論そのものは最近話題になったものではない。
 1770年代から、ずっとアメリカ社会を覆ってきた問題だという。

 

 そこには、アメリカという国を支える人々の「特殊な思想」、「特殊な信仰心」などが絡んでいる。
 それを抑えておかないと、アメリカという国の真実を把握することはできない、と識者たちはいう。

 

 「報道1930」という番組では、アメリカの陰謀論の歴史を簡単に紹介していた。

 

 最初に、陰謀論らしきものがアメリカに登場したのは、1770年頃。
 世界制覇をもくろむ「フリーメーソン」という秘密結社が、アメリカの中央政府を操っているというデマだった。

 

 これはそのうち沈静化したが、1850年代になると、カトリック信者がプロテスタント信者を追い払おうとしているという陰謀説が広まった。
 これも次第にデマだということが分かり、そのうち下火になった。

 

 さらに時代が下り、1950年になると、マッカーシーという共和党上院議員が、「共産主義者アメリカ政府の転覆を図っている」と議会で訴え、またたく間にそのデマを国中に広めた(マッカーシズム)。

 

 このデマもやがて沈静化したが、「共産主義」に対するアメリカ人の恐怖はいまだに根強く残り、それが今回の大統領選でも、「民主党共産主義からアメリカを守る」というトランプ氏の主張を説得力のあるものにした。

 

 最近の陰謀論で有名なのは、「ディープステート」という考え方。
 これは、
 「今のアメリカは、闇の国家(ディープステート)に支配されており、それが国民をむしばんでいる」
 というもの。

 

 そのディープステートを組織しているのは、民主党のリベラル派議員や財界の金持ち、ハリウッドの大物スター、そして大手メディアの記者など。
 彼らは児童の人身売買や性的虐待に関わっており、自分たちだけの快楽にふけっているというのだ。

 実は、これが最近話題になっている「Qアノン」という “陰謀論信者” たちの主張だ。

 

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 こういうデマは、2016年頃からささやかれるようになったが、2020年にトランプ氏の二期目の大統領選が過熱するようになってから、
 「トランプこそディープステートと戦う救世主だ」
 という主張がトランプ支持者たちの間で広まり、トランプ氏を神格化する原動力となった。

 

 正常な神経を持った人には、このニュースの怪しげなところを即座に見抜けるだろうが、この情報を信じたトランプ支持者は選挙戦の後半、ますます過激になっていった。

 

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 その手の主張のなかには、
 「新型コロナウイルスは、トランプをおとしめるために、リベラル派の科学者が作り上げたものだ」
 とか、
 「コロナウイルスは、中国の生物兵器だ」
 などという “トンデモニュース” がまことしやかに入り交じり、ネットからネットへと、人から人へと、ものすごい勢いで拡散した。

 

 このような、Qアノンを中心とした人々が訴える「ディープステート」という陰謀論にはそれなりの根拠がある、と語るのは慶応義塾大学の中山俊宏教授だ。

 

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 「そもそも最初から、アメリカ人は連邦政府を信じていない」
 という。

 

 西部開拓時代、五大湖の岸に上陸し、そこから幌馬車を買って西へ旅した人たちが信じたのは、自分の家族とその周辺にいる仲間だけだった。

 

 やがてそのグループを中心に「町」がつくられる。
 そこでようやく、信じるに足る人々の数が、町の住人の規模にまで広がる。

 

 そういう「町」がいくつも集まって、「州」になるわけだが、「州」の規模にまで広がってしまうと、「町」の住人たちには、生活実感として「州」を把握することが難しくなる。

 

 その「州」の上に、「連邦政府」が君臨することになるわけだが、それは多くのアメリカ人にとっては、もう正体の分からないもの すなわち「ディープステート」そのものなのだ。

 

 そういった意味で、陰謀論が力を持つのは、基本的に、「連邦政府」の方針に関心のない地方(田舎)の人々の間である。
 
 こういう場所に住む人々には、「連邦政府」のやっていることはみなインチキ臭く思える。
 
 自由貿易の推進。
 移民の流入
 多国籍企業同士の連携。

 

 すなわち「連邦政府」が推進しているグローバリズムは、地方の労働者たちからみると、自分たちの暮らしや労働を奪う政策にしか見えなかった。

 

 実際、グローバリズムによって、工場がアメリカから他の国へ出ていったため、製造業の雇用が失われた。
 同時に英語を話さず、宗教も違う人たちが移民としてアメリカに流入してきた。

 

 こういう事態にさらされたアメリカの白人ブルーカラーからみると、「連邦政府」は信用のならない存在に思えてくる。

 

 そうなれば、「連邦政府」そのものが「ディープステート」に見えるまでには、それほど時間がかからない。

 

 白人ブルーカラーを中心に陰謀論が勢力を持つようになったのは、これまでアメリカ社会を構成していたヒエラルキー地殻変動が起きたからだという。

 

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 『報道1930』というニュース番組によると、アメリカ人たちの意識を規定してきたヒエラルキーはかつては、次のようなものだったそうだ。

 

 まず、社会の最下層に「難民」がいる。
 その次が「移民」となる。
 その上に、「白人ブルーカラー」がいて、さらに上に「白人ホワイトカラー」がいる。
 そのようなヒエラルキーの最上層に君臨するのが、白人大富豪である。

 

 このヒエラルキーのなかで、「女性」と「黒人」の社会的地位は、せいぜい「移民」と「白人ブルーカラー」の間ぐらいとされていた。

 

 ところが、1980年代以降、アメリカのグローバリズムが世界を席巻するにつれ、それまでアメリカ社会を構成していたヒエラルキー地殻変動が訪れた。

 

 「難民」、「移民」が労働力として認められるようになり、それにつれて、彼らの地位が向上した。
 それと歩調を合わせるように、「女性」や「黒人」の地位も向上した。

 

 相対的に地盤沈下を始めたのは、白人ブルーカラーだった。
 彼らは、「移民」、「女性」、「黒人」よりも下位の存在に見られるようになり、経済的にも困窮し、プライドも傷つけられた。

 

 それを “救った” のがトランプ氏だった。
 だから、白人ブルーカラーたちは、「トランプが仕事を取り戻してくれた!」と歓声をあげた。
 さらにいえば、トランプ氏は、白人ブルーカラーたちのプライドも取り戻したのだ。
 トランプ氏の神格化は、これによっていっそう強化された。

 

 陰謀論が力を得ていったのは、このトランプ氏の神格化と歩調を合わせている。

 

 トランプ氏が、大統領選挙の結果に不満を抱き、「私が選挙に負けたのは民主党が不正を働いたからだ」と氏が叫べば、それは “神の声” だった。

 

 もともとアメリカは、強固な信仰心を持つ人々が暮らす心宗教国家である。
 
 なにしろ、イギリスから、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡ってきた最初の “アメリカ人” たちは、
 「自分たちは、汚れたヨーロッパの地を離れ、新しい大陸で神聖国家をつくるのだ」
 という理想に燃えて上陸した。

 

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 そのときすでに、自分たちの「聖なる生き方」と異なる宗教、民族、文化に対する警戒心と嫌悪感が彼らの胸の内に宿っていた。
 
 陰謀論というのは、このような “異質なもの” に対する警戒心と嫌悪感から生まれる。
 すなわち、そういう考え方が目指すものは、異物を排除するときの爽快感である。
 
 「爽快感」を求めるわけだから、陰謀論には科学も合理性も必要ない。
 
 よって、陰謀論はいつの時代にも、主張を変え、敵を変え、ウイルスのように人に取り付いてくるはずだ。